【ホラー短編】六〇六号室(5/7)
5/7
ある日にちに赤ペンで丸印が書かれ、時間が書き込まれている。
日与はそれを凝視した。三日前。この棟で二件目の神隠し事件が起きた日だ。時間は夕方四時。永久から伝えられた、失業者が子連れの女を最後に見た時間帯だ。
日与は真剣な表情になり、椅子に座り直した。
昴はテーブル下でスマートフォンを操作し、永久に短文メッセージでこのことを伝えている。
日与は津川婦人に言った。
「ねえ、ばあちゃん。そのカレンダーに書いてあるのって何の日?」
「なに言ってるの、ヨシユキ。亜子さんとケイちゃんが会いに来る日じゃない。ううん、来る日だったのよね」
日与は顎を撫でながら言った。
「来なかったの?」
「ええ。何でかしらねえ、ヨウカン買って待っていたのに」
「あー……二人の写真が見たいな。ある?」
「もちろん、あるわよ」
津川婦人は冷蔵庫の扉に張ってあった写真を持ってきた。母子の写真だ。正装の若い母親と、新品の制服を着た少女が、中学校の前で並んではにかんでいる。
例の事件があった時間に、この子連れの女が津川婦人宅に来る予定だった。だが来なかった。二人は恐らくエレベーター内部で姿を消したのだ。母親、亜子の足だけを残して。
あの棒人間の落書きの意味は。二人が同時に檻に入れられた意味は!
「亜子さんのダンナさんは……?」
日与の質問に津川婦人は声のトーンを落とし、目を伏せた。
「あの人の写真はみんな捨てたわ。嫌な事件だったもの」
そのとき昴が「ちょっとごめんなさい」と言って席を立った。スマートフォンでどこかに電話をかけたが繋がらなかったようで、しばらくしてから切った。
日与に囁きかける。
「永久さんと繋がらない。ちょっと見てくるね」
「え? 俺一人で話を聞くのか?」
「がんばってね、ヨシユキくん」
昴は日与に笑いかけ、「電車に遅れる」とか何とか言って逃げ出すように席を立ち、家を出た。
「あらまあ、せわしない子ね」
津川婦人が呆れて見送る。残った日与は憮然と茶を口に含み、津川婦人と話を続けた。
「それで……亜子さんとケイちゃん、前に何があったの?」
「まあ、あなた知らないの? けっこうな事件だったのよ。もうだいぶ前になるけど」
「あー、ちょっと勉強が忙しくてさ。知らないんだ」
津川婦人は食卓を見つめ、手の汗を拭いた。少し肩が震えているように見えた。
「亜子さんのダンナさんは溶接工でね。仕事中の事故で、その……男性機能に障害が残ってしまったの。それからおかしくなってしまった。きっと奥さんが自分では満足できなくなって、逃げられるかも知れないと不安になったのね。手を上げるようになって。とうとうあの事件を起こした」
日与は津川婦人の語り口がとたんに明瞭になったことに驚かされた。痴呆が始まる前の出来事はよく覚えているのだろうか。
「自分の家のガレージに牢屋を作って、亜子ちゃんとケイちゃんを監禁したの。一ヶ月ものあいだ。犬のように繋いで、餌鉢で食べ物を与えていた。それに……もっとひどいことを……」
津川婦人はその先は口をつぐみ、続けた。
「ケイちゃんの小学校の先生が家庭訪問したときに知って、警察に連絡して。それで明るみに出たの。テレビや新聞が大騒ぎしたわ」
その事件なら日与も知っていた。壮絶な虐待事件で、マスコミが大きく取り立て、被害者の母子を執拗に追い回した。母子は好奇の眼から逃れるため、名前を変えて市《まち》を出たという噂だった。
「亜子さんとケイちゃんは元気になったあと、引っ越して行った。ダンナさんは裁判の前に留置所で亡くなったらしいわ。もともと持病があって、たくさん血を吐いて死んだって。正直、天罰だと思ったわよ」
(虻島、亜子、ケイの親子。これで三人。棒人間の絵。四人目と五人目は……)
日与は「あっ!」と声を上げ、津川婦人に言った。
「ばあちゃん! その事件を担当した市警の人って女じゃなかった? 髪が銀色の!」
「さあねえ、そこまではちょっとわからないわ」
日与のスマートフォンに着信があった。昴からだ。日与は「ちょっとごめん」と津川婦人に言って電話に出た。電話の向こうであわてた様子の昴が早口にまくし立てる。
日与はひと言ふた言聞き返したあと、通話を切った。
「ごめん、また来る! お茶ごちそうさま!」
日与は津川婦人の家を飛び出した。階段を駆け下りて地階のエレベーターホールに出ると、不安げな表情の昴がエレベーターを指差した。
その中に例の棒人間の絵があった。五人中四人が檻に閉ざされたものが。
昴は隣にいる、おびえた様子の失業者の男に目をやった。
「その人が言うにはね、永久さんがエレベーターに入るのを見たって」
失業者は震え声で言った。
「エレベーターからでっかい手が出てきて……悪魔だ!」
日与はエレベーターのドアをこじ開け、シャフトの下をスマートフォンのライトで照らした。だがそこにあるのはシャフトの底だけだった。
日与の肩越しにそれを見た昴が言った。
「空間を繋げる能力の血族かも! どうしよう、永久さんだけじゃ血族には勝てないよ」
「ありゃ美女の皮を被った野獣だぜ。簡単にはやられねえ。何か方法を考えよう!」
* * *
永久は家の玄関が開く音を聞き、振り返った。
ジャラン、ジャラン。
鎖の音とともに、重い足音がこちらに向かってくる。
永久は明り取りの窓を見たが、入念なことにすべて格子が取り付けられていた。シャッターは開かないように固定されている。逃げ道がない。
ベルトから伸縮式の特殊警棒を抜き、ひと振りして伸ばす。
ジャキッ!
二メートル近い大柄な男が現れた。
水死体のように膨れ上がった体をしており、ボロボロの服の喉元は吐血で真っ赤だ。ゴボゴボと苦しげな音を立てて呼吸をするたび、腐敗臭があふれ出す。背中に何本もヒートンが刺さっており、そこからちぎれた鎖が垂れ下がっていた。
「あああ……」
ケイがいっぱいに目を見開き、引き攣った悲鳴を上げる。
永久はケイを庇うように立ち、血族を見据えた。
「材連《ざいれん》飛留人《ひると》! お前を知っているぞ!」
腹の底から声を張り上げた。
「お前は妻子と、妻子を奪った者をこの世界に閉じ込めようとしているな!」
材連飛留人は留置所で血を吐いて死んだと思われていたが、そうではなかった。いかにしてか所内で血族に生まれ変わり、この世界へ逃れていたのだ。市警は牢屋から彼が消えた事実を揉み消し、死んだということにして闇に葬ったのだろう。
「ゴボッ……!」
かつて材連飛留人という名の人間であった血族は、詰まったトイレのような音を立てて血を吐くと、丸太のような腕を伸ばした。
永久はその腕をくぐりぬけ、相手の手の甲を警棒で打った。
ドムッ!
ゴムタイヤを叩いたような感触とともに、警棒は弾き返された。
「ゴボオオオッ!」
血族はさらに大量の血を吐き、突進しながら腕を振り回した。巨体であるにも関わらず信じられないほど速い! したたかに腕をぶつけられた永久は壁まで吹っ飛ばされ、背中を壁に打ち付けられた。
ゴッ!
「!!」
息が詰まり、一瞬意識が遠退く。
血族はのしのしと歩いてくると、永久の片足を掴んだ。彼女の体をぬいぐるみのように振り回し、さらに壁に叩き付ける!
ドゴォ! ドゴォ! ドゴォ!
永久の手から警棒が落ち、ぐったりして動かなくなった。
血族は牢獄の中に永久を放り込んだ。建築業者であり、溶接工でもあった材連飛留人が自ら自宅に作ったものだ。血まみれの工具などがぶら下がったベルトから鍵束を取り、格子扉に鍵をかけた。
放心しているケイを腕に抱え、来た道を戻って姿を消した。永久はどうすることもできないまま、ケイがさらわれるのを見ていた。
「クソッ……!」
永久はバラバラになりそうな体を起こした。右足首がおかしな方向に曲がっている。血族に掴まれて振り回されているうちに折れたらしい。
監獄内には薄汚れたふとんが二つと、本棚がある。汚れたバケツはトイレ代わりか。
本棚はケイの教科書や文房具などが入っていた。永久はシーツを剥がし、引き裂いてロープを作った。自分の足首の折れ曲がった部分を掴み、呼吸を整える。
「いち、にの……さん!」
渾身で足を真っ直ぐに戻す! 押し殺そうとした悲鳴が溢れ出した。
しばらく意識的にゆっくり、深く呼吸をして痛みを頭から追い出す。足首にケイの教科書を巻きつけるようにして当て、上からきつくロープを巻いて即席のギブスにした。
(こんなのどうってことない。花切さんを失ったあの日の痛みに比べれば!)
右足を庇うようにして立ち上がり、監獄を調べた。しっかりした作りで、格子扉もとても開けられそうにない。
鉄格子の向こうには自分の右足から外れた靴が落ちている。あれが必要だ。しかし手が届く距離ではない。シーツに何か結び付けて投げ、引き寄せようと考えていた永久は、また玄関のドアが開く音を聞いた。
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