見出し画像

チェリーブロッサム コンプレックス(ウサギノヴィッチ)

 どうも、ウサギノヴィッチです。
 
 日差しが暖かくなって、電車の窓際に座っていたら、眩しいながらもウトウトしてしまいました。
 春がやって来てますね。
 春が来るとメランコリックな気持ちになっちゃうんですよね。同じことが秋にも起きるですが、秋の場合は完全にダウナーな感じなんですが、春の場合はアッパーも入ってるんですよね。
 
 桜の木になにか引き寄せられるものがあって、坂口安吾や梶井基次郎の世界観というか、ようは華やかなものとダークなものがごちゃ混ぜになっている感じ、そういうものに憧れているというか、惹かれているんですよね。
 
 大学生の時なんかは、その気持ちがビンビンにあって、友人の家でオールをしていて、自分だけが寝れなくて、朝に散歩をしていたら、小さい公園ですが桜の木が何本も植わっていて、もうその時期は花びら散っていて、公園の地面が一面に桜の花びらの絨毯になっていました。それを見ながらブランコの枠というか柵に座って、桜やその光景をなんとなしに見ていました。その時になんとはなしに閃いたのですが、桜の木に首吊り死体があったら面白いなと思いました。それも普通のではなくて、着物着た少女の。そして、その下にも、鞠を持った別の着物を着た少女が立っていたらなお良いかなと。
 当時のセンスなので、笑ってやってください。決していいとは今では思ってません。ベタだと思ってます。
 しばらく、それが頭に引っかかったまま、タバコを吸い桜の木を眺め、吸い終わると友達の家に帰りました。
 しばらくは頭がハイテンションになり、そのイメージは消えませんでした。そのときは、文章を書くことを知らなかったので、ただ漫然と頭の中に自分の想像したものが頭にこびりついている状態でした。だれかに話したいとは思いませんでした。自分の頭の中にあるだけで満足でした。
 
 それ以来、桜といえば「着物着た少女の死」というのがありました。今から考えてみるとメンヘルみたいな想像力だと思います。
 
 ただ、今も「桜」といえば、「死」というものを想像します。それは安吾や梶井の思想が入ってる部分があると思います。
 あの華やかな桜とその下で人がどんちゃん騒ぎをやっているのを見ると、どこか違和感を感じるのです。あんなに浮かれてて、本当は暗い部分があるのではないだろうかと。そんなことを勘ぐってしまうのです。
 考えすぎなのは分かります。「桜の下」にはなにもありません。「孤独」を感じるのは僕の被害妄想的なものなんだと。
 
「そんないらん葛藤抱えているなんて厨二病かよ」と思うかとしれませんが、僕にとって桜というのは、一種の神聖なもので、自分と闇の部分を繋げるものなんです。
 
 僕は毎年上野公園に行って花見をしている人たちを見て、そのまま散歩がてら日暮里まで歩いて行きます。それは僕にとって聖地巡礼みたいなもので、それをすることで桜の季節が始まり終わるということを実感するんです。
 
 みなさんは、こんなこんがらがった思考の中で桜を見ることはないかと思います。
 どうか僕を笑ってやってください。
 でも、それだけ桜を愛しているのかもしれないし、なにか因縁めいたものを感じているからそうしているんだと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?