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多くを語らないということ(ウサギノヴィッチ)

 どうも、ウサギノヴィッチです。
 
 人の性格は、根源的なものは変わらないにせよ、表層的な部分は環境によって変わる。
 それは自分がいい例だと思っている。
 一月から職場が変わり、それによって新しい人間関係ができたし、職場内でのキャラクターを自分に作った。それは素に近い部分ではないものの、それに近い部分はある。
 仕事を一緒にやる人達は家族よりも長い時間共にする。
 最初の方は人見知りをして喋れなかった自分が、先輩社員のおかげでふざけた話もできるようにもなった。
 最初に言ったことは、これを指してるのではないのだけども、内包するのかもしれない。
 もっと掘り下げて言えば、僕はこの仕事に就いてから仕事に対して慎重になった。今までの仕事が不真面目だった訳では無いけど、いまいち働いているという実感がなかった。それが色々と仕事をやらせて貰えるようになったし、どの仕事も責任を問われる仕事なので、慎重にやらなくてはならなかったというのもあるが、そのおかげか、仕事しているという実感がある。
 上手く言えないが人は何かになろうと思ったときに、その意思さえあれば、自分が変われると言うのがいいたいのかもしれない。
 ただ、今回読んだ短編は違う。
 
 ブッツァーティの『変わってしまった弟』は違った。
 めちゃくちゃなことをして周囲を困らせていた弟が、兄弟で恐れていた少年院みたいな寄宿学校に行くことになった。
 家を出るときは、「一週間で脱獄してくる」と言って出ていった。それから、主人公である兄にと連携して、脱出計画を塀の中と外でやり取りしようとするが、一向に弟から連絡が来ない。兄には心配してしまう。一回だけ、校舎の中から兄に向かって弟が顔を出したが、「まぁ、落ち着け」みたいなサインを送って引っ込んでしまう。長期休暇で家に帰ってきたが、姿かは性格まですべて変わっていた。それを兄は心配したし、それ以来、弟は元の弟に戻ることはなく、生活した。
 
 ブッツァーティは幻想文学の作家であって不条理な作品も書くが、この作品は具体的なものが多い割には、果たして寄宿学校で何が行われているのかがわからないという不思議さだけが残る。
 まず第一に思ったのは、学校内での教育の一環で時計じかけのオレンジみたいなことが行われているのではないかと想像してしまった。そういう拷問にも似た何かがないと人の性格がまるっきりがないと思ったからだ。
 次に想像したのは、本当に教育が整っていて心底変わってしまったのかもしれないというパターン。
 最後は、弟が自主的に変わらざるを得ない状況になってしまったということ。それは、洗脳と違って大人しくしている方がなにかしら利が得られると踏んだからだ。
 ただ、どれにしても何かしらの変化があったことは間違いない。最後のパターンはないかもしれないが、最初と二つ目は、洗脳を受けていることになる。
 学校に高い壁があり、外からはなにをしているか分からないという描写がある。つまり、学校でなにかしている、されているのは間違いないのだが、それを一個もヒントを出さずに、弟の性格が変わってしまったことを伝えている。
 想像できる幅が広くて、雲を掴む話だ。そして、奇妙な話である。
 
 ページに十五ページなのに、ここまで奥深い話なのが、なんとも言えない。だれでも書けそうな話だが、作者が違うときっと全然成立しない作品になってしまうのではないだろうか。
 だれにでも書けそうと言ってしまったが、もちろん書けない人がいるのは承知の上で書くが、ベタベタなことを書いたとしても、それを感じさせない筆力に僕は驚いている。ブッツァーティはいくつか作品を読んだがこれはちょっと異物のように思えた。
 
 今回の作品読んでみて、いくら普通の作品を書いてもどこかを隠すと、読者の想像力を沸かすことが出来るし、ベタだとしても書き方次第では既視感がない作品にすることができるということが勉強できた。
 どれもすぐに実践出来そうなことだ思った。

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