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狂人のあいつには日々乃コーラを飲ませて、スガシカオの曲を聴かせてあげたい

 朝の十一時前に目を覚ました。泥の中から這い上がるように意識が戻ってくる。気づけばベッドを斜めに横断する形で体が横たわっていた。寝相は悪い方ではないが、最近よく眠れた時は体がそんな風に知らない間にすがたかたちを整えている。
 一瞬、さっきまで見ていた夢が残像のようによぎる。昔の友人と一緒に海外のホテルでポーカーをする夢だった。日本とは打って変わったダウンタウン、そこは羽目を外すのにはちょうど良い場所で、海外に住んでいた頃の非日常感を思い出させた。決して「良い子」にはなり得ないトポスの集合体。私はよくそんな夢を見る。
 横になったまま、充電し切ったスマホを触る。Yahoo!ニュースをさらい、昨夜のフットボールのニュースを斜め読みし、LINEを見る。アイコンの右上に赤マルの2がついていて、開いてみたら友人からのLINEだった。「オススメの曲」の短文の上には真っ白のディスコグラフィーと一緒に「ICEの"MOON CHILD"をApple Musicで」とある。指で押し込むと、自動的にApple Musicが展開されて曲が再生された。それは一発で良曲と判断できるようなイントロの類だった。

「スウィスウィスィ ウィヤード スウィスウィスィ ウィヤード スウィスウィスィ ウィヤード」

 七十年代らしさを残した雰囲気で、だけど当時はそこまでフォーカスされなかったであろう音楽が好きで、その曲はそんな私の趣味趣向にぴったりと合うものだった。キラキラしててどことなく儚いシティポップ。夜の海岸線を走りながら聴きたくなるようなメロディータッチ。その友人には「めちゃくちゃいいね🍹」と返信した。
 "MOON CHILD"を流しながらキッチンに向かった。日々乃コーラを作ること。最近の日課になりつつある。氷をグラスの八分目まで満たし、禍々しい泥みたいなシロップを大さじ三杯ぶっかける。そこに炭酸水を注ぎ、スプーンで底からかき上げるように混ぜていく。レモンジュースを少し垂らして、また混ぜる。日々乃コーラが完成する。

 強烈なジンジャーの味がまず先に来る。そのあとで爽やかなコーラに似たハーブの香りが鼻腔を突き抜ける。一口飲んだ時の感想は「コーラ…?コーラなのか…?うん、コーラか…」だが、美味しいことには美味しいので満足する。
 日々乃コーラは高校からの友人にもらった。渡された時は彼から何も言われなかったが、「コーラ好きの君へ」ということだったのだと理解する。パッケージが怪しさ全開で、それがいい。和漢とは調べたらどうやら「生薬」を意味するものらしい。飲んでみたら確かに体に優しい劇薬の感はある。
 強炭酸の刺激とジンジャーの辛味を舌で浴びて、勢いそのままにスガシカオの"労働なんかしないで光合成だけで生きたい"をかけ始めた。スガシカオの歌詞で好きなところは、最小の単語で最上の物語を紡ぐことの上手さである。巧みに狂気のストーリー性を滑り込ませていて、しかもそれは生き生きとして全てを蹴飛ばしていくあのマッドな曲調に当然マッチしていて、"労働なんかしないで光合成だけで生きたい"はそうした彼の曲の代表格になっている。聴いていると、小説よりも現実を語り現実よりもより現実を語っているような、そんな耳心地と確かな感覚がある。

 スガシカオを聴くと「ランニングと真夏日の太陽」を思い出す。フルマラソンの練習をしていた時に、走りながらよくスガシカオの曲を聴いていた。ランニングで枯渇してくるエネルギーを耳から補充するのに、スガシカオの曲はうってつけである。疲労からか明晰さを失い無限に遠ざっていく意識の中で「少し走っただけでなに疲れてんだよ。そんなもんじゃお前はないだろ」。そんな声が聞こえてくる。スガシカオは私にとって音楽の伴走者なのだ。
 一口一口日々乃コーラを味わっていると、いつの間にか薄茶色のグラスの氷もすでに気だるく溶け出している。スガシカオの"日曜日の午後"を聞いていたら、ふと奇妙な記憶が頭をもたげてくる…ある日、近くの公園というか陸上競技場の周りを走っていた。季節は夏の終わりで、よく晴れていた日の午前だった。いつも通りランニングウォッチのペースに身を委ねながら、快走を続けていた。ランニングのノルマは中盤に差し掛かり、走りのコンディションも頂点へと向かっていくタイミングで道の角を曲がった時、グラウンドのフェンスに顔を近づけて、どことなく遠くを見つめながら佇んでいる男が見えた。
 彼は頭にワークキャップを被り、上下ジャージでメガネを掛けていた。歳は若いと言えば若いくらいの感じだがどこか夢遊病者のような佇まいで、表情には笑みが浮かんでいるように見えた。彼が視線を向けているのは誰もいないグラウンドだった。そう、誰もいないグラウンドだった、、、、、、、、、、、、、。私は数秒の内に腕を振り足を前へと運びながら、その様相の全体を認識した。
 息切れに差し込まれる一瞬の不穏な沈黙のあと、私のアンテナは彼に反応した。ATフィールドが展開され、疲労した頭の中で警告音が鳴り響く。ヴーン、ヴーン。しかし今更この腕と足の振りを止めることもできないのだ。私の体は勢いよく前進し、数メートル先の狂人めいた彼に近づいていく。ヴーン、ヴーン。トマレ、トマレ。知らない。そんなことは関係ない。私はそのけたたましい警告音を振り切るように走り続けた。逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ…
 彼の一メートル手前を過ぎる、その時だった。男は私の方を振り向くと、吸いつくように私の方に近寄ってきたのだ。そして私の体を抱えるように手を伸ばしてきた。一瞬の出来事だった。私は即座に彼から遠ざかり、歩道を降りて車道を全速力で駆け抜けた。後ろを振り返る余裕もなく、その後もそのまま百メートル走の速さで数百メートルほど走り続けた。その間冗談ではなく、殺人者に追いかけられている気持ちだった。
 かなりの距離を走って立ち止まり、乱れた呼吸を整えながら後ろを振り返ってみた。狂人者の姿は見えなかった。残りのランニングを遂行する気分には一切なれなかった。私はガン萎えし、そのまま歩いて帰路に着いた。途中何度も後ろを振り返り、奴がついてきていないことを確認した。帰ったら、家の前にその狂人者がいることすら想像しながら。
 スガシカオの曲は"おれ、やっぱ月に帰るわ"に変わっていた。日々乃コーラの味は確実に薄まってきている。今になりふと思うのは、いつ私も彼と同じ「世界のハズレもの」になってもおかしくないということだ。私は彼でもあり得るし、あなたもまた彼であり得る。その互換可能性を捨て切ることは誰にもできないだろう。今日もまた彼は私たちの背後を追いながら自分の影をも追い続け、誰もいないグラウンドに世界の夢の底を見つめている。

おれ、やっぱ明日月に帰るわ ビルの屋上から
おれ、なんかちょっと居場所もないし いろいろごめんね

スガシカオ "おれ、やっぱ月に帰るわ"

 もしきっと彼が私を羽交い締めするのに成功していたとしたら、こんな風に私に語りかけたかったのだろうか。であるならばそもそも彼は月の住人として、何を目的にこの地上に降り立ったのだろうか。ビルの屋上から本当に月へと無事帰れるのだろうか。いろいろごめんね、と言うが私にあんなことをして謝るだけで済むと思っているのだろうか。謎が謎を呼ぶばかりだけど、もしそうなったとしたら、私は彼のワークキャップを自分の頭に被せ、代わりに彼の頭上には日々乃コーラの原液を垂らし、彼の顔にはスガシカオと同じレンズまで真っ黒のサングラスをかけてあげて、こう言ってあげたい。

「早まっちゃダメだ。それに月に帰ってもなんになんないダロ。ほら、これをノメ。日々乃コーラだよ。そこからゲンジツの味を知れ。月に帰るのは、そのあとで考えればいいじゃないカ」


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