【短編小説】浴槽の交差点:「ドライブ・マイ・カー」と宇多田ヒカルの音楽について
休日のよく晴れた昼間、窓に映る太陽の日差しが眩しい午後、私は急に風呂の掃除を思い立った。何かが光の中で弾けたのである。その欲求はほとんど発作的な衝動と言ってよかった。
ついさっきまでベッドに横になりながら、「ドライブ・マイ・カー」の予告編を観ていたのが嘘のようだった(私は数ヶ月前にその映画を夫と二人で観に行っていた)。布団から顔を出し、めくるめく九十秒のハイライト映像を見終わって、「いい映画だったなぁ」と回想していた時には、体が浴槽の中に立っていたのだ。一方、心のほうは布団の上に置き去りになっているような感覚だった。幽体離脱だ。こういう状況が信じられるだろうか。ただ私は小さくない驚きとともに、掃除欲なるものがふつふつと沸き上がっているのを感じ取ることができた。つい一週間前に浴室は掃除をしたばかりだったが、こうなってしまえば、もう後へ引くことはできない。給湯の電源を入れ、蛇口を捻り、シャワーヘッドを掴もうとした。
と、そこで私はあることを思い立ち、一旦浴室から出て、寝室に置いてきたiPhoneを取りに行った。アップル・ミュージックを開き、宇多田ヒカルの「Face My Tears」を流す。小型のスピーカーを浴室の照明上に避難させて、準備は整った。というのも私は普段必ず宇多田ヒカルを聴きながら、部屋の掃除をする。それは習慣というよりも原則に近い。私からすれば宇多田ヒカルの曲とは、崇高な掃除ミュージックに他ならない。
まずは、浴槽磨きにとりかかった。スポンジをシャワーヘッドから流れてくる湯に晒し、合成洗剤を吹きつける。浴槽の隅にはうっすら赤カビやら茶色い染みやらが残っている。泡立てたスポンジで引っ掻いてみると、それらは泡の向こうでまだ頑固に居座っていた。その様子を見て、私はたがが外れたようにスポンジを強烈に擦り始めた。ゴシゴシゴシゴシ!…ゴシゴシゴシゴシ!…あっという間に手が泡だらけになり、意識が浴槽とスポンジの狭間に埋まっていく。
浴室に響いているのは、スポンジの摩擦音だけではない。「Face My Tears」の神々しいメロディー、細やかで重厚なシンセバス、彼女の高らかな歌声が動く手の速度を早める。私は一心不乱にスポンジを擦りつける。より素早く、そして力強く。ゴシゴシゴシゴシ!…ゴシゴシゴシゴシ!…「あなたはあなたに与えられた時間を、力を尽くして生きなさい」。どこからきたのか分からない心の声に私は頷く。さらにスポンジをつかむ手の動きを強める。ゴシゴシゴシゴシ!…ゴシゴシゴシゴシ!…シャワーヘッドを手当たり次第に傾け、湯で流す。そしてまた、擦りつける。浴槽から、浴室の壁、天井まで、縮こまったスポンジが縦横無尽に駆け巡る。湯で流す、擦りつける。それを繰り返す。無数の泡がTシャツの生地に付着し、次々と裏地にまで侵入していく。天井からは無数の水滴も落ちてくるので、全身ずぶ濡れの状態だったが、そんなこともお構いなしだった。スポンジによる情熱に満ちたこの舞踏は、もう誰にも止められない。
急激な疲労の中で手を動かしながら、私は宇多田ヒカルの「Goodbye Happiness」を聴く。彼女はどうしてこんなに悲しい音楽を作ったのだろうか。特に「Oh ダーリン ダーリン…」のところでは、韻の一つ一つが悲しみに満ち溢れているように聴こえる。そこに彼女なりの秘密が込められているのは確かだ。奇跡に近い不幸な出来事が彼女に起こったことは疑いようがない。でなければ、こんなに不幸で美しい音楽を作れたりはしない。孤独と裏切りの間に愛を配置し、四隅に切なさと大差のない喜びを均等に配分している。私はこの曲を高校生の頃からよく聴いている。とても好きな曲ではあるのに、時間を少しでも空けて聴くと、曲の受け取り方がすぐに変わる。メッセージの色味というか、それを言葉にすると、自分でも口に出したことのない言葉が頭に浮かんでくる。
「子どもダマしさ 浮世なんざ」
この世が浮世ということで万事片付くのならば、私が宇多田ヒカルの曲に狂乱しながら、浴槽掃除に精を出すことくらい誰かが許してくれるだろう。
意識が朦朧としてくるにつれて、手の動きもゆっくりになってくる。浴室は至る所すでに泡まみれになっている。シャンプーやボディソープのボトルを移動させながら私の思考は、少し前に観た「ドライブ・マイ・カー」へと向かった。あの映画を私はどう語ればいいのだろうか? この問いは決して作品の批評に関するものではない。作中に出てきたドライバーの女の子「みさき」が、私の若い頃にそっくりだったことに対して、私は今でも戸惑っている。生への本能を必死に隠そうとするあの生き様、振る舞い、言葉の探り方。隙を見せれば、すぐに謎めいた雰囲気を醸し出そうとする習性。目の表情、佇まい。どれも昔の私にそっくりなのだ。映画を見ている最中、横で一緒に観ていた夫が私に言った。「君の若い頃によく似ているね。あの強情な態度には何度も世話を焼かせられたよ」。私は何も言えなかった。
「みさき」の気持ちが私にはよく分かる。なぜなら、彼女は私自身であるから。彼女が運転を得意としている理由まで見通せる。詰まるところ、彼女は天性の抑制派なのだ。自己を抑制する余り、世界の秩序のなさまでコントロールしようとする。無秩序とは軌道の逸脱のことであり、「みさき」が母を亡くす元凶ともなった土砂災害の災厄をも内包する。彼女はそうした災厄によって軌道を外された星そのものであり、星と星、つまりは点と点を線で繋ぐように、ある地点から別の地点まで人を送ることで、軌道修正を行う「運転」"conduire" という行為にしか自分の存在理由を見出せずにいる。詰まるところ、あの映画で描かれている車の運転とは、「みさき」自身が孤立した星として輝きを取り戻すための術であり、同時に妻を亡くした主人公、「家福」を元の天体軌道へと返す案内人としての営為を暗示している。
もう一つ想像されるのは、そうした運転という行為が「他者を送る」行為から「自己へと送り返す」行為に転調するとき、軌道修正の場は「振る舞い」"se conduire" へと移されるということだ。「みさき」の表情を伺うような素振り、逆に表情を伺わないような立ち振る舞いは、彼女が自分の立ち位置を再確認しつつ、他者と適切な距離を取って、道を踏み外さないようにするための別種の運転行為とも看て取れる。それは「みさき」が過去の不幸から立ち上がるために、本能的に身につけた技術なのだろう。もちろん、車の運転にも技術が要る。車体の操作だけではなく、他者への配慮やセルフコントロールも含めた技術の延長線上で、「みさき」は運転を得意とせざるを得なかったというのが、私のおぼろげな結論だ。
そう考えてみれば「ドライブ・マイ・カー」という題名にも一応の折り合いがつく。「みさき」が運転していたのは「家福」(「みさき」にとっての「ユアー」)が所有する車だけではなく、「みさき」自身(「みさき」にとっての「マイ」)をも正しい軌道に乗せるための車だったとも言えるし、大きな意味で言えばその作品自体が、登場人物それぞれが苦悩や葛藤を乗り越えつつも、自己を輸送し、果ては輸送し合い、在るべき場所へと連れ出そうとしている物語とも言えるのだから。
「ドライブ・マイ・カー」は、迷える星々を映した映画だったのだろう。私たち観客は、登場人物たちが試みようとしている軌道修正の物語をそっくりそのまま天体観測しているに過ぎない。なのに、作中には夜空と星の描写がほとんど出てこない。代わりに「家福」と「みさき」が車の窓を開け、タバコの煙を夜空に向けて掲げるシーンがある。思えばあのシーンは、二人が天体軌道の安寧を願う一種の祈りの儀式のようなものだった。タバコとその煙が、古来から祈りの儀式には憑き物の交流手段であり続けていることは周知の事実だ。
私は上映中、「みさき」の一挙手一投足に注目しながら、そこに彼女の星としてのまたたきを見出しては、ひとり作品を堪能した。映画館を出た後も、原作に特有のヤツメウナギや生理用品など性的隠喩、記号の頻出を除けば(それが悪質な何かと言う訳では全くないが)、スクリーンから届けられる眼の喜びとして、純粋に映画を楽しんだという感覚に陥ることができた。
それでも私は、今語ったようなことを人に話すことはしなかった。夫にさえも話をしなかった。私と「みさき」が、かの有名な「星の友愛」で結ばれたという安っぽい感慨を、あえて他人に話す必要などないからだ。
そこまで思いを馳せていると、浴室に流れている曲が宇多田ヒカルの「道」に変わった。何となく私はスポンジを動かす手を止めた。
悲しい歌もいつか懐かしい歌になる
見えない傷が私の魂彩る
その時、「ドライブ・マイ・カー」と宇多田ヒカルの音楽が、この泡だらけの浴槽の中で交り合ったような気がした。とんでもない混合物だ。でも、その印象は間違っていないものように思えた。傷とは、人間を(通じて/越えて)アクロスすることでしかその正体を探れない。「傷口」を「傷痕」として捉える覚悟と意志がないと、私たちはどこへも行けないようになっている。非人間的な運命はそこでようやく長い冬の眠りから目を覚まし、人間にふさわしい春の始まりをどことなく告げてくれるはずである。
そんなことを思って、私は浴槽磨きを再開した。意味の分からない執念を抱いたまま、少しのカビも残すことなく、浴室の掃除を終えた。足を拭き、服を着替えて、リビングのソファに腰掛けた。今度は「花束を君に」を聴きながら、ベランダから見える街の景色をぼんやりと眺めた。
今なら多くの人だかりがあの駅周辺にはできていることだろう。私は今その雑踏へと踏み入れることを拒否する権利を得ている。なぜなら今日は休日、家の浴槽よりもカビ臭い職場のオフィスへと出向く必要がないからだ。
そんなことを考えていると、「ただいま」という声とともに玄関を開ける音がした。同時に、騒がしい足音がリビングにまで響いた。夫と愛犬のトマが散歩から帰ってきたのだ。
夫がトマの足を軽く拭いた後で、トマが私のところに近寄ってきた。ゴールデン・レトリバー特有の毛並みからは、太陽のさっぱりした匂いがする。
「ハル、何してたの?」夫が汗を拭きながら、私に尋ねた。
「特に何も。洗濯して、お風呂を掃除してただけだよ」
「あ、風呂掃除してくれたの? じゃあ、シャワー浴びてきていい? 外、すっごく暑くてさ」
「いいよ! 今バスマット洗濯してるから、床にタオル一枚だけ敷いといてくれる?」
「はーい」
そう言うと、夫は部屋の一室へと消えて行った。私はこっそりiPhoneから流れる宇多田ヒカルの曲を止めた。次に私が彼女の曲を聴くのは、おそらく台所掃除のときになるだろう。部屋の向こう側からは彼の鼻歌が聞こえてくる。
トマがせわしなく顔を近くに近づけて、合図を送った。私にはトマがお腹を空かしているのが分かった。トマのごはんを取りに行きながら、私は夕飯の支度のことを考えた。それには、下の街まで買い出しに行く必要があった。
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