【詩】 爪と聖
明るい春先、研鑽を積んだヤブ医者がわたしを囲んでいる。壊れた傘が空中を旋回し、わたしは裸足のまま空を見上げ、余計に空は白んでいる。高価な太陽に照らされて、一回忌の速度で、わたしの影はどんどん伸びていく。手首には深い緻密な皺ができ、冷たい粘膜が頬を覆い、目に見えているものすべてが一切合切更地の底に沈んでいく。
解決策なんてない。場違いな地獄が延々と続くだけ。観客のような気持ちで、わたしはわたしがやったことを眺めることしかできないのね。それが疑わしいのなら、遠くへ行くことなんて諦めよう。ところで昨日わたしは、ついに真っ赤な鳩を見つけた。腐った林檎に羽根が生えたような鳩だった。
恐怖を感じてしまうのは、きっとわたしが雑魚を演じているから。大空は飛べなくてもいいから、より多くの間違いを犯すこと。地下倉庫に潜ってみると、逃げるというより、探すという感覚を掴めるかもしれない。明日になれば、いま言ったことなんて、あなたはたぶん忘れていると思うけど。
ヤブ医者たちは言った。
「ガス漏れには充分に気をつけることです。一回出ていってしまった気体は、後にはもう戻りませんからね。昔はぼくもそうでした。計算できない成り行きは計算できないままにしていました」
「扇風機はいらないですよ。こめかみに風を当てるだけでいいんです。秘密の生命を吹き込むように、そっと」
「あなたの匂いを色で例えるなら、心臓を彩るマゼンタ。簡潔であり、純潔、そんな感じがします」
わたしにとっての無音の音楽が誕生したのはいつだろう? 午後三時を過ぎた頃に、あなたが考えることは、自己の亀裂を意味する初恋。あなたが抱えている常識は、春の横断歩道で溶け、実体をなくした雪と一緒に崩れ去る。
最近、面白い夢を見た。安全ヘルメットを被った猿が、工事現場にあるクレーンを操縦していた夢。わたしはその光景を病院の屋上から見下ろしていた。信じられなかったけど、そんな現実ってあるんだね。わたしが大声でその猿を呼んだら、彼はこっちを見上げ、わたしに向かって軽く手を上げた。ヘルメットのつばを少し触ると、猿はハンドルを握って、また大きなクレーンを動かし始めた。あぁ、その瞬間に彼はわたしの友達だってことに気づいた。
あなたを連れて、図書を焼きにいきたい。想像してみて。山積みの図書の上に、数秒間、親指の皮が溶け出してくるまで辛抱強く、わたしが汗をかきながらこの手をかざすさまを。火の粉はパチパチと音を立て、わたしの視界は高熱で揺らぐ。黒煙の舞い踊るなか、あなたはわたしに近づけないでいる。これこそ本当の信頼関係だって思わない? そのとき、わたしたちの頭上で星が輝いているのは確実よね。今はそれだけしか言えないの。あなたがもう少し大人になれば、わたしからの報告もちょっとは増えるのに。
クリムトの絵を三回転させれば、世界を全面ガラス張りにすることができる。それを知っているのは、わたしと、あなたと、あと一人は誰だっけ?
「木が森と同化する瞬間、わたしは生々しい生の実感を意識するのです」
「きらびやかな都会の良さ、幼気な空想、長続きのしないおしゃべり、あなたが期待していたものはわたしを感動させ、失神させます」
「耳鳴りがしますね。これはあなたの声ですか? それとも、音響学的言語のささやきのせいですか?」
あなたの過ちを正すことができるのは、この世界でわたしだけ。わたしの過ちを正すことができるのも、この痣をつくった張本人であるあなただけ。わたしは免許証をもってないけど、車を運転してみたいとずっと思っている。そのとき、あなたは真後ろの後部座席に座ってね。命の保証はできないけど、あなたはその経験からたくさんのことを学ぶはずよ。
あなたのことを思い出そうとしてわたしは、マゼンタと呟いてみた。そうしたら、合計八百もの毛穴が一気に開いた。透明な雨雲が予想もしない言葉を口にし、そのせいでわたしの左耳は聞こえなくなった。なにかの逆鱗に触れてしまったのかもしれない。そう考えることも可能だったけど、わたしは生まれつきの人格破綻者だから、どんな事件に巻き込まれてもおかしくない。
熱い涙の迸り、押し戻された時間との再会に、あなたは酔う。
わたしが贅沢な死へと向かっているのは、死がわたしに似たような存在であるかを確かめたいから。ある日、わたしは気分が変わって、何年もかけて書き溜めておいたノートの切れ端を引き出しの奥から引っ張り出してみた。生産性のない会話の記録とか、黴菌の似顔絵とか、バジルについての詩とか、そんなのが書かれてあった。それを読んで、なぜか頭が壊れてしまった。そして、思ったの。世界が取り返しのつかないことでできているとしても、必ず返してもらいたいものがあるって。それは、わたしに幻滅した人たちが隠しもっていた、あの人たちの瞳の奥の奥にある、砂塵のように細かな黄色く光る粒。
わたしはあなたに、ついうっかりいろんなことを喋ってきた。宇宙について語ったつもりが、現実だとそれは、あなたの喉元にナイフを当てていたのと同じようなものだったのね。でも正直言ってわたしには、そのことについて謝罪するつもりが毛頭ない。猫は自分が猫だと気づかないってあなたが思っているのなら、わたしは猫。しかも、とびっきり優秀な街一番の黒猫よ。だから今までのことは許してほしい、それがわたしからのお願い。だって最高級の稀少性は、あなたの舌先から発するんだもの。
現実を直視するため、ヤブ医者たちは彼女のもとを去っていった。
ゆるやかな夜に、軽快な足音が響き渡った。
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