【短編小説】ハピネス・イズ・ア・ウォーム・ガン
この物語には、『チェンソーマン』のネタバレ(「第一部公安編」まで)が一部含まれています。まだ漫画を読んでない方、いまアニメを観ている方は、ご注意ください。
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とある水曜日の正午、わたしは大学構内にあるベンチに腰掛けて、人を待っていた。ベンチの周りには、ダリアやライラックの花々が色とりどりに咲いている。その穏やかでのどかな景色の反面、どこのどんな人がその花を植えているのかいつもまったく検討がつかなかった。ただ健気に、ほぼ等間隔に植えられていることだけは確かで、それはこのベンチに座れば、いつも通りの見慣れた光景にすぎなかった。
わたしは少しの間、雲がゆっくり横滑りするさまを眺めた。そして、講義を終えた解放感から太陽に向かって伸びをし、ポケットからスマホを取り出し時間を確認した。講義が終わって10分くらいが経つ。もうそろそろかな。わたしは「フクロウ」を待っていた。
「フクロウ」は男の子で、わたしの大学の友達だった。名前の由来は、彼が昼夜逆転の生活を送っているからというとても単純なもの。できるだけ人との交わりを避けるため朝から夕方にかけて睡眠をとり、本格的に活動を開始するのは、家の中も外も真っ暗になる夜の時刻かららしい。そのせいか、彼の大学での単位の取得状況は壊滅的なものだったので、わざわざ朝、彼の友達数名にSNSの通話機能を使って起こしてもらっていた。その内の誰か一人が協力していれば、今日も彼は自分が所属しているゼミに出席できているはず。
フクロウと私が出会ったのは、つい一年ほど前のこと。わたしが滅多に顔を出さなかったバンドサークルの打ち上げにたまたま参加した時、彼もまた偶然参加していた。最初に話しかけたのはフクロウの方だった。彼は哲学を専攻していて、私も英米文学を専攻していたから、似たような畑の者同士少しは気があったのだろう。話題が好きな音楽の話になると、少し酔っていた彼はクラフトワークの「Autobahn」をかけながら、「現代におけるロック・ミュージックの死」について滔々と話し始めた。うねっては光り、沈んでは浮かび上がる「Autobahn」の不気味なエレジーさだけがその時のわたしには印象的で、ロックに関して変に浅はかな彼の主張は耳にまったく入ってこなかった。ちなみにフクロウは、ミシェル・ウエルベックという彼お気に入りの作家の小説を読んで、クラフトワークの存在を知ったらしく、後日わたしもその作家の小説を読んでみた。そこで分かったことは、ウエルベックという作家が代表的なロック・ミュージシャンを偏愛的に好んでいるということで、フクロウが仕掛けた主張はその小さな後ろ足で、当の飼い主であるウエルベックに砂をかけるものだったということだ。
ただいつの日からかわたしは、フクロウと毎週水曜日、大学の片隅にあるこのベンチでちょっとした会話をすることになっていた。いつからそうなったのか記憶にない。それにどんな話をするのかも決まっていなかった。とにかく小一時間ほど他愛もない会話、つまり最近あった出来事や最近読んだ本、聴いた音楽、あとは差し障りのない身の上話について話すだけだった。
その様子を見て、いったい何人の友達から「エリ、フクロウと付き合っているの?」と聞かれたことか分からない。わたしは馬鹿らしさから、その問いに真正面から否定することはせず、「夜行性の動物とは付き合わないことに決めてる」と返すに留めていた。
ほどなくして、フクロウが道の向こうから歩いてくるのが見えた。だぼついたセーターと着古されたデニムパンツを身にまとい、煤けたスニーカーを履いている。いわゆるグランジ・ファッションがフクロウは好きだった。
「おはよう。今日も朝眠かったでしょ?よく眠れた?」
「うん、ぐっすり眠れたよ。あの教授は、生徒を眠らせる授業のスペシャリストだね。気づいたらチャイムが鳴っててさ、それからリアクションペーパー書いてたから、ちょっと遅れちゃった」
よく見るとフクロウの眼は、午後の眠気で完全に開ききってはいなかった。
昼休みの大移動で学生がごった返すキャンパスを尻目に、わたしとフクロウはいつものように些細なことを話した。まずは来週から始まる大学の試験のこと、そしてバイト先の話、最近聞いている音楽と今流行っている音楽について。水曜日はどちらも午後の講義がなかったから、時間を気にすることもなく、だらだらと話を続けることができる。お互い話題が尽きかけてきて、わたしが手持ち無沙汰にスマホをいじっていると、フクロウが何かを思い出したかのように喋り始めた。
「あっ!ねぇねぇ、エリさ、『チェンソーマン』って漫画知ってる?」
「知らない。何それ?」
「今すっごい流行ってる漫画らしくてさ。友達から借りて読んでみたんだけど、あのねぇ、面白かった。今度、読んでみたらいいと思うよ。キャラクターが立ってて、ストーリーもけっこういい。あっ、でもエリは漫画って読まないんだっけ」
わたしはなんとなしにスマホで「チェンソーマン」とググってみた。画面には、よく分からないチェンソーの仮面を被った男が表紙になっている漫画が表示された。
「へぇ。これが今流行ってるの?」
「らしいよ。オレも最近知ったんだけど。時間があったら、ぜひ読んでみてほしい」
正直に言えば、彼が漫画を勧めるのは珍しいことだった。フクロウと出会ってから一年、飽きるほど彼の趣味について聞かされてきたが、彼の口から漫画という言葉を聞いた覚えがない。そして、わたしはフクロウが言ったように、漫画を人生で読んだことがほとんどない。いや、ないに等しいくらいで、漫画は新聞やテレビと同様、手をつけることがないメディアの一つでもあったのだ。そのことをフクロウも知っていたはずだから、なおのこと珍しかった。
「ふぅん。分かった。じゃあ、この期末試験が終わったら、読んでみようかな」
ここで驚いたのは、わたしが何気なく放った約束の言葉を皮切りに、急にフクロウがその漫画について止めどなく、少し異常なほどの熱をもって語り始めたことだった。彼は小難しい専門用語を自慢げに振りかざしながら、『チェンソーマン』の「魅力」を伝えるようなことはせず、彼の言葉を借りれば「欲望に隠された性愛的無意識の正体」(何のことやら)を鮮やかに映し出すその「カラクリ」について説明し出した。
半分話を聞きながら半分彼の様子を眺めている内に、本当に笑いが堪えられない時が幾度かあり、どうしようもなくなってわたしは、Apple Musicに入れていたあの「Autobahn」をついつい流してしまった。それでもフクロウが、馬鹿馬鹿しいほど変調な音楽も意に介さず、同じ熱量のまま、同じ調子、同じ語彙で語り続けているのを見て、わたしはお腹が痛くなるほど笑いがとまらなくなり、ベンチにうずくまってしまった。フクロウはそんなわたしを見て悲しくなったのか、「エリも読んだら分かるよ」と言って、すんと正気に戻ってしまった。その感じがさらにおかしくて、さらに笑いが止まらなくなってしまった。それにつられて今度はフクロウも笑い出し、二人してベンチにうずくまった。それからお互い呼吸も落ち着き、少し喋って空に夕陽が見え始めた頃、わたしたちは別れた。わたしは腹筋がまだ少し疼いていることを感じながら、自転車を漕いでその日は帰宅した。
そんなことがあったからか、わたしは『チェンソーマン』を読まない訳にはいかなくなった。最後の試験が終わったその帰り道、書店に立ち寄り、今出ている全巻分の『チェンソーマン』を買って家へ帰った。帰宅してすぐに少しだけページをめくると、十何巻分をリュックに詰め、行きつけの喫茶店で温かいコーヒーを飲みながら、残りの全巻を読み通した。
読み終えた感想は、「面白かった」というその一言に尽きる。めくるめくストーリー展開とテンポ、キャラクターの個性の豊かさ、王道と異端のバランス加減は、漫画を読まないわたしでもこの眼と掌でじっくりと味わうことができた。それは「物語を読む純粋な喜び」として小説を読んだ時と変わらない何かを残してくれたとはっきり言える。
しかしわたしには、ことこの漫画に関しては宿題が残っている。そう、フクロウの一家言。わたしはあれをどう捉えればよいのだろうか。
彼の主張は、こうだった。
「『チェンソーマン』は、資本主義の経済社会にあって、現実を絶え間なく生産-現実化する欲望機械としての人間の在り方を鮮やかに描き出している」
どういうことだったのだろう。ミルクを入れ、コーヒーを口に含み、あの時の会話を少しずつ想い出していく。彼は最初、デンジとアキが闘いを繰り広げるあの「雪合戦」のシーンについて話していた。激しい戦闘と、アキの過去に関する原体験が平行して描写されているあのシーン。フクロウはそこにさっき言ったような、人間の姿を見出したようだった。
フクロウは言った。
「まず、あれを読んで読者が思い描くのは、デンジとアキが片玉を去勢された未完全な性器であるということだよ。だって、デンジは金玉の片方を、アキは眼玉の片方を剥奪されてるし、しかもチェンソーと銃。あの形は明らかに男根以外の何ものでもないよ。その二人がさ、「雪合戦」をするということを想像してみて。そう、あれは完全に片玉のない男根同士がお互いの玉を投げ合ってるんだよ。雪玉を自らの玉と仮想して、それを相手にぶつけるんだ。作者が意図的にそう仕組んだかは別として、そういう寓話的な構造があそこにはみて取れる気がする」
わたしはこの辺りから(ということは、もう初っ端から)「こいつは何を言ってるんだ」と思って、少しずつ笑いが込み上げてきていた。全てを読んで内容を知った今では、あのシーンを読んで、そんなことを考える人間の思考回路は一体どんな風になっているのだろうと思ってしまう。たしかにチェンソーと銃の見立てについて、男根のような形をしていることは認めてもいいし、わたしもあの「雪合戦」のシーンは面白い描写方法だなと思ったが、あれをまさか片玉を失った男根二人の玉の投げつけ合いだと決めつけるだけではなく、それを女の子に鼻息荒く語る人間なんて、フクロウ以外にはこの世にそうそう存在しないだろう。
九巻の最後ら辺のページをめくりながら、フクロウの言葉をさらに思い出してみる。
「マキマって女の子がいて。作者も言ってるとおり、あれって母性の象徴なんだって。つまり、la terre。母なる大地って感じだと思うんだけど。普通に考えたら、デンジとアキにとってのお母さん的な存在なんだよね、マキマは。この世に産み落とされたら、この地球上で生きていくことが義務となるように、デンジとアキもマキマという母の言うことを聞いて、付き従わざるをえない状況になる。まぁ、マキマがデンジとアキのお母さん、これくらいは誰しもが想像する解釈だと思う。けど、『チェンソーマン』の特殊なところは、この母子的な関係性に欲望と経済という少し風変わりな要素が割り込んできてるってことなんだ」
わたしはスマホで作者のインタビューを調べてみる。確かに作者の人は、マキマの由来が「ママ」からきていることを認めているようだ。それにデンジもアキも母親を亡くし、また母親を欠いた存在ではある。母親からの承認を得るため、言うことを聞き戦い続ける二人の様子は、まさしく無邪気な子供そのものと言えるかもしれない。
しかし、そこからフクロウは資本主義社会における欲望について話を始めた。この辺りから「Autobahn」の異教的音楽の方が耳に残っていて、内容や意味合いは少し曖昧になる。
「マキマの能力について考えれば分かるんだけど、マキマは日本国民の命を換算して、自分の命に変換できる能力を持っている。言ってみれば、巨額の資産を自由に行使し、それを一つの原動力として人々を操り、支配することができる。こっからは僕の想像だけど、彼女は母性の象徴であると同時に、巨大なエコノミーシステムの象徴として描かれてる気がするんだよね。マキマはデンジに倒された後、「ナユタ」って女の子になる。この名前も、なんて言うかな、抱えきれない資本を持つ経済的な土壌を思い出させるんだ。あと考えようによっては、兆単位の家計をやりくりして、子供たちを育てる超肝っ玉母さんとしての役割も担っているのかもしれない。そうやってマキマは、母-経済-大地の間をかなり意識的に行き来している。行き来しながら、そこかしこに膨大な数の電線を引くことで、強力な磁場が敷かれた一つの独立的領土を確立しているように見える」
「ところでエリ、そういう空間に足を踏み入れることになったとき、人間ってどうなると思う? そう、人間は、欲望する機械そのものに姿を変えていく。ちょうどデンジとアキがチェンソーと銃という機械の化物に変身するように。彼らは電源の存在しないところから無理やり電線を引っ張ってきて、そこから欲望を備給する。その備給に歯止めは効かない。デンジであれば、「女の子と遊びたい」とか「豪勢な暮らしがしたい」、アキであれば「新しい悪魔と契約したい」とかね。そういった欲望の平面で、デンジもアキも激しい戦いを繰り広げる。その結果デンジはパワーを殺し、アキはデンジに殺される。つまりね、経済社会において狙いをつけられる対象というのは、そうした欲望を欲動へと変換することで、喜劇的で悲劇的な現実を絶え間なくオートマティックに生産する欲望機械としての人間ということなんだ。マキマはそうした人間を巧みに利用している。その目的が「戦争」や「死」や「飢餓」をなくし人々を幸せにする、なんだけど、それって結局、資本主義社会が目指そうとしていることと何も変わらない。YouTubeやNetflixを見て、美味しいものを食べて、それをInstagramにアップして、眠くなったら眠り、朝になったら目が覚める。現代社会を生きる僕たちには少なくともそういった消費生活の恩恵を受けながら、「戦争」や「死」や「飢餓」といった現実的な問題を幻想の領野へと押しやり、雪だるま式に再生産されていく現実を享受している側面もあるからね。チェンソーマンはその典型のような人間だと思う。マキマがチェンソーマンとデンジについて「私は彼のファンなんです」って言ってるシーンがあるんだけど、そこでマキマは自分が犯した重大な罪を彼へ責任転嫁することに成功している。なんて言うんだろう。たぶんああやって言うことでマキマは、自分が仕組んだ支配的な経済機構のメカニズムを一個人の神話性・英雄性に都合よくおしつけている気がする。それによって自分が作り上げた領土の解体とその復権を一気に計ったんだ。言うなれば、「脱構築的な供犠」の意味合いがあの言葉には込められている」
「で、「雪合戦」のシーンに立ち戻ってみると、あれは一体何を表そうとしていたのか。僕の考えだと、答えは二層に分かれている。一つは解釈的次元の層に、もう一つはよりメタな解釈的次元の層に。あの「雪合戦」の場面でまず明らかなこととして、記憶というものが重要な位置を占めている。そこでは、アキの主観的な記憶と、デンジとの戦いという欲望によって再生産された現実との間に溝のような差異がある。その差異について、無意識の持つ合理性なき合理性......って言うのは例えば百円玉を拾った夢を見て、その日に百円玉を拾ったらこれは正夢だと考えてしまう、それくらいの合理性と考えてくれれば良いんだけど。そういった合理性が審判を下す、ある種の均衡状態のようなものが「雪合戦」のシーンでは続いている。いわゆる夢うつつみたいな状態かな。そういう意味では、デンジとアキがお互いの片玉を投げつけ合っている状況は、その裁判長へ物言いを投げかける、無意識の奪い合いと捉えても間違いではないと思ってる。結果的に「雪合戦」は、「キャッチボール」という新たな夢の派生物へと“無意識的に”接続される。その瞬間にアキは機能が停止して、デンジに殺されちゃうわけなんだけど、これにも確固たる理由があると思うんだ。つまり、アキは欲望機械であるのだから、欲望に抑圧とか中断とか移行の働きがあるのと同様(なぜなら同じ欲望が延々と続くことはないから)、機械には憑き物の動作不調ということが当然起こり得る。だから僕は、あそこでアキがデンジへの友情を思い出し、無意識から目覚めたという直線的な解釈を否定する。それよりかは、欲望から始まるベルトコンベアに必然的に仕組まれた休止によって、アキという機械が乱調を起こし、発砲することができなかったという解釈の立場をとるね。そっちの方が理論的にも説得力があるような気がするし、欲望にも限界があるという点で、充分現実味のある説明になっている。もう一つのさらにメタ的な解釈は、「雪合戦」がデンジとアキによるマキマへの近親相姦的行為ともみて取れるんじゃないかと思うんだよ。デンジとアキは薄暗い洞窟のような無意識の中で、お互いにとって貴重なただ一つの片玉を発射し合う。それはマキマの子宮内で行われる射精行為に限りなく近づいていく。心体を際限なく蝕み、消費させる現代社会に対しての、欲望を性とする主体が抗う最初で最後の抵抗と言ってもいいかもしれない。そういう風にして、デンジとアキはマキマというエコノミーを基盤とした支配的領土をその内側から侵犯していく。そこでは、チェンソーは切れ込みを入れる道具となり、銃は弾を放出する道具に成り代わるんだ。何が言いたいか、分かるよね。欲望の延長線上にあの物語はあるんだから、あのシーンも性愛的なアレゴリーとして説明できることに何ら不思議はないと僕は思う」
喫茶店からの帰り道、スーパーで食材を買い込み、住んでいるアパートの部屋へ帰ってきた。大学の試験が、終わったのだ。明日から本格的な冬休み。これから好きなことができると考えると、心はとても晴れやかになる。
わたしはいつものようにザ・スタイル・カウンシルズの「マイ・エヴァー・チェンジング・ムーズ」をかけながら、食材をキッチンに並べ始めた。この曲を聴きながら作ると、作った料理がとてもおいしく感じられる。
細切りにしたピーマンとなすをオリーブオイルで炒め、そこに厚めのベーコンとトマト缶を投入する。水煮されたトマトをクツクツほぐしながら、ゆっくりと全体をまぜまわし、コンソメとケチャップを入れて、縺れた糸をほぐすように煮立てていく。耳を澄ませると、ソースが爆ぜているフライパンのうえを、ポール・ウェラーの口当たりの良い歌声が踊っているように思える。そこに茹でておいたペンネを入れ、トマトソースが絡むようにまた全体をまぜまわす。皿に盛り付けて、「ピーマンとなすとベーコンのトマトソースペンネ」が完成した。
安い赤ワインをグラスに注いでテーブルにつき、ペンネを口に運んでみる。味はけっこう悪くない。次は、ピーマンをパプリカに変えて作ってみよう。ワインを一口飲み、タブレットでYouTubeを開く。いつも何かを食べる時に見ているウィーザーのライブ映像を流しながら、ペンネを黙々と口に入れる。ウィーザーのライブ映像は、「音楽って良いな」という漠然としているが悪くないあの感情を抱かせてくれる。
わたしはポール・ウェラーとウィーザーも好きだが、それ以上に敬愛し(人に敬愛なんて言葉、めったに使わないけど)、よく聴くのがビートルズだ。特にお気に入りのアルバムが「Revolver」で、恥ずかしいことにわたしはあの音楽体験以上の体験をこれまでの人生でしたことがない。高校生の頃、周りには山と川しかない田舎の実家で暮らしていたとき、眠れない夜によく家の近くの橋まで歩いて行き、欄干に腰掛けながら、あのアルバムを聴いていた。川のせせらぎがこすれ合い、月明かりが騒めく木々を照らしているような夜に「シー・セッド・シー・セッド」を聴いて、わたしは自分の存在が透明になっていく感覚をよく覚えていた。この欄干から飛び降りても死なないんじゃないかと思うくらいだった。「フォー・ノー・ワン」に差し掛かる頃には、無数の星が夜空から落ちては降ってきて、橋の下にある川に次々と飛び込んで行く幻覚をよく見た。わたしの人生が初めて朝を迎えたのは間違いなくあの瞬間であり、それ以来世界に対する驚きを感じたことはない。あまり感受性が豊かではないのだ。そういう人間なのだと思うしかない。でも、いったいわたしとはどんな人間なのだろう。わたしはわたしが音楽のような人間であればいいなと思う。
話を元に戻す。帰り道、自転車を漕ぎながら、チェンソーマンのあの「雪合戦」のシーンとフクロウの話を思い返して、わたしは自然とビートルズの「ハピネス・イズ・ア・ウォーム・ガン」が頭の中に浮かんだ。「雪合戦」のアニメ化は、あの曲を映像に重ね合わせればうまく行く気がした。悲惨な死を遂げたとしても、「雪合戦」が、アキにとって幸福の一部であったことに変わりはない。なぜならアキは、弟のタイヨウとキャッチボールをすることで、自分の心の空白を埋めることに成功したのだから。それ以上に幸せなことをこの世界で見つけることはなかなか難しい。そして、それを自分の手元に手繰り寄せ、手中に入れることはもっと難しい。「ハピネス・イズ・ア・ウォーム・ガン」。幸せは引き金を引かないと、やってこない。
正直に言って、わたしはフクロウのあの長ったらしく難解を装った説明が好きではなかった。あれは哲学オタクが自分の存在価値を補強するために必死でやっているただの言葉つなぎ、連想ゲームであって、あんなことをしていてもこの世界の実相を切り拓いたことにはならない。
だからベーコンを食べながら、冬休み明け、フクロウになんて話せばいいのか考えた。はっきり「あれはビートルズの曲だ」と言えばいいのだろうか。それこそフクロウと同じくらい馬鹿げた主張になってしまう。やっぱり、読まなかったことにしようかな。そう考えている内に、読むんじゃなかったとさえ思えてくる。まぁ、なんとかなるだろう。全てを食べ終え、食器を片付け、それから風呂に入ることにした。意外と体が疲れていたのだ。時間はもう夜の十一時だった。風呂から出て、肌の手入れやら歯磨きやらを済まると、ベッドに潜り込んだ。ウィーザーのライブ映像の続きを見ていると、いつの間にか寝落ちしていた。
その日の夜、夢を見た。
男が一人、山の中にいた。彼は生暖かい銃身を凍えた手で握ったまま、山頂にある小屋を目指して歩いていた。その時、「銃身を握っていたこと」に注意してほしいと、無意識が語った。男の目的は、その小屋の中で、体から「声」を抜くことだった。彼は密閉された空間で吹雪の音を聞き続ければ、自分の「声」をなくすことができると信じていた。小屋に入って、男は姿を現さなくなった。それっきりだった。
その日から、わたしは外へ出かけるときに、吹雪の効果音をイヤフォンから耳に流しながら、街を歩くようになった。人にすすめることはしないが、悪い趣味でもないだろう。
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