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映画「エゴイスト」を観て、かつての家族を思い出した

ある日、私の母親がボーイフレンドを連れて帰ってきました。
そのボーイフレンドは、トランスジェンダー男性でした。R君と言いました。
その日から、私たちは家族になりした。
彼とは、私が大学生になってから就職して、一人暮らしをするまで、一つ屋根の下で暮らしました。草冠家の祖父母ともども。

私、弟、母親、FtMのR君、じいさん、ばあさん。
多様性とやらに屋根をのせたような家。
ま、うまくいかないですわな。

なので、映画「エゴイスト」の終盤は、観ていて気が気じゃなかった。

「浩輔、やめとけ」

と、何度スクリーンの中に乗り込んで浩輔を諌めたくなったか。
赤の他人と暮らすのは、そんなに簡単なことじゃない。
たとえそれが、愛した人の肉親だったとしても。

以下、ネタバレを含みます。同作を未見の方は、ぜひ先に映画をご覧ください。
鈴木亮平くんが5億点。宮沢氷魚くんでさらに倍。阿川佐和子でその二乗。天文学的な名作です。
とくに亮平くんは「変態仮面」発、「孤狼の血LEVEL2」経由、「エゴイスト」着という、こちらの眼圧が上がるほど目まぐるしいメタモルフォーゼ。この作品は間違いなく、彼の代表作の一つになるのではと。

話を戻します。
私がとくに印象に残っているのは、終盤。主人公・浩輔(鈴木亮平くん)は、恋人・龍太(宮沢氷魚くん)を亡くします。
しかし、龍太の母・妙子(阿川佐和子)は知っていました。二人の関係を。
二人で生きてきたというかけがえのなさを、母親である妙子はちゃんと理解していた。理解していただけでなく、深く感謝しながら、浩輔と悲しみを分かち合います。
龍太を悼む時間を共に過ごすうちに、二人は心を通わせていくのですが。

ここからが、エゴイストのエゴイストたる所以。
浩輔は、言うに事欠いて、妙子に同居を申し出るのです。
一緒に暮らしませんか、と。
けっこう強引に。妙子の気後れや戸惑いをものともせずに。

浩輔は、愛した人の肉親もこれ以上ないほど愛しく思うようになっていました。いいヤツ。
大きく出るだけあって収入も抜群。頼もしいヤツ。
だけでなく、夭逝した自身の生母と妙子を重ねていることは間違いない。いじましいヤツ、でもあります。

でも、いや、だからこそ、私の心はスクリーンに向かって叫んでいました。
「浩輔、やめとけ!」
「いくら愛した人の親だとしても、うまく暮らせるとは限らない!」
そう。我が家がそうであったように。

別れには二種類しかありません。生き別れ、か、死に別れ。

草冠家の場合は、生き別れでした。しかも、憎しみと醜さに塗り込められたバッドエンド。母親が同居に招き入れたR君を、後から入居した祖父母が追い出したのです。

トランスジェンダーの中には、いろいろな困難を抱える人も多くいます。親元には帰れない。理解ある人間関係を築きにくい。働く場所も制限され、経済的に不利な状況に陥りやすい。R君も例外ではありませんでした。

しかしそれを知りながら、祖父母は家族ではない彼を異物としか思えなかった。存在そのものが違和感であり、ストレス。
盲信的な新興宗教信者だった祖父母にとって、R君に勧誘を断られたということも気に食わなかった。

R君の暮らし方すべてに難癖をつけ、時間と居場所を奪っていきました。
そして、とうとうR君は帰ってこなくなってしまった。
祖父母は東北出身で、戦後の貧しさの中で育ち、戦後復興の住宅不足から間借り(他人の家の一間を借りる住み方)も経験しています。
彼らは苦労から何を学んだのか。あるいは神仏に何を拝んできたのか。

のちに母親から聞きました。祖父母は「せいせいした」と言っていたようです。それをきいたとき、言葉を失いました。
すでに一人暮らしをしていた私はその後、R君の転職を手伝うことで、せめてもの罪滅ぼしをするくらいしかできませんでした。

ただ。祖父母を「アイツらは差別主義者だ」「あいつらこそエゴイストだ」と断罪するだけでは、何かの正体を見逃してしまっている気がするのです。
もちろんこの成り行きには、無理解や偏見、差別が色濃く影を落としています。でも、差別はダメ!社会的に許されない!というそれだけでは解決できない何かが、間違いなくある。
なぜならそこは、社会性が通用しないことが多い、家庭という極私的空間だから。
後年、私もそこから逃げ出すことになります。

もしかすると、そもそも人は死ぬまで誰かと一緒に生きるようにはデザインされていないのかもしれません。家族以外と、いや、家族とでさえも。
群れで生きることと、誰かと生きることは、少し違う。
だとするならば、誰かとともに生きることは本来とても難しい、なんなら奇跡的なことなのだと思います。それに自覚的でいられるかどうか。

だから、映画のラストシーンに、私は心からホッとしました。
ああ。これは、生き別れじゃない。生という業がゆえの別れではない。

うっかり同居なんかしちゃった日には、その先にどんな愛憎、あるいは愛別があったかしれません。
浩輔にはきっと、これから新しい出会いが待っていて、新しい恋と巡り合うでしょう。そのとき居をともにしていたとしたら妙子はどうなるのか。

人は、誰もが多かれ少なかれエゴイストなのだと思います。どうせエゴイストなら浩輔には、生きて別れるのではなく、死ぬまで一緒にいることにワガママであってほしい。というか、ワガママでいさせてあげたい。
かつてR君を守りきれなかった自分が、名づけきれなかった感情。その正体が、ここで分かった気がしました。

妙子はがんを宣告され、病院のベッドで呼吸器をつけています。その様子からは、もう家に帰ることが叶わなくなったことがうかがえます。
その傍らで見守る浩輔。
妙子は細い呼吸を震わせながら、浩輔にとあるお願いをします。
浩輔は「はい」と微笑みながら、そっと妙子の手を握ります。

その時の、浩輔の笑顔の美しさといったら。
愛しい人と最期までともいにる、その喜びに照らされた輝きを放っているのです。

この一瞬に象徴されるように、この映画は1秒も捨てるところなく、全編にわたってとにかく亮平くんの演技が素晴らしい。
観終わって”あの役はあの俳優さん以外に考えられない”と思える映画は名作に違いありません。

亮平くんといえば、もちろん筋肉も。いや、筋肉こそ。
筋肉でいったら氷魚くんも。
二人の、筋肉を筋肉で撫であうようなラブシーン。
撫であうどころか、舐めあうようなベッドシーン。
ベッドシーンというか濡れ場。亮平筋と氷魚筋のベッチョベチョ大行進。
いろいろ書き連ねましたが、正直そこしか覚えてません。
つまり、最高の映画です!



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