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【短編小説】 兄妹病

 白状すると、わたしが弟の裸を見たのは、あれが最初で最後だった。わたしはある昼下がり、湯浴みをして、体の汗を流していた。木造のほの暗い風呂場には、あるようでないような窓から、白昼の明るみが垂れ込めている。蝉の騒がしい鳴き声、桶から流れ出て、ビシャリと床に叩きつけられる湯の音が耳にこびりつき、恐怖心が煽られる。
 いつの間にか、ぼやけたガラス戸に栗色の弟が映っている。狭い脱衣所で、上半身にタオルをかけたまま、判別のつかない影をガラス戸にこすりつけている。わたしはその時、空っぽの急須を思い浮かべる。ひびの入った急須に、手にしている桶のぬるま湯を注ぐのだ。そんなことを考えていたら、生身の弟が戸を開け、目の前に立っていた。小さな背中と丸まった尻をこちらに向けて、安っぽい静けさを身に纏った弟に、わたしはいった。
「ねぇ、そんな薄汚いタオル、わたしこの家で見たことない。どこから拾ってきたの?」
 問いかけに答えず、弟は脱衣所を出て行った。

 「兄妹病」という名前の病気について書かれている記事を何かの医学雑誌で読んだことがある。当時大学生だったわたしは、専攻していた分野とは全く関係のない精神医学に興味があり(専攻は量子力学だった)、卒業研究のかたわら、図書館でそれに関連する雑誌を読み漁っていた。難しい説明は分からなかったけれど、そこにはこんなことが書かれていたのを覚えている。
「兄は妹を愛していても、妹は兄の愛情を「自分自身」に対するものとして捉えず、「妹」に対するものとして捉え違える」
「弟」に対する「姉」の愛情はどうなるのか、わからない。シテイビョウでは語感が悪いだけで、兄妹病と同じようなメカニズムがあるのかもしれない。確かめないといけないことでもないから、わたしは今日も夢の中だけであの半身半裸の弟を想う。

 駅の改札を出ると、しなびた胴体を晒す人々の呻き声が聞こえ、残骸という残骸を連れ立って、町から町を横切る何かの震えがわたしの体に幾度となく衝突する。地獄の大安売りを楽しみにして、人々は町へと繰り出す。
 太陽が面白半分に、夕暮れの積荷を待つ。
 誰しもが丘陵地を忘れる。人生が一区切りつくように地続きの過去を無人の空き地へと叩き込む。
「吐く煙草の煙に何が入っているのか分からないように、おれたちの関係性は誰にも分からない」
 わたしはあの場所からできるだけ遠くへ逃げようとして、切り刻まれた白地のタオルを口に突っ込み、あてどもなく走り出した。巨大な鴉が二羽、三羽、わたしの行手を阻んだ。なのに辺りは、やけに静かだった。対照的にわたしの胸は、うねったこぶしで内側から押されたように振動し、息切れを起こした。それでもわたしは、足から引き抜いた靴を町のゴミ箱に投げ入れ、夜の遊歩道を徘徊し、跳ね回った。この先に特別な光が降り注いでいると信じていた。
 辿り着いたのは、真っ黒い球が一面に転がっている巨大な猫の舌の上だった。球の一つ一つは、あたかも乾いた光沢を身につけ、夜のしじまに身を委ねながら湖面を泳いでいる黒鳥の頭部にそっくりで、わたしはそれを一個手の平に置いて、まじまじと眺めた。冷えた空気で体中が痙攣を起こし、同時に眼がある一点へ集中するように細められていく。すると段々、猫の涎にまみれてびしょ濡れになったある人の頭が浮かび上がってき、その人は遠くを見るような眼差しで、背後にある直立した壁面を見つめている。わたしはその光景にかける言葉がなく、ついにここまで来てしまったかとも考えた。揺るぎない夜の地へと、わたしは演繹的に足を踏み入れたのだ。
 とめどない数の星が天井に、それともこの脳裏に張りついている。足元にまとわりつく霜がついた葉を蹴り払った。あの小さな頭は、気づかないうちに手の平から消え去っている。
 どうしてもわたしには理解できない点がある。あのおぞましい空間は、わたしに何を伝えたかったのか? 
 疑問符をつけたまま、夢の余波は続く。こうしてわたしは、あの夜のことを忘れられないでいる。
「そうだとしたら、あなたと一緒に空高く掲げた凧の風速が重要になるね。地上にいるのはお互い似つかわしくない。わたしたちには、保留にするという選択肢が一切残されていない」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。いずれにせよ、この箱にはいま七本の煙草が入っている。その最後の一本を吸い終わった時、おれは正真正銘の音楽を手に入れる気がする…君にはまだこの感覚が分からないだろうけど」
 泡のような切れぎれの月が、遠くの夜空で輝いている。わたしはどこか知らない家の縁側に腰掛けている。わたしの隣には、当然のように弟がいる。あの時と同じ素っ裸で前で手を組み、体操座りをし、頭上の月を見上げている。わたしはおもむろに、金色の容器からはみ出ているピンク色の口紅を取り出して、持っていたライターでそれを炙った。見る見るうちに口紅は溶け出し、わたしの手を真っ赤なチョコレートのようにコーティングした。それを舐めてみる勇気がわたしにはなかった。熱でやられて別人となった口紅を外の庭に放り投げ、弟の口から産まれてくる言葉を待った。充分なくらい、気が狂ってもおかしくないくらい。
 夜の静寂が形となって、冷たい波のように押し寄せてきた時、弟がわたしに花柄のハンカチを手渡した。これで手を拭けというのだ。
「姉ちゃんはこれまで色んな人に出会ってきた。でも一番最初に出会ったのは、紛れもないこのぼくだ」
 わたしは薬の匂いがする焦げ臭い真っ赤な液体をハンカチで拭って、弟の言葉に耳を傾けていた。
「姉ちゃんは強い人間だって、ぼく知ってる。だからこそ姉ちゃん、あの人のことは忘れるべきだ。でも、それだけで、今ぼくたちがいるこの家みたいに、夢同等のおもむきがあるどんな場所へも、自由に行き来できるようになる。何かを考える必要もない。忘れたことを忘れるふりをする。堂々巡りから抜け出すには、それが一番手っ取り早い」
 弟の大人びた声を聞いていると、家の柱は今にも崩れてきそうで、腰掛けている床が不安定に感じられる。沈黙の中、奇妙なリズムで脈打つ心臓の鼓動が、手にとるように伝わってくる。隣で弟が大きなくしゃみをし、鼻をすすった。扇状に広がる月明かりを頼りに、わたしは弟の方を振り向き、横顔を見た。弟は上を見上げ、薄ら笑いを浮かべている。まるで、月をわたしの顔と勘違いしているみたいに。それにしても、この比類のない表情は、一体どこからくるのだろう。
 それからわたしたちは、長いこと冷たい夜風に当たり、星空からこぼれ落ちそうになっているふやけた月を眺めていた。時折、弟は詩の断片のような呟きを口にし、俯いたり、天を仰いだりした。その間わたしは、今目にしているこの世界の佇まいを忘れないようにするために必死だった。
 意識がうつろになり、寒さで手足が痺れ始めた時、弟はいった。
「もう行くよ。朝までには家に帰らないと、ぼくは本当に消えてなくなってしまう」
「うん、また今度、いつかね…」
 弟は立ち上がり、家の生垣をすり抜け、無辺な夜の通りへと消えていった。弟の後ろ姿を見送って、わたしはベタつくハンカチをポケットにしまい、重い腰を上げた。眠気にも似た、得体の知れない軽い感情に包まれたまま、土台を欠いた夜の町をさまよいつづけた。

 スズメが鳴き、清掃車が周囲を騒がす時間帯に、アパートの部屋へと戻ってきた。部屋の中は空き巣に入られた後みたいに、静まり返っている。わたしは台所へ行くと、蛇口からコップに水を注ぎ、ゆっくりとそれを飲み干した。歪な塊が胃の中に入り込んだような気持ちになった。コップを流しに置き、寝室へと向かった。 
 布団に入り、明日から始まる仕事のことを考えた。何気ない日常は、遠ざかってはさし迫ってくる、あの絶え間ない夢の裏側でも続いていく。そんなことは承知のうえでわたしは、わたしが取り戻したい現実の輪郭を心の隅にいつまでも宿し続ける。常に治りかけのこのどうしようもない病気が、わたしの元から離れることはない。
 そんなことを思って、わたしは胸に両手を置き、眠りにつこうとした。微睡の中で、昨日弟が口にしていた詩の断片が、意識の表層をゆらめいた。

 凧を 上げる 定めには ない 
 ぼくも あなたも ともに いなくなる 
 くらやみに 風が 吹いている

 目を瞑り、鼻で息を吐くと、やけに沈んだ記憶の一つが浮遊してくるのが分かった。


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