沓川

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【連載小説】フェアーグラウンド・アトラクション(1)

 一希の言うことをあまり鵜呑みにするべきではないというのを私は知っていた。そもそも一希自身が自分の言いたいことを自分でもよく理解していなかったかもしれない。一希はどんなことにも迷っていた。選択肢すら与えられていないのに、自ら進んで無数の選択肢を増やし続けていることに一希は気づいていなかった。例えばそれは、たまに出る彼の唇の細かな震えや、弛緩する声色、とびとびに繰り出される言葉の連関のなさに表れた。つまり一希は、小さな言動に自分を縛りつけたがる人だった。  なので、一希を知るた

    • 夢の入り口、記憶の出口──アグアルーザ『過去を売る男』を読んで

       アグアルーザはアンゴラ出身の作家。小説『過去を売る男』では、「記憶」と「夢」をテーマに物語を書いている。その二つの主題について、今回は語ってみたい。まずは引用の言葉から「記憶」というものの正体を探ってみる。  想像してみよう。あなたは列車に乗っている。電信柱とその間で撓む長い電線。人のいない民家。トンネルや山の中を通れば、樹々や小川。これらの車窓の風景は通り過ぎては、夥しいほど連続的に入れ替わっていく。それによって、直前の視像がルーズな過去のイメージへと次々に姿を変えていく

      • 【旅行記】尾道をめぐって:ヌーヴォー・ロマン的くるま旅

         気がつけば、突入していたゴールデンウィーク。「尾道」に行くことを決めたのは前日だった。  今回の旅の目的は「車で遠出する」というシンプルなもの。気軽なアヴァンチュールを楽しむことができれば、それでよしとした。なんせ免許を取ってから、初めてのドライブ旅行。ナビを見ながら目的地までたどり着き、駐車場に車を停め、用を済ませたら安全運転で帰ってくる。この一連のトラベル・ミッションをクリアすれば、ドライバーとしての確かな一歩を踏み出せるに違いない。  そこで、行き先は?となり、三つ

        • ソレルス…フランス文学の巨星がひとつ堕ちた

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        【連載小説】フェアーグラウンド・アトラクション(1)

        • 夢の入り口、記憶の出口──アグアルーザ『過去を売る男』を読んで

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          【短編小説】 N3

           火曜日の朝、東京メトロ〇〇線××駅のホームで起こった出来事は日本中を震撼させた。時間帯は午前の九時頃。通勤ラッシュが一旦落ち着いた××駅のホームはいつもより閑散としていた。人を乗せた地下のエスカレーターは延々と上下運動を繰り返した。上を見上げれば、地上を覆う写し鏡のようなホームの天井がある。その下で、人の気配を帯びた輪郭はうっすら消えかかっている。移動の現象は停滞、追従、明滅といった意味合いに書き換えられていた。  ××駅は日々の生活の中に含まれてはいけない場所だと言える。

          【短編小説】 N3

          背後の炎

           出会いがあれば別れがある、という言葉がある。大体は、出会いにもいつか必ず別れが来る、くらいの意味合いで取られることが多い。そうした理解の場合、背後には死という存在(による波及物)がある。そして、極端に漠然としていて通俗的なポジティブ・シンキングが、その両脇を純粋無垢な子供のような顔で固めている気配がある。  それに対して(というか、そうした通例に反して)「別れそのものであるような出会い」というものがある。そんな時は「私にあったが最後、あなたは終わり」、そう囁く声が聞こえる。

          背後の炎

          【短編小説】ショート・グッドバイ

           夜も深くなった午前三時。さっきまで見ていた夢は、高校生の私。教室で高らかに歌を歌い、王様のように自由に振る舞い、それにつられて周りのみんなも陽気になり、先生に不満があるときは大声で不満をぶちまけ、理路整然と論破する。そんな夢だった。私はこうした夢を今まで何度も見てきている。目が覚めた後は、かならず不思議な気持ちになる。色で表すならば、淡いミント。透明人間になって、幾つもの壁をすり抜けて、ここまでやって来たような感覚。ところで現実の私は、無口でとても大人しい生徒だった。大人し

          【短編小説】ショート・グッドバイ

          【詩】 爪と聖

           明るい春先、研鑽を積んだヤブ医者がわたしを囲んでいる。壊れた傘が空中を旋回し、わたしは裸足のまま空を見上げ、余計に空は白んでいる。高価な太陽に照らされて、一回忌の速度で、わたしの影はどんどん伸びていく。手首には深い緻密な皺ができ、冷たい粘膜が頬を覆い、目に見えているものすべてが一切合切更地の底に沈んでいく。  解決策なんてない。場違いな地獄が延々と続くだけ。観客のような気持ちで、わたしはわたしがやったことを眺めることしかできないのね。それが疑わしいのなら、遠くへ行くことな

          【詩】 爪と聖

          【短編小説】ハピネス・イズ・ア・ウォーム・ガン

          この物語には、『チェンソーマン』のネタバレ(「第一部公安編」まで)が一部含まれています。まだ漫画を読んでない方、いまアニメを観ている方は、ご注意ください。           ***  とある水曜日の正午、わたしは大学構内にあるベンチに腰掛けて、人を待っていた。ベンチの周りには、ダリアやライラックの花々が色とりどりに咲いている。その穏やかでのどかな景色の反面、どこのどんな人がその花を植えているのかいつもまったく検討がつかなかった。ただ健気に、ほぼ等間隔に植えられていること

          【短編小説】ハピネス・イズ・ア・ウォーム・ガン

          【短編小説】 暗紅街

           ぼくはいま東京の街にある喫茶店で、この物語を書いている。ここの喫茶店の隣には、整えられた花壇が店先に置かれ、香辛料の良い匂いがする東南アジア系のレストランがある。その近くを歩くと、ぼくはいつもあの瓦礫まみれの暗紅街のことを思い出す。  それは砂漠の上につくられた街だった。無人の通りと、錆びれたバス停、今にも倒れそうな信号機。萎れた新聞紙が並んでいる街角の小店で、ぼくは水とチューイングガムを買った。ひどく喉が渇いていたから、キャップを開けて水を一息で飲み干し、銀紙を破いて芋

          【短編小説】 暗紅街

          【短編小説】 兄妹病

           白状すると、わたしが弟の裸を見たのは、あれが最初で最後だった。わたしはある昼下がり、湯浴みをして、体の汗を流していた。木造のほの暗い風呂場には、あるようでないような窓から、白昼の明るみが垂れ込めている。蝉の騒がしい鳴き声、桶から流れ出て、ビシャリと床に叩きつけられる湯の音が耳にこびりつき、恐怖心が煽られる。  いつの間にか、ぼやけたガラス戸に栗色の弟が映っている。狭い脱衣所で、上半身にタオルをかけたまま、判別のつかない影をガラス戸にこすりつけている。わたしはその時、空っぽの

          【短編小説】 兄妹病

          【短編小説】浴槽の交差点:「ドライブ・マイ・カー」と宇多田ヒカルの音楽について

           休日のよく晴れた昼間、窓に映る太陽の日差しが眩しい午後、私は急に風呂の掃除を思い立った。何かが光の中で弾けたのである。その欲求はほとんど発作的な衝動と言ってよかった。  ついさっきまでベッドに横になりながら、「ドライブ・マイ・カー」の予告編を観ていたのが嘘のようだった(私は数ヶ月前にその映画を夫と二人で観に行っていた)。布団から顔を出し、めくるめく九十秒のハイライト映像を見終わって、「いい映画だったなぁ」と回想していた時には、体が浴槽の中に立っていたのだ。一方、心のほうは布

          【短編小説】浴槽の交差点:「ドライブ・マイ・カー」と宇多田ヒカルの音楽について

          【短編小説】 春を突く

           わたしはある朝方、近所の横断歩道を渡っていた。よく通りかかる道路標識は、いつもより少し黒ずんで見える。一歩一歩足が前へ出る度に、不気味な金属音が頭を揺らす。背中にはじっとりと汗をかき、頻りに、それも闇雲に木の枝がさざめいている。ガードレールの脇では、雨に誘われて出てきた大きなみみずがアスファルトの上をうねっている。薔薇色の雲は、今にもわたしの頭上に襲いかかってきそうな勢いだ。  悪臭を漂わすゴミ収集車が目の前を通りすぎていく。以前はもっと上手く歩けたのにと思う。一歩一歩が神

          【短編小説】 春を突く

          【音楽紹介】都会のFirst Light:Recommended Thai Pop / おすすめのタイ・ポップス

          夜のバンコクでは、雑踏が光を放つ。タクシーの車窓に映る夥しい数の雨粒、自動車は、都会の憧憬を象るのにうってつけのディスプレイとなる。その脇を颯爽と通り過ぎて行く三人乗りのバイク。鮮烈な光と無数の夜の明かりに要約される都会の喧騒。アスファルトに打ちつけられる雨の音。渦巻く人混み。バンコクは都会から聖別された都会的なプレザンスを熱狂的な夜の街に湛えている。 バンコクで印象的な、光輝く都市的情景の数々。こうした夜のバンコクをバックボーンに今回紹介するのは、タイ・ポップ、とりわけシ

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          【連載小説】フェアーグラウンド・アトラクション(6)

           ルカが死んだ翌年の春、一希は市内にある中高一貫の進学校に入学した。バスと電車を使い、一時間をかけて通学したそうだ。家を出たら、堤防の隣にあるバス停まで歩いて向かった。潮の香りが充満するバスに揺られ、市内の中心にある駅に下りる。そこから路面電車に乗り換えて、市街の小さな高校の前まで運ばれる。教室の席に着くと、洗濯洗剤ではなく海の匂いがすると友達からよく言われた。  強い日差しが海の漂いを支える。長崎の気候は特殊で、一年を通じて暖かいことには変わりない。ただ海の暖流と季節風の影

          【連載小説】フェアーグラウンド・アトラクション(6)

          【連載小説】フェアーグラウンド・アトラクション(5)

           非現実的な静けさを身に纏いながら、一希はその数秒間で何を感じていたのだろう。それが夏の夜の蒸し暑さであったとは到底考えにくい。どちらかと言えば、私のおぼろげな人間性、すなわち言葉を発さない人間が発するある種の素っ気なさ、あるいは問いかけに応じようとしない強情な冷淡さだっただろうか。普通ならば意地の悪さを感じざるを得ないあの状況で、一希は沈黙を差し固める私の幼稚さ、そしてその背後に揺らめく、目も当てられない私の暗晦な過去を既に見抜いていたのかもしれない。そういった事柄に関して

          【連載小説】フェアーグラウンド・アトラクション(5)