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夢の入り口、記憶の出口──アグアルーザ『過去を売る男』を読んで

記憶とは、走る列車の窓から見る風景である。

『過去を売る男』木下眞穂訳, 2023年, 白水社, p.147

 アグアルーザはアンゴラ出身の作家。小説『過去を売る男』では、「記憶」「夢」をテーマに物語を書いている。その二つの主題について、今回は語ってみたい。まずは引用の言葉から「記憶」というものの正体を探ってみる。
 想像してみよう。あなたは列車に乗っている。電信柱とその間で撓む長い電線。人のいない民家。トンネルや山の中を通れば、樹々や小川。これらの車窓の風景は通り過ぎては、夥しいほど連続的に入れ替わっていく。それによって、直前の視像がルーズな過去のイメージへと次々に姿を変えていくのが分かる。冒頭の一節は記憶の脆弱さを、風景が切り替わるメカニズムに喩え、示唆している。
 個人的に思い直すと、記憶については、点と点、線と線すら繋がらない。その結び目を探そうとすればするほど、解けに解けていく。記憶が希薄であると、自己の存在に対しても希薄になる。「過去の人生」と一括りに言ってみても、記憶という広漠な海の中では、史実も事実も真実もその区別すら霞んで見えなくなる。何があったのか。何があったとされているのか。その境目が分からなくなる。嘘と偽りが誕生する。
 であるとしたら、記憶がこんなにも輝いて響くのはなぜだろうか。ふとした時、「あの頃」「あの瞬間」に心が捉えられることがよくある。その源泉を辿るためにフィクションを書いていると問われても的外れではない。時間を取り戻すために書こうと心に決めた時もあった。霊感とは記憶のことだ、と村上春樹がよく語っている。別の作家の言葉らしいが、誰の言葉かは分からない。

 記憶という言葉を反芻してみる。ある人、ある出来事を思い出す。スタンリーのことだ。最初名前を聞いた時「スターリン」に聞こえたが、スタンリー、多くの友人にそう呼ばれているらしい。彼は台湾人で、私が台湾へ旅行した時に出会った。旅行最終日の夜、クラブに行ってみたかったが見つからず、台北の街を徘徊していた私は、言い方は悪いが綺麗な女性を侍らせたスタンリーに声をかけた。クラブの場所を聞くと、スタンリーは今日はその店が開いてないことを教えてくれた。項垂れてる私に向かって、スタンリーが何かを口走った。どうやら面白い場所があるから今から二人でそこに行こうということらしい。私はノリノリでついていった。見ず知らずの異国の男に、である。女性を家まで送ってから、彼が運転してくれる車に乗り込んで意気揚々と出発した。途中街中の屋台に立ち寄り、パクチーと牛すじの煮込みをスタンリーがご馳走してくれた。台湾で食べたものの中で、それが一番美味しかったかもしれない。
 三十分ほど車を走らせてスタンリーが連れてきてくれたのは、台北の郊外にある公園だった。園内には人っ子一人いなかった。スタンリーは車のトランクからデッキチェアを二台出してきた。それを湖沿いに並べて二人で横になり、お互いタバコを吸いながら色んなことを語った。私は文学におけるsacredな部分について話した。スタンリーはキラキラしたマンドポップを、仄かに白く光る球体型のスピーカーから流し始めた。彼は煙を吐きながら、こう漏らした。「本当に、特別な夜だ」。

 帰りの車中でスタンリーが話したことを今でもよく覚えている。日本人の若い男の子はセックスに興味がないと聞いたけど、それは本当か?という話だった。私はそんなこともないが、そういう男の子がいてもおかしくないと答えた。でも果たして、それは正解だったのだろうか。「いや、そんなことはない。あいつらの頭の中は女の子のことでいっぱいだ」とでも答えればよかったのだろうか。
 スタンリーは自分のことについて話し始めた。さっきスタンリーの隣にいたガールフレンドの彼女が、最近体を求めようとしてこないという。向こうは一回別の男と離婚している。関係も悪くない。ただ、体のこととなると彼を避ける。その理由が分からなくて、悩んでいる。
 それに対して、何も答えられなかった。そうした複雑な問題について解決策を提示するのには、当時の私は若すぎた。助手席で彼の話を聞きながら、フロントドアに映る延々と伸びていく高速道路をただただ眺めるしかなかった。
 ホテルまで送ってくれたスタンリーと別れたのは翌日の朝の四時だった。その日の昼頃に起きて空港へと向かい、日本に帰国した。スタンリーにメールを送ってみた。「また会えたらいいね」。それからいつまで待っても、スタンリーから返事が返ってくることはなかった。

 イラはロシア人の女の子で、私がプラハへ旅行した時に泊まったホテルの宿泊客の一人だった。ある日の朝、ホテルの地下の食堂で私が朝ごはんを食べていると、彼女が私に話しかけてきた。どこから来たの? なんでプラハに来たの? 来て何をしているの? ゆで卵の殻を剥きながら、他愛もない会話を重ねた。
 イラは大学の建築科に通っていて、フィールドワークの一環としてプラハを訪れているという。もう何度目か分からないとも話していた。プラハの建築が好きなようだった。確かに街のすべての建物に歴史があり、別格の趣があった。私はプラハに来るのが初めてであること、カフカの家に来てみたかったこと、何となくプラハ市内の美術館を見て回っていることを伝えた。するとイラから、飛行機の時間までなら街を案内しても構わないけど、どうかと誘いがあった。断る必要もなかったので、いいよと答えた。
 外に出て街を歩きながら、イラから色んなことを教わった。ここの店のチーズが美味しいとか、ここの骨董店はお土産を買うのはうってつけとか(実際お土産はそこで買った)、この建物の建築のどこが素晴らしいかとか。途中一緒に書店に入り適当に本やポストカードを見たりした。彼女は何かを買っていたような気がする。店を出て、またあてもなくふらつく。イラの話を聞く。朝のプラハには雪が積もっていた。
 ある立派な門の前でイラと記念写真を撮った。今でもその写真がスマホのファイルに残っている。二人ともどこか気恥ずかしいような表情をしている。彼女はたしか私の二つ上だった。
 それから一旦ホテルに戻り、空港行きのバス停まで一緒に行った。「あなたもこれに乗って帰るんだから、覚えておくといいよ」とイラは言い、連絡先を交換して、バスに乗り込んで行った。バスが出発すると私はまたホテルに戻り、少し眠って午後に街へと出た。それから日本に帰国するまでの旅行中、イラと回った場所を通るたびに彼女のことをふと思い出していた。帰国してから、彼女に連絡をしてみた。「日本に来ることがあったら、連絡して」。ジョークみたいな話だが、これもイラから返事が返ってくることはなかった。

 小さな出来事でも大切なもののように思えてくるのは、今やもう彼、彼女たちが私の目の前にいないという事実だ。存在の不在、それは記憶というものの地盤を不確かなものに変えてしまう。記憶とは、いつだって喪失に関する記憶だと言ってもいい。彼らと過ごした嘘のような時間が、いまだに捉えきれずにいる。
 そうした数々の喪失を補填するために小説を書いていると言っても間違いではない。それは喪失した世界とは別の世界との関係を新たに構築する営みに似ている。現実からは距離を置いた世界、一言で表すとイマジネールな世界だ。そこでは記憶が喪失とはまた違った役割を果たしてくれる。霊感とは記憶のことである、というのは多分こういう意味なのだ。つまり、小説を書いていく中で今まで見えなかったものが見えてくるようになること、隠されていたもののヴェールが剥がれていくこと、そうした新しい認識の光源として、失われた過去を記憶の中にずっと留めておくことができる。
 それに、もはやノンプレザンスな彼らを題材に小説を書いたところで、彼らが私の元へ戻ってくることはない。私は「別の形での再会」を選択した。でも、その再会は同時に、物語における新たな出会い、興味深い他者も連れ立ってやってくることが多々ある。それが作家としての醍醐味というか、記憶が単なる記憶では終わらないというか、創作におけるちょっとした秘密の部分でもある。

                                    ***

「この会話は、間違いなく現実だろう。だが、周りの状況は実体性に欠ける。もっともらしさはなくとも、人が見る夢には、どれにも真実があるものさ。たとえば、よく書けた小説のページに花盛りのグアバの木が紛れていれば、幾多の本物の部屋に想像の香りを運び込むはずだ」

『過去を売る男』木下眞穂訳, 2023年, 白水社, p.125-126

 ブッフマン(過去を買った男)とエウラリオ(ヤモリの前世か)は蒸気機関車の豪華な客室でチェスに興じている。ゲームはどうやら、ブッフマンの方が優勢なようだ。
 こうなることを、何日も前から待っていたと、ブッフマンは言う。
 ということは、この会話が現実だと思っているのか、とエウラリオが訊ねる。
 それに対し、ブッフマンが答えたのが引用された言葉だ。

 アグアルーザは自らが実際に見た夢を下地に、『過去を売る男』を書いたという。私はこのチェスの場面もアグアルーザが見た夢の一つだと確信しているし、そう感じる場面がいくつかの章でも見受けられる。
 『過去を売る男』における彼の手法は、大体以下の三つに大別できると考えられる。

①短い章ごとに複数の夢を孤島のように配置する
②物語の話とアンゴラの文化や歴史をミクスチャーにかける
③①②によって生じる全体の違和感を(前世が人である)ヤモリを語り手に置くことでより滑らかに、そしてユーモラスに仕立て上げる

 そこに、彼自身の思想や信条を織り込んだり、ほかの作家の言葉を引用したりして、作品の独自性と継承性を確保しようとする意図が感じられる。

 引用の言葉ではっきりと提示されるのが、夢特有の位相だ。「実体性に欠ける」、「もっともらしさ」もない、けれど夢には「真実」がある。それは一体どういうことか。
 夢を見ていると現実味がなければないほど、もう一つの現実に近づいていくような不思議な感覚に陥ることがある。私は過去に見た夢の内容をかなり覚えている方だと思う。メモもするし、そこから着想を得て、小説に入れ込むこともある。例えば、中東のどこかの国にある廃墟のようなレストランでカレーを食べる夢。その時の色彩や香りが忘れられなくて、一つの作品を創った。
 でも私は中東の国に行ったことがなければ、廃墟のようなレストランでカレーを食べたこともない。いわば未知の世界、現実からはかけ離れた経験でもある。それなのに、あの夢にどこか親しみを感じ、そこにあった世界観を作品にしたことは、私にとって何らかの真実めいたものが行き来していたからだろう。夢とは未知なるものの到来であると同時に、既知なるものからの跳躍でもある。
 また、ここで言われる「真実」とは、「いかなる外在的な要因からも審判を受けない本当らしさ」と解釈しよう。夢における真実とは、極度に自律的な感情が訴える正当性である。五感を通り越し、現実-非現実の境目すら蹴破って侵入してくるあの深い内奥の溜まりのような感覚。それはカフカの『審判』の主人公が遭遇した事件のように、アプリオリに判決が下され、それ以後その正当性が覆され得ない、半ば暴力めいたものすら孕んでいる。アグアルーザは「周りの状況は実体性に欠ける」と描写した。ただ実際は、夢が実体性を考慮に入れていないから欠けているだけであり、外からの判断材料をシャットアウトすることによってあの何とも言えない奥行きを獲得している。

          ***

 ここまでまともに『過去を売る男』の感想について書いてなかったので、最後に触れておく。まず私が鈍感だからか分からないが、話の筋が捉えにくかった。でもそれも、私が鈍感だからだろう。あとがきを読んで「そういうことだったのか」と気づくことが多かった。
 この小説はフェリックス・ヴェントゥーラというアルビノの男が、アグアルーザの夢に出てきて過去の売り込みにやってきたところから着想を得ている(らしい)。元のアイデアそのものがひどく夢的だから、物語の本線から外れて、浮遊感の伝染した世界観が打ち出される章がいくつかあって、そういった場面が私は好きだった。破綻気味ではあるが、力強さもあり、時折感じられるミステリアスな情感が良いと言える。一言で言うと、けっこう面白かった。ただし、必読ではないだろう。
 恥ずかしいほど明らかに「夢」と「記憶」がこの小説のテーマであり、創作に深く関わるそれら二つの主題について考える良いきっかけとなった。別作だと『忘却についての一般論』が出版されているらしいから、気が向いたら読んでみたい。


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