【旅行記】尾道をめぐって:ヌーヴォー・ロマン的くるま旅
気がつけば、突入していたゴールデンウィーク。「尾道」に行くことを決めたのは前日だった。
今回の旅の目的は「車で遠出する」というシンプルなもの。気軽なアヴァンチュールを楽しむことができれば、それでよしとした。なんせ免許を取ってから、初めてのドライブ旅行。ナビを見ながら目的地までたどり着き、駐車場に車を停め、用を済ませたら安全運転で帰ってくる。この一連のトラベル・ミッションをクリアすれば、ドライバーとしての確かな一歩を踏み出せるに違いない。
そこで、行き先は?となり、三つくらいある候補地から選んだのが、広島県の瀬戸内海に面した街、「尾道」だった。尾道と聞いて、個人的に一番最初に思い浮かぶのが、「風情のある街並み」だ。船舶の行き交う港街であり、細い小道や坂道、レトロな建物など歴史のある風景を堪能できることは、数少ない知識からでも容易に想像がついた。尾道ラーメンも食べられるし(本当はそれが最大の理由)、車で行けてかつ日帰りで帰れる場所として、尾道は非の打ち所がない魅力的な名所のように映った。
ところで車の運転については、少なからぬ思い入れがある。私はある時期から、車に乗ってみたいという欲求が生まれていた。そこには様々な要因が絡み合っていて、ある種の刺激、公道を時速数十キロで疾ることで得られる生の実感、あるいは思考の変化、挙げ句の果ては文体の進化を求めていた節があったかもしれない。要約するなら、新しい景色を見てみたくなったというところだろうか。他にも、車にまつわる小説や音楽の歌詞に触れるたび、車に乗ることでしか分かりえない世界の大切な一部があるのではないかと思ったりもした。
そんな私の背中を最後にひと押ししたのが、村上春樹原作の映画『ドライブ・マイ・カー』だった。三浦透子演じるみさきの運転する姿が映画を見た後でも脳裏から離れず、気がつけばそのスクリーンに漂う空気感と同じものを私も感じてみたいと思うようになっていた。教習中の運転が上手く行かない時は、『ドライブ・マイ・カー』のサウンドトラックを聴いて、「絶対に免許を取ってみせる」と意気込んでから教習所へ向かうこともあった。
そんな経緯もありながら、念願叶って取得した運転免許。初のドライブ先は、奇しくも『ドライブ・マイ・カー』のモデルともなった広島県鞆の浦にほど近い尾道に決定した。
ドライブ当日の朝。空は雲ひとつない青天だった。スマホと財布と一眼レフカメラだけをボディバッグに詰め込んだ。車に乗り込み、ナビを設定して出発。音楽は和製シティ・ポップを車内に流しながら、尾道を目指して二時間弱ひたすら一般道を走り続けた。道中はずっと運転に集中していた。と言っても、ほど良く気を張るくらいの心地よい集中具合だ。
車を運転している時の意識は、少し特殊なものだと感じた。それは緩慢だが、決して消え行こうとしない意識だ。消失した瞬間に、何かしらの事故が起きることは免れられないのだから。広がりはあるが決して薄まりはしない、言ってみれば濃い霧のような意識状態を保ち続ける必要がある。そんな気の持ちようは、車に乗っていないと体験することができない。読書とも違えばランニングとも違う集中の仕方、意識のあり方がそこにはあった。
午前十一時前に、尾道市内に到着した。街の中心へと繋がる道路は狭く、やたら混んでいた。ゴールデンウィークだからだよな、そうだよな。通りも観光客で溢れ、所々ある尾道ラーメンの店前にはすでに行列がつくられている。ただ、私が目当てとしていたラーメン屋にはほぼ列がなく、なんだすぐ食べられるじゃんと高を括っていた。100円パーキングはどこも満車であったため、駅前にある市営駐車場に車を停めることにした。駐車は難なく成功した。無事、尾道へとたどり着くことができたのだ。
駅前に降り立てば、ストリートのすぐ横には海が広がっている。その向こう側にはいくつか島が見え、巨大なクレーンが灯台のようにぽつぽつと聳え立っている。海は太陽に照らされて、青白く光っている。船が行ったり来たりを繰り返し、手前ではボートが何隻か係留されている。港とは、海を分かち合う場所なのだとその時気がついた。そこでは人は皆、海という大きなフィルターを通して、様々な対象物にアクセスしている。仄かな潮の香りや波の音さえも、常に人々の生活の足元に根を張っていて、あらゆる知覚や感覚を海色に変えてしまう。凪のように時の流れがゆっくりと感じられ、それとともに街並みの情緒も、時の変質を受けて底上げされているかのようだ。
カメラのシャッターを切りつつ、街並みを堪能しながら歩くこと、約五分。ようやくお目当ての尾道ラーメンの店に到着した。が、とんでもない行列......。列はゆうに五十人を超えていた。さっき車から見た時は、ぴろっと並んでいるくらいの列に見えたが、実際はその裏の通りで長蛇の列を成していたのだ。
私は引くに引けず、と言うかここまで来て別の店に並ぼうとも思えなかった。まぁ、そうはいっても、一時間も待てば食べられるだろうと推察し、最後尾へと並んだ。充電を気にしながらスマホをいじり、前に並んでいる人の服装や所作をぼんやり観察しながら、時が来るのを待った。
店内に入れたのは、それから二時間後だった。二時間並んで何かを待つというのは、人生で初めてだったのではないだろうか。思いがけない初体験に遭遇することができた。
味は......すいません!普通だった......もちろん好みはあると思うが、醤油豚骨のほうが私は好きだった。でも、スープは美味しかった。新たな食を体験できたことに変わりはないので、これはこれでよし。ごちそうさまでした。
店を出て、次なる目的地は千光寺。小高い山を登ったところにそのお寺はある。尾道駅からは距離的にそこまで遠くはないが、上り坂が続くため30分はかかるようだ。
この看板から出発するルートを辿ったのだが、実はこれが当たりだったと振り返って思う。冒頭、ジブリ映画『耳をすませば』を思わせるような、狭い階段と細い小道を上がっていった。少し歩くと寺にたどり着き、そこを出ると古びた民家のすぐそばを歩くような道が続き、それは終始、秘密の隠し通路のようで、どこか異世界的な雰囲気すら感じられた。樹々が生い茂っていても、物騒な様子はなく、親しみある自然を、堆積された時間の奥ゆかしさと一緒に目にすることができた。
途中、片目の猫が階段の真ん中で寝転がっていた。小さくグググと鳴き、私を警戒するような素振りもみせた。ごめんごめんと呟きながら、その横をこっそり通らせてもらった。
そんなこんなで息を切らしながら歩いて数十分、ひらけた高台に到着した。そこは千光寺公園と呼ばれる広い公園で、尾道の街を一望することができる。観光客で賑わっている展望台へと上がり、私も尾道という街を一枚の写真に収めてみる。
千光寺へと向かう途中、階段から足を踏み外し、とても恥ずかしい思いをした。「大丈夫ですか?」と声を掛けられ、半にやけの顔で「大丈夫です、すみません」と返した。一瞬、モーリス・ブランショの著書であるタイトル「踏みはずし」が脳裏をよぎった。どんなことが書かれていたかは忘れた。
千光寺ではおみくじを引いた。小吉だった。人間関係に問題があるらしい。気をつけることにする。
それから駅へと向かう最中、何を考えながら歩いてたんだっけなと今振り返っても、思い巡らせた内容について記憶がない。きっと過去、未来、はたまた現在の色々なことを考えながら思い出しながら、山を駆け降り、渋滞している車の横を通り、尾道の街を散策したはずなのに。意外と、旅とはそんなものなのかもしれない。有の中に無を捉え、動の中に静を捉える、ある意味でベケット的旅行を果たしたような感覚というか。何かが起こるようで何も起こらない、アンチ・ロマンの世界に迷い込んだ気分になった。
何はともあれ、尾道駅まで帰ってきた私は、お土産屋に立ち寄ってお土産を買い、駐車場へと戻ってきた。時刻は十六時を回っていた。大体予定通りの時間だった。後は、安全運転で帰るだけだ。ふらつく体を起こしてハンドルを握り、駐車場を後にしたところでナビを設定していないことに気がついた。あやうくバス停の停留所に停車してしまいそうになり、駅周辺をぐるぐると回って、停められそうな場所に車を停め、ナビを設定した。
帰りは、かなりのんびりとした運転になった。歩きすぎだからか、ほぼ新品の靴だからか分からないが、針で刺されたように足に激痛が走り、アクセルとブレーキを踏むたび、足が痛んだ。車中も何を考えていたか、忘れた。とりあえず流していたApple Musicのシティ・ポップも、曲はほとんど覚えていない。それだけ体が疲れていた。家に帰ると、言葉通り泥のように眠った。
最後に、今回のドライブ旅行の感想に移るが、特に言うことはないのだけれど、次はもう少し余裕を持って車の運転が楽しめるといいなと思う。サザンオールスターズをかけながら、あるいはOriginal Loveでもかけながら、海の見えるドライブロードをひた走り、車窓から吹いてくる海風に頭を揺らし、新しい自分を発見できる旅にまた出れたらなぁと思う。
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