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【短編小説】ショート・グッドバイ

 夜も深くなった午前三時。さっきまで見ていた夢は、高校生の私。教室で高らかに歌を歌い、王様のように自由に振る舞い、それにつられて周りのみんなも陽気になり、先生に不満があるときは大声で不満をぶちまけ、理路整然と論破する。そんな夢だった。私はこうした夢を今まで何度も見てきている。目が覚めた後は、かならず不思議な気持ちになる。色で表すならば、淡いミント。透明人間になって、幾つもの壁をすり抜けて、ここまでやって来たような感覚。ところで現実の私は、無口でとても大人しい生徒だった。大人しく、従順な田舎者の高校生。

 数日前、渋谷に行った。よく晴れた日だった。一月末に閉店を迎える東急渋谷本店を目指した。その七階にある丸善ジュンク堂もなくなる。最後に一目見ておきたかった。エスカレーターを上がり、察しの通り、棚はガラガラだった。私と同じような人でフロアは埋め尽くされていた。ウエルベックを3冊買った。『プラットフォーム』と『闘争領域の拡大』と『H.P.ラヴクラフト 世界と人生に抗って』。それにしても一体全体、どうしてウエルベックを3冊も買ってしまったのだろう。他に買いたい本がなかった。ひとことで言うと、そういうことになる。そうでなければ、「ウエルベック」なんて「3冊」も買わない。本を購めたあと、一つ上の八階に向かった。そこは百貨店のレストラン街で、夕方前なのにすごい人だった。私は蕎麦、安いとはまったく言えない蕎麦を食べてみたかった。というより、私はオードリーの若林が好きなのだ。よく彼はこの蕎麦屋へ人知れず来て、食べていたという。
 席に着くまで、店前で30分待った。私は天ざるを注文した。舌鼓を打つわけでもなく、かと言って机を叩きつけるほどでもない、その程度の味だった。
 東急を出て、スクランブル交差点の喫煙所で煙草を吸った。公衆便所にそっくりのあの喫煙所、中はすし詰めの状態、そこでは興味深い人種の人々を見ることができる。私は下を向きながら、肩身の狭い思いで吸った。
 ふと、昔の気持ちが蘇る。この馬鹿げた雑踏を味わうために東京に来たいという時期があった。何者にもなりたくない、でも自分の知らない自分も知ってみたくて、この大都会を訪れた数年前(「大都会」なんて言葉、田舎者以外の誰が使う?)。それは純粋な憧れであり、無垢な希求だった。その思い一つで、私はこの東京で生活を始めた。そして実際に、何年か生活をした。ここにきて、渋谷丸善ジュンク堂が閉まり、八重洲ブックセンターは3月末に閉まり、池袋マルイは遥か前に建て壊され、跡形もない。晴海埠頭は綺麗な公園に生まれ変わり、新しい姿を見せている。多摩動物公園では、狼が小さな展示室の中で眠っている。東京タワーの最上階で落として壊れた一眼レフカメラ。記憶に留められている数々の風景を、いつでも生々しく思い出すことができる。

 私は今日を境に、東京という町に別れを告げる。

 去年の秋頃、閉店した渋谷丸善ジュンク堂で、3冊の本を見つけた。残雪『最後の恋人』、『かつて描かれたことのない境地』。シャルル・ペギー『クリオ - 歴史と異教的魂の対話』。二、三年かけて東京中の書店を回っても、どこにもなかった3冊だ。もちろんここにも一度来たことがあった。なのに、それらが立て続けに棚から出現して、私は本当にびっくりした。他にも数冊を持ってレジへ向かった。帰りに、西武渋谷のy'sでロングシャツとストールも買った。月の給料に比べれば、破滅的な出費だった。その代償として、家に帰ると鬱になった。生きているのか。生きていけるのか。それとも、すでに死んでいるのか。そんなことが頭を巡る夜があった。

 夜通し僕は君の顔を思い描いてみた
 君は見る影もなく消えていった
 君が僕をここまで連れてきたのに
 君は僕を元の場所まで戻してくれるのかな

 Electric Light Orchestra「Twilight」の歌詞だ。

 東京での最後の夜に、私が買った本を羅列すると、アニー・ディラード『本を書く』、村上春樹『東京奇譚集』、ラヴクラフト『インスマンスの影』ということになる。棚にあった『本を書く』の文庫版は、A4版の書物に挟まれて、小さくも確かな光を放っていた。手に取ると、可愛らしさに似た哀愁めいたものを感じた。
 書店を出て、行きつけの喫茶店まで歩きながら
思ったのは、どんでん返しに縛りつけにされているという感覚だった。どんでん返しといっても、それは最後にひっくり返される結末、クライマックスを意味しない。忍者屋敷に備えられているあの本物の「どんでん返し」だ。私はある壁に身体ごと縛り付けられている。その壁が、次の瞬間にはくるっと反転するのだろうという予感だけがしている。しかしその先の部屋に何があるのか、一切の予想がつかない。恐ろしい話だと思う。もしかしたらその部屋では白銀の狼が、口から涎を垂らして私のことを待ち受けているのかもしれない。見知らぬ禿頭のおじさんが私の壊れた一眼レフカメラを携えて、レンズをこちらに向けているのかもしれない。部屋の中央に、お盆に載った天ざるがぽつんとあるだけかもしれない。はたまた、アニー・ディラードが机に向かって何かを書いている? 背中には孤独という名の翼を生やして? 私はその背後から恐る恐る問いかけてみる。「ディラードさん、天ざるはいかがですか?」返事はない。

 喫茶店に入り、いつものようにアイリッシュコーヒーとレアチーズケーキを注文した。そこの喫茶店はその町では有名なお店で、仕事で嫌なことがあった時、休日のリフレッシュしたい時によく利用していた。クラシック音楽を聴きながら、静かに本を読むのにはうってつけの、素敵なお店だ。私は水をひとくち口に含み、さっき買ったディラードの『本を書く』を読み始めた。
 一度その喫茶店に関するメールを、村上春樹のラジオに投稿したことがある。ただしその時のパーソナリティは村上春樹本人ではなく、小説家の小川哲と坂本美雨だった。私の送ったメールは、坂本美雨の明るく軽快なトーンで日本全国に向けて読まれた。後日、私はその回をradikoで何度も繰り返し聴いた。そんな思い出がこの喫茶店にはある。 
 結局『本を書く』は、私のお気に入りの宝物のような一冊となった。そんな本など滅多に出会えるわけではない。無数のページの残骸を踏み越えて、ようやく出会える代物なのだ。それを薦めてくれた友人には感謝しないといけない。
 その喫茶店ではほとんど閉店間際まで、本を読んでいた。机の上には、チーズケーキの皿もアイリッシュコーヒーのワイングラスもなく、ただ水の入ったグラスが置かれているだけだ。本を閉じ、会計を済ませた。まだ引っ越しの準備が少し残っていた。私はまっすぐ家に帰った。『本を書く』の残りを読み、明日に備えて眠った。低く深い眠りだった。

 両手首から手錠を外す。一歩前に足を踏み出す。そこは、四隅にある灯籠が床の畳を照らしている和室。そのせいか部屋の上半分は薄暗く、下半分がやけに明るい。その他にはどんな印象も抱けず、印象が限定された六畳ほどの部屋だ。その中央にあるのは、もちろん天ざるではない。簡素な北欧風のデスクがあり、そこにディラードが背中を向けて、腰掛けている。ノースリーブの花柄のワンピースを身に纏い、沈黙の重しを背負っているかのように、目一杯腰を曲げて机に向かっている。
 薄闇から、声が聞こえる。
「天ざるなんて要らないわ。だって、天ざるを食べながら、小説を書く作家がいるわけないじゃない」
 それは、そうだ。
「それにね、私は書いてる時ほとんど何も食べないのよ。せいぜいりんご一個とか、グレープフルーツ一個とか、そんなもの。あとは水だけ。『本を書く』にそんなようなこと私書いてなかったっけ?」
 何も答えなかった。
「村上春樹の小説より、ラヴクラフトの小説より、私のエッセイを真っ先に読んでくれたのは、感謝しているわ。あなたが喫茶店で飲んでいたコーヒーもとても美味しそうだった。さすが、日本クオリティね」
 彼女はずっと背中を向けていた。声色には闇を引き裂くほどの力強さと鋭さがあった。
 しばらく、沈黙が続いた。
「薪を割るために大切なこと、それは薪を割ろうとするのではなく、薪の下にある台に向けて斧を振り下ろすこと。あなたも読んだよね?」
 もちろん読んだ。印象的なパッセージだった。
「あなたはまず、その薪を見つけるところから始めなさい。それからよ」
 そうかもしれない。
「それに、その辺に転がっているしけた薪ではダメ。割るに値するものを見つけてこなくっちゃ。芯の堅いものがいいわ。苦労すればするほど、大きく、多方面に新たな力を解放することができるから。それは物を書く人にしか分からない、かけがえのない経験なの」
 言い返すことはない。
「つまりね、天ざるなんて食べてる場合じゃないってことよ。あなた自身が海老の天ぷらを揚げて、それを多くの人に食べさせてあげるくらいの気概を持たないと」
 それでも私は天ざるに乗っている海老天が大好物だ。二本乗っていれば、最高だ。
「人と同じようなことをしては、新しい言葉も生まれない。それを肝に銘じてこれから生きていく。いいわね?」
 私は頷くと、彼女の脇を抜けて、左手にある前庭に開かれた襖から外に出ようとした。彼女のそばを通り過ぎる時、ピシッと微かな電流が流れた。その時、彼女の横顔を少しだけ見た。長く垂れたカーリーヘアー、整った顔立ち、眼はしっかりと見開かれ、真剣な眼差しで紙の上にペン先を走らせている。私のことは全くもって見ていないようだった。庭先に立つと、石造の燈篭が構えられ、庭石と下草が土から顔を出しているのが見える。奥の真っ暗な縁側を歩いた。冒険が始まるのは、建物全体の明かりをつけてからになる。

 この光景は、短いお別れにふと垣間見えるちょっとした遠景の一つ。
 それがフィリップ・マーロウが経験した「ロング・グッドバイ」ではなくとも、現在と未来の間には清澄な河の水が流れている。その水が私をどこへ運ぼうとも、そこで喘ぐ魂の叫びを蔑ろにしてはいけないことが分かっている。季節は人を選別しない、ただ自らの探求の行き止まりを季節のせいにする人間が普通より多く存在しているだけなのだ。

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