【ホラー短編】六〇六号室(7/7)
7/7
「ああああ! あああああああああああ!!」
それを見た血族はかんしゃくを起こした子どものように絶叫した。
呪いとも泣き言ともつかない言葉を吐き出し、血反吐めいた赤い涙を流しながら、エレベーターのドアをガンガンと叩く。
血族は永久を鳥篭に引きずって行った。永久を食卓に上げると、仰向けに押さえつけ、ベルトから血まみれのノコギリを手に取った。亜子と同じく、逃げられないように足を切り落とす気だろう。
永久は気丈に笑った。
「あの二人は逃げた。あんたの負けよ、豚野郎!」
「……」
血族はぴたりと動きを停めた。明後日の方向を見ている。人間には察知できない、何らかの超常的な信号を受け取っているように。
「ゴボッ! 五人目……」
血族はつぶやき、ノコギリを下ろした。永久を引きずり、鳥篭を出て走り出す。クリスマスを迎えた子どものような走り方だった。溶解液を浴びていないほうの片目を欲望にギラギラと光らせていた。
「五人目。ゴボォッ! 五人目ェェエ! 来たアア!」
「人違いよ! 花切さんはもう死んだわ!」
「ゴボオオオ!」
血族は聞き入れず、団地に入った。
そこは材連飛留人が生まれ、母親に育てられた、彼にとって永遠の牢獄だ。血族となった材連飛留人は悪夢と欲望が混ざり合ったこの世界を、エレベーターを介して現実世界と繋ぐことができるのだ。
エレベーターホールに来た。エレベーターのスイッチのバックライトがついている。血族はうずうずした様子でノコギリを振り回した。
「ゴボボボ! 五人目ェエ! アアアア……」
棒人間全員を檻に入れた絵を描きたくてたまらないのだ。永久の頬を切り裂いて描いたときと同じように。
エレベーターのドアが開いた。その瞬間、エレベーターから飛び出してきたものは鉄拳であった!
ドゴォ!
血族の顔面に鉄拳が直撃! 百キロ以上ある血族の体はダンプカーに追突されたように真後ろに吹っ飛び、壁に叩き付けられた。
殴られた瞬間に手を離しており、永久はその場に落ちて無事だ。彼女はまぶしげに彼を見た。高校の制服姿の少年だ。
日与は手の関節をほぐし、首に手を当ててゴキリと鳴らした。
「五人目じゃなくてガッカリしたか? ハ、悪いな! お前を殺しに来たただの俺さ」
小柄なその体が膨れ上がり、百八十センチ近いたくましい体つきに変貌した。雄鶏頭に背広姿の血族、ブロイラーマンとなり、高々と名乗りを上げる!
「血羽家のブロイラーマン!」
「ゴボッ……!」
血族はむくりと起き上がり、血を吐きながら答えた。
「夢渡《むと》家のブギーマン」
家名を名乗られたら名乗り返すべし。血族同士の戦いがお互いの家名を懸けたものであった時代の名残が、今もその血に継がれているのだ。
永久は這いずり、邪魔にならない距離まで離れながらブロイラーマンに言った。
「どうやってこっちに?」
「その話は後だ。まずはこいつをブッ殺す!」
ブギーマンは絶叫し、肥満体を震わせながらブロイラーマンに飛びかかった。
「ゴボーッ!」
「ウオオオオオオ!!」
ブロイラーマンのカウンターストレートがブギーマンの顔面を打つ!
ドゴォ!
「ゴボッ……!」
ブギーマンが衝撃に大きく仰け反り、大量の血を吐き出した。
さらにブロイラーマンの猛烈なラッシュ!
ドゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ!
「……ラアアアアアアアアアアアア!」
「ゴボオオオオオオ!」
嵐のように降り注ぐブロイラーマンのパンチ連打に打たれ、ブギーマンはどんどん後退していった。その背がどしんと壁にぶつかり、体前面を拳でほぼ潰されたブギーマンは床にしりもちをついた。
ブロイラーマンは容赦なく拳を振り被った。
「テメエは血盟会のモンじゃないな。外れクジに用はねえ! 死にな!」
「ママ……ゴボッ……」
ブギーマンは潰れた顔を涙に濡らし、幼い子どものように呟いた。
「許して……」
それを見ていた永久の胸に哀れみが差した。手をかざし、間に割って入る。
「待って」
永久は相手に声をかけた。血族のブギーマンではなく、材連飛留人という少年に。
「ママはあなたを許すわ。誰もあなたを許さなくても、ママだけはあなたを許す」
「うう……」
その一瞬だけ、ブギーマンは人間だったころの顔に戻った。永久が六〇六号室で見た、母親と並んだ少年時代の写真と同じ顔に。
永久はその場を離れ、ブロイラーマンに頷いた。
ブロイラーマンは一歩下がり、野球投手めいて大きく振り被った。
「オラアア!」
必殺技、対物《アンチマテリアル》ストレートパンチがブギーマンの顔面に炸裂!
ブギーマンの頭部はスイカのように潰れた。
グシャア!
* * *
ブギーマンが死ぬと同時に彼の悪夢が産んだ世界は崩壊を始めた。
ブロイラーマンは永久を抱え上げると、急いで脱出用エレベーターに向かった。
虻島を助ける時間がなかったことを永久は悔やんだ。だが助からなかったのは亜子も同じだった。彼女はマンション南灰原地階に出ると同時に、ケイに抱かれたまま死んだという。そもそもあの失血でも手当てもされず、四日ものあいだ生きていられたはずはない。
彼女も虻島も、ブギーマンの能力によって生かされていたのだろう。
永久は入院中、見舞いに来た日与と昴にどうやってあの世界に入ったか聞いた。ところが二人ともよくわかっていなかった。
日与は自分のスマートフォンを見せた。
「俺の電話にいきなり文字が表示された。メッセージが着信したとかじゃなくて、画面が真っ暗になって〝エレベーターに入れ〟って」
「どういうこと?」
「わからねえ。スマホも元通りだし」
三人とも頭を捻るばかりだった。
この謎は数ヵ月後、日与たちと血盟会との戦いが最終局面に差しかかったときに明らかになる。
一ヶ月が過ぎ、永久の骨がやっと繋がった。退院した永久はマンション南灰原に向かい、津川婦人の家に邪魔をした。津川婦人と、彼女に引き取られたケイが永久を歓迎した。
「私、先生になる」
ケイは永久に笑顔を見せた。
「先生や、お巡りさんや、お母さんみたいな人になる」
永久は微笑を返した。
津川婦人の長話に捕まらないうちに、永久は早々に別れを告げた。エレベーターを出ると、地階では失業者の男がゴミを片付け、落書きを消していた。もっとも、清掃員の仕事をしている今はもう失業者ではない。
彼は恥ずかしそうに笑った。
「あの子の住んでるところをキレイにするんだ。人間、できることからやんなきゃな」
永久は彼に約束していた食事のハンバーガーを渡し、自分の車に戻った。車を通りに出す。十年前のあの事件後、花切と交わした会話を思い出した。
(((本当に守る価値があるんでしょうか。こんな市《まち》を)))
永久の疑問に、花切は微笑んだ。
(((私は好きよ。天外の人たちが)))
今なら花切の言ったことがわかる。自分の身すらもいとわずケイを助けようとした虻島と亜子。他者のために命を賭して戦う日与と昴。辛い過去にもめげず夢を持ったケイ。
永久は熱意を新たにし、ハンドルを切った。
次の事件が待っている。
(地獄の団地六〇六号室 終)
総合もくじへ
ほんの5000兆円でいいんです。