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元・宗教3世が観た、映画「寛解の連続」【ネタバレ注意】

久々です。思わず天井を仰いでしまった映画は。
「わー」とも「あー」ともつかない唸り声を上げながら。
しかも開始早々10分そこそこで。
そこから100分間、ズブズブどっぷりです。

映画のタイトルは「寛解の連続」といいます。

あまりに面白かったのは、自分と共通点がありすぎたから。
その感想を
・ヒップホップ映画としての魅力
・元・宗教3世から観た、ラッパー小林勝行
という観点で述べてみたいと思います。

なので、以下ネタバレを含みます。未見の方はご注意ください。
でも、本当に面白い映画は、ネタバレしてても面白いもの。
この映画もそんな一作であることは間違いありません。ご安心を。

「寛解の連続」という映画で描かれているもの

本作は、小林勝行というラッパーを取材したドキュメンタリーです。制作期間は、実に6年。

小林勝行。
どっかで覚えがあるな。どこだったかな。と思ってたんです。
記憶を辿ったら、そうだ。都築響一の「ヒップホップの詩人たち」に出てた、と。
(ちなみに同書には、氏が吉本に行こうとした際、先輩に「アナルウナル」という芸名をつけられた、というエピソードも。必読です)

ヤンチャと呼ぶには生やさしいほど、荒れた生活をしていた小林氏。
ラッパーとなり将来を期待されながらも、躁鬱を発症。隔離病棟へ。
日常に復帰した後に介護従事者となり、敬虔な信心をもって再びラッパーへ。
カメラは小林氏の日常復帰後、なんとか生活が軌道にのった小林氏を、いろいろな側面から撮り続けます。
そして、それまでの生き様のすべてが不可分なまま、リリックに昇華されていく様子を記録していきます。
観ているこちらが気まずくなるほど至近距離で、残酷なほどに生々しく。

映画のセオリーとして三幕構成というのがあり、ドキュメンタリーもその構成をもつものは少なくないと思います。
しかし本作は、違うんです。
小林勝行という人物を、一筆書きに描きます。人が生きるということは、どこかで区切れるもんじゃない。都合のよい場面転換なんてあるはずもなく、終わりは始まりに続いている。
まさに、Life goes on. Show must go on.それがリアル。
そのリアルに向き合う姿勢からして、本作はとてもヒップホップ的であると感じました。
言わずもがな、ヒップホップ好きに強くお勧めしたい作品です。

ヒップホップ映画としての魅力

ヒップホップの特徴として、ライフスタイルと同義である、ということが言えると思います。
たんなる音楽ジャンルにとどまらない文化体系、あるいは哲学体系であることは、ヒップホップに理解のある人ならお分かりいただけるのではと。

まさにそれを小林勝行というラッパーは体現し、本作は見事に写しきっています。
目の前の人やコミュニティを大切にする。自分に誇りを持つ。楽しく過ごすことを忘れない。自分が自分であることを誇る。Future is Born. Peace,Love,Unity and Having fun.
いろいろな言い方がありますが、ようはそういうこと。

小林氏が介護者として、被介護者の手を握る仕草から。
「レベル99のホメ師でありたい」という氏の言葉から。
車中でラップの練習をする横顔から。レコーディングしてる笑顔から。
氏の生きるヒップホップが浮かび上がります。

グッドバイブス。
ヒップホップがなければ、言い当てることのできなかった感情なのかもしれません。
全編を通して氏は、どこか孤独に見えます。
誰かとつるむことも最小限にとどめているような。
しかし悲壮感は感じられない。音楽や言葉がともにあることの心強さ。
そこに強靭なヒップホップを感じ、希望すら見えてくるのです。

一方で、ヒップホップという音楽の厳しさも、本作には描かれています。
そのストイックさもまた、大きな魅力の一つです。

ひらめきは、密室の祈り。
小林氏が一人、自室にこもってリリックを書く姿を、至近カメラが捉え続けます。
幾度も口ずさみ、韻や聞こえを整える。頭を抱えて、ボールペンを走らせる。

罫線のない紙を叩きつけるように、言葉をつづっていくときの氏の表情は、映画でしか捉えられないものだと感じました。
苦悶しながら、しかし同時に没入し、充実しているような。
苦しいだろうな。でも楽しいだろうな。私はそう思ってしまいました。

作中で氏はこう言います。
「(自分のラップは)メンタルいわせたやつに特化する」
それはきっと、自分のメンタルを処方する。あるいは、自分の病みを音楽として調合する、というプロセスがともなうはずです。
つらかったこと。いまもつらいこと。思い出したくない人、こと。
だから氏はたびたび、吹き出すように泣きます。
部屋で泣く。
RECブースで泣く。
なんならインタビューに応えながらも泣く。

でも。そしてそれを隠しません。
おそらく、心のひだに触れるような言葉を紡ぐのは、大変に精神的カロリーがかかる作業なはず。
寛解しているとはいえ、躁鬱の持病があるなら、なおさら。
しかし。小林氏は、そこから逃げません。
そこもリアルです。非現実的に感じてしまうほど、厳然とリアルであろうとする姿がそこにあります。
そして、その結果生まれた言葉たちには、迫力とも凄みともつかない、もう言霊としか言いようのない何かが宿っていました。

リリックは、非常に宗教色の強いものでした。
宗教団体の具体名も、救済についても、盛り込まれていました。
よって、教条的あるいは教義的な匂いも強い。

私はTHA BLUE HERBが好きで、もう20年来聴いており。
彼らの楽曲にも、初期作から仏典からの引用がしばしばあり、近作にも仏教色の強いフレーズがありますが、それとは全く別。
小林勝行のリリックを文字で読むとギョッとする人も多いかもしれません。おそらく、私もその一人です。

なのですが、小林勝行の声とパフォーマンスにのると、ひとつのスタイルとして成立しているのです。
宗教色よりオリジナリティが優っている。
それはきっと、氏が生き様を全のっけしてラップしているから。
この人にしかできないパフォーマンスに仕上がっているから、しっかりとエンターテイメントになっている。
これは神業、もとい、業といわれる何かを感得できます。
おもわず口から出ましたよ。
「すっげーーーー」
と。
これはヒップホップ好きということからもありますし、私自身が元・宗教3世だから、ということもあるかもしれません。

元・宗教3世から観た、ラッパー小林勝行

実は当初、私はほとんど内容を知らないままこの映画に興味を持ちました。
「ラッパー・小林勝行。なんか知ってるぞ。病気から復活したドキュメンタリー?ヒップホップファンなら必見でしょ」
程度のもんです。

なので冒頭10分ころに、宗教、しかも新興といわれる団体の信者であることが明らかになった時には、面食らいました。
なんという映画だ!と。よく撮ったな!と。

そして。
うちにもあったなー大白蓮華!と。
私は、元・宗教3世(そういえばカトリックの人とかはこういう言い方しませんね。宗教6世とか。王侯貴族みたいですが)。
諸般の事情があって、親族や実家ごと、団体とは縁を切りました。棄教というものを経験しています。
(私がそう思い込んでるだけで、あっちは何をどう把握しているかわかりませんが。一生付き纏う不気味さかもしれません。知らんけど)

なので、ここまでまっすぐな新興宗教信者を描いているのをみて、あるいは描かれる覚悟を目の当たりにして、すごいなと。
なにがすごいかわからないけど、なんかとんでもないものを見ているぞ俺は、と。

小林氏のエライところは
「俺は勧誘(折伏といいます。折って伏せる。字面すごい)はしない。キャラやないしな」
と、さっぱりしているところです。
私の家族はことあるごとに、やれ新聞とってくれ、やれ誰々に投票してくれと、手当たり次第に当たっていました。八百屋とかにまで。
で、断られると毒づく、呪詛を発する(笑)。

氏にはそれが感じられなかった。
ライブの前に手を合わせて題目を口にする。
車の中でもそれをやる。
挙句、団体名や題目をもりこんだリリックも書く。
それでも、嫌味がない。
なんというか、神仏を頼むけれど、人に依存していない。
清廉としていました。

もともと依存心が強く、生きていく上での難題を何か(誰か)になんとかしてもらおうという他力本願な人間にとって、現世利益を説く宗教は、バッドトリップ必至のドラッグです。
宗教が一方的に悪いばかりでもなく、人間性との食い合わせの問題なのだと思っています。
困ったことがあったら仏壇とかに手を合わせる。
それでは解決するわけがないから、さらにすがるものを増やす。
それでもダメなら誰かになすりつける。それもう神様仏様カンケーなくなってんじゃん、と。
かなり敬虔な信仰家の家に生まれ、そこそこ将来を嘱望されていた自分は、そういう場面を嫌というほど見てきました。

小林氏には、そういう依存心が見えませんでした。
こう言っては僭越なのですが、自立していた。
自分で自分を引き受けている。その強さのために信仰がある。
ここもまさにDIYを旨とするヒップホップ的な部分だと感じました。

ヒップホップはもともと、多文化・多宗教・多人種の人たちが集まって生まれたもの。
みんな何かのマイノリティ。いろいろあって当たり前。
じゃあどうやってお隣同士でうまいこと、できれば楽しくやってく?
という生きる知恵が育んだものです。
逆にいえば、自分は自分。あいつはあいつ。という線引きをシビアに捉えている、ともいえます。理解し合えない前提で共存していく。
その姿勢を、小林氏に感じたのでした。

さらに深読みするならば、ステージに立つ人の矜持のようなものと
無関係ではないかもしれない、とも。
ラッパーは、ステージから発する言葉の全責任を負います。
誰にも頼ることなく、たった一人で。
その覚悟こそが、歓声を独り占めする資格。
孤独に鍛えられた人ならではのしなやかさや軽やかさも、
小林氏の魅力に感じられました。

ラッパーでない自分が憶測するのは烏滸がましいですが、
何かを信じることと、言葉を発すること。
底のほうでは、繋がっているのかもしれないな、と。

そして。ヒップホップと宗教2世(あるいは3世)。
この二点を線で結んだら、小林勝行が「ありえたかもしれない自分」に見えてきました。
別の境遇で、別々の結論に至った、平行線の人生が、
とある補助線を引くと、交わったかもしれないものに見えてくる。
そういう鑑賞体験って、ドキュメンタリー映画の醍醐味じゃないでしょうか。

安倍元総理の狙撃事件によって、思わぬ形で宗教2世・3世に注目が集まっています。問題 という議題をまとって。
ちょっとゲンナリしていた昨今。
なにか人間の可能性を感じるような、でも還りたくないのは間違いない。
ちょっと不思議な気持ちになったのでした。

作中で小林氏は、こう独白します。
「俺は今まで男であることこだわって生きてきた。だから、介護の仕事をして、あいつ(被介護者)のチンコを洗ったときには、泣いた。ショックだった。でも、違うんだよな。洗われているアイツのほうが恥ずかしいんだよな」
と。
いや、俺、どんな人生歩んでも、こんなに優しくなれないや、絶対。
優しさや思いやりの正体は想像力。ラッパーの想像力に勝てるわけないですね。

最後に

本作は2021年に渋谷のアップリンクという映画館でかかったいたはずです。
でも当時は、都合がなかなか合わずに見逃していました。
その後、諦めきれずに毎週しぶとくアチコチのサイトをチェックし続け、
THEATRE for ALLという配信プラットフォームで見られることが判明。
矢も盾もたまらず会員登録して観た次第です。

これを書く前にパンフレットが届きました。冒頭の画像は、それを撮影したものです。
これを読んだら、なにも書けなくなる。あるいはマネになる。と思って、まだ読んでません。
それくらい充実している内容であることは、ページをパラパラめくっただけで感じる迫力から、すぐに察することができました。

そして。レターパックの差出人欄には監督直々と思しき筆跡も。
かつてTHA BLUE HERBのDVDを観ていた時。ILL-BOSSTINOが言っていました。
「よくファンからサインくださいって言われるんだけどさ。CD発送した時の宛名、あれ、俺が書いてるから」
そのとき、封筒を捨てたことを死ぬほど悔いたことを思い出しました。
だから寛解の連続パンフレットは封筒ごと大切に保管して、宝物にしようと思っています。


おわり

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