【ホラー短編】六〇六号室(4/7)
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永久は声を張り上げた。
「警察よ! 虻島先生と会ったわ!」
少女はびくんとした。やがて穴のふちに寄り、手を伸ばした。
永久はその手を握ろうとした。だがそのとき少女が足を滑らせた。悲鳴を上げてこちらに落ちてくる。
永久はとっさに少女を受け止めたが、片手では自分と彼女の両方は支えられなかった。諸共宙に投げ出される。
二人は暗闇の底へと落ちて行った。
「ああああ……!」
長く尾を引く悲鳴は自分のものだったのか、少女のものだったのか。
二人は水面に落ち、高々と水柱を上げた。着水の衝撃は強烈だったが、永久は赤黒い汚水の中でトレンチコートを脱ぎ捨て、どうにか浮かび上がった。
「ぷはっ!」
あたりを見回すと、少し離れたところに少女が浮かび上がってきた。
岸辺が見える。地下駐輪場にあるような、階段と自転車用の坂道がある傾斜で、地下道の入り口になっている。
「あっちへ! 泳げる?」
「うん」
永久は少女を促し、ゴミ袋やペットボトルやネズミの死体などが浮いている水面を泳いでそちらに向かった。ここは団地のあちこちから染み出していた、あの血反吐めいた水が最後に流れ着く場所らしい。
落とした拳銃のことが気にかかったが、見つけられるわけもなかった。
傾斜を這い上がると、二人とも咳き込んだ。通路を少し進んだところに自販機の灯りが見える。二人はそこまで行くと、服を脱いで強く絞り、水気を抜いた。
永久は少女の素肌に痛ましい古傷がたくさんあることに気付いた。職務中に何度か目にする機会があった虐待の跡だ。
服を着直した二人は自販機の前に並んで座った。永久は少女に笑いかけ、警察手帳を出した。
「私は佐池永久」
「……」
少女はガタガタ震えながら永久を見た。この異常な世界をずっと一人でさまよっていたのだろう。
「名前は?」
「……」
「言いたくないならいいわ。あなたたちを探しに来たの。お母さんと一緒にキャッスル南灰原に来たのね?」
「うん」
「何でここにいるか思い出せる?」
「うん……」
少女は涙を拭い、ぽつぽつと語り始めた。
「お母さんが、南灰原区ってところに親戚のおばあちゃんが住んでるから、会いに行こうって。バスに乗って、マンションについて、それで……エレベーターに乗ろうとしたら……」
「あの男に引きずり込まれた?」
少女は両手で自分の体を抱え、すすり泣いた。彼女は目の前で母親が足を切られるところを見ているのだ。永久はそっとその肩を抱いた。
「大丈夫、怖かったでしょう。私がここから出してあげるからね」
「お母さんを見ませんでしたか? 足をケガしてるんです」
「いえ……わからない。きっと無事だと思う。虻島先生は知り合い?」
「うん。小学校の先生だった。優しくて好きだったのに……」
少女はまた泣き始めた。
その冷え切った小さな体を抱いてやりながら、永久は考えを巡らせた。
(この子と母親、この子の担任教師。あの血族は無差別に人をさらってるわけじゃなさそう。昴ちゃんが言ったみたいに何か繋がりがあるのかしら。花切さんならどう考えるだろう)
改めて花切のことを考えた。
制服警官時代から先輩で、花切は一足先に出世して刑事となった。遅れて永久も刑事となり、改めてコンビを組んだ。永久は花切に憧れて後を追ったのだ。
花切の言葉を思い出す。
(((本当は怖くても、おびえてても、守るべき人の前では強いように振る舞って。こんなのどうってことないわって顔でね。〝勇気〟なんて本当はその程度のものなのよ)))
永久は立ち上がった。少女に手を貸して立たせると、精一杯の笑顔を見せた。
「さあ、そろそろ行きましょう」
「お母さんと先生は?」
「今はどうすることもできない。まずは私と一緒に外に出て、助けを呼びましょう。もう少しだけがんばれる?」
少女は小さく頷いた。
永久と少女は通路を進んだ。コンクリートに四方を囲まれた広場に出た。そこに当然のように一軒家がぽつんとあった。郊外でよく見られる、あまり広くはない量産品だ。
突然、手を繋いでいた少女が足を停めた。
永久が不思議に思って振り返ると、少女は一軒家の門をじっと見ていた。「材連《ざいれん》」と言う名の表札が出ている。
少女は突然、その場から逃げるように後ずさりした。膝をガタガタと震わせ、歯の根も合わなくなるほどおびえていた。いっぱいに見開いた目を真っ直ぐにその家に向けている。
「どうしたの?」
そう聞いた永久に、少女は何度も首を振った。口からはヒッという息を飲む音しか出て来ない。永久は彼女に向き直り、肩に両手を置いて顔を覗き込んだ。
「落ち着いて。どうしたの」
「……」
永久は一軒家に振り返った。あそこに何かがある……いや。永久は頭を手で押さえた。あそこは。あの家は!
「そこにいて。見てくるわ」
だが少女は目に涙を滲ませて首を振った。永久の腕にすがりつく。
「やだ! 置いて行かないで」
結局、一緒にその家に入った。
玄関には三種類の靴。男物と、女物と、子どもが履くようなスニーカーだ。リビングの食卓には三人分の皿が出されていた。
永久はキッチンの奥にあるドアを開け、階段を降りた。それが一軒家に敷設する半地下のガレージに続いていると知っていた。
ガレージに下りた。壁に工具がかかっており、一番奥に監獄があった。虻島の檻と同じく自作されたものだ。鉄格子を直方体に溶接したもので、四畳半ほどの広さがある。
監獄の中には鎖つきの首輪が二つあり、鎖のもう一端は格子に巻きつけられて錠前がかけられている。
少女が頭を抱え、泣きながらその場にうずくまった。
永久は鉄格子に近付き、隙間に手を入れて首輪を引き寄せた。それぞれに〝ケイ〟〝亜子〟というネームプレートが付いている。
永久は少女の隣にしゃがみ込み、じっと顔を見つめた。最後に見たときからずいぶん大きくなっていたが、確かに面影があった。少女のほうは永久のことを覚えていないようだ。
「あなた、材連ケイね?」
ケイはうずくまったまま呟いた。
「お母さんが誰にも本名を言っちゃいけないって……あの事件のことを思い出す人がいるから……」
* * *
一方そのころ、キャッスル南灰原。
六階のとある一室では、日与と昴が食卓についていた。目の前には菓子と茶が並んでいる。
品の良い老婦人がキッチンからやってきて、焼きたてのクッキーをどっさり皿に移した。
「どうぞ! いっぱい焼いたのよ。子どもはもっといっぱい食べなきゃ」
「ああ、えーと、クッキーは好きだ」
「い、いただきます……」
日与と昴は居心地悪そうに礼を言った。二人がこの家に聞き込みに立ち寄ったところ、住人の津川《つがわ》という老婦人にお茶の席に招かれて長話に捕まったのだ。
日与が言った。
「それで、ばあちゃん。あのさ、俺たち聞きたいことがあって……」
「お茶も飲んでね。ヨシユキの好きなハーブティーよ。テレビで言ってたけれどね、異態進化したカモミールなんですって。老化を阻止する成分が入ってるのよ! 私なんかもう毎日水みたいにジャンジャン飲んでるんだから」
津川婦人はどうやら痴呆の気があるらしく、ときどき日与を知らない男の名前で呼ぶ。
「ああ、道理でばあちゃんは若いはずだな」
「ほんとにお若いですよね……アハハ」
昴が気の抜けた笑いを漏らす。日与が続けた。
「それでさ、こないだ。ここで三日前に事件があっただろ? そのことについて聞きたいんだけど」
「三日前? さあねえ、何かあったかしら……そうそう! もらいもののヨウカンもあったのよ。あれも賞味期限があと三日だったわね。食べちゃいましょうか」
「いや、ばあちゃん。あのさ……」
昴が小声で日与に言った
「ねえ、もう三十分もここにいるよ」
「よし、逃げよう。話を合わせろ」
日与は思い切って言った。
「ばあちゃん、悪いけどさ、俺たちもう学校に戻る時間なんだ。な?」
「うん! その……補習に遅れちゃう」
昴が何度も頷く。だが老婆は笑って手を振った。
「何言ってるの! 久しぶりに来たんだからもっとゆっくりしていきなさい。タクシー代を出してあげるから。彼女さんの話も聞かせて」
「いや、彼女じゃねえけどさ。悪いけど、また来るから」
日与は席を立ちかけたが、壁を凝視していた昴に上着を引っ張られた。昴は日与に目配せし、壁にかかっているカレンダーを指差した。
「見て、あれ」
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