続・迷妄する群れは迷信する鳩
こんばんわ。台風ひどくならないといいですが、どうってくるでしょうか。僕は地元の消防団に所属していたんですが、実際に台風の時に増水で川が氾濫して家からでれなくなってしまった人たちを目の当たりにしたことがあります。
まさか、ということがあれよあれよという間に起きてしまう時もあります。
暴風域に入ってしまうような地域にお住まいの方がいましたら、まずは自分と自分の大切な人たちを守れるように、いつもより大げさにリアクションをとるようにしていただきたいと思っています。
地域によってあらかじめ避難場所が必ず決められてあるはずなので、今のうちからお調べになっていただければよろしいのではないかと思います。
さて、タイトルからまだ怒ってるのかこの人は、と思われているかたもいるでしょうが、自分でもよくわかりません。ただ念のため、類似のケースで悩まれてる方々において僕のケースが何かの参考になればなと思ったというのは少しあるので、もう少し詳細を書きます。
昨日CSRから連絡がきました。
関係者へのヒアリングの結果、パワーハラスメントに該当するような行為は確認できなかった、と。
この結果についてはもちろん納得はできないが、意外というほどのものでもない。うちの上層部がおおっぴらに自分たちの管轄下でパワハラがあったと認めることはしないだろうし、結局CSRにしたって隠されたものを追求するほどのことはしないんだろうなーと漠然と感じてはいたので。
あとは声をあげたのが辞職や異動していった本人じゃないっていうのはやっぱり弱いよなーというのはあったんでしょうね。まずなんで被害者じゃない僕が声をあげたのか、という部分もおかしいといえばおかしいですよね。
なぜ自分がしゃしゃりでたのかと問われれば、告発をみんなが望んでいたから、というのはひとつあるかもしれませんね。多かれ少なかれ彼からの被害はみんな受けてましたから。
ただいくら告発するシステムに守秘義務が組み込まれてるからと言って「壁に耳あり障子に目あり」なので、告発者が露呈するリスクが完全にないわけではない、という部分をみんな恐れていたのではないだろうか。
自分もまさにそれが故になにも言わずにここまで過ごしてしまったんですが、、最後の被害者は仲良かったやつだったんですよ。まあ10歳くらい年下なんですが、それだけにちょっと勝手に弟のような感覚をいだいてしまっていたんですね。キモイですが。
彼とは部署は同じだったけれど職場が違ったんですよ。学校で言うと学年は同じだけどクラスが違うって感じですかね。なので彼の変化に気づくことができなかった。
それと、もともと飄々としたやつだったんで「あいつなら大丈夫だろう」という気持ちはどこかにずっとあった。今考えるとそれがいけなかったのかなとも思う。
気づいた時にはもう彼は職場を去っていた。その去り際も納得がいかない部分のひとつだ。彼がひとまず休業という形になったことを聞いてすぐにコンタクトをとった。そこで一部始終の詳細を聞いた。
幸い、彼自身は僕らの部署が強いてくる愚劣な同調圧力と、彼らが長いあいだ自分たちの組織の価値観でしか物事を見てこなかったせいで築きあがった内集団びいきと視野狭窄に気が付いていたので、僕と会うときにはすでに前を見ていた。
それだけが本当に救いだった。実際に立ち直れずに辞めていった人、1年の休職後にもかかわらず復帰にいたれなかった人もいた。同じことを何度も言うようだが、もちろんこれはそのパワハラ上司ただ1人に責任がある、ということではない。
そういうことではないし、そう捉えてもらっては困る。
今回の本当の問題は会社の対応のなかにある。
会社側も類似のケースで辞めていく人間が多発していることを把握し、なおかつその原因の大きな要素のひとつとしてパワハラのようなものがあることまで把握していた、人物まで特定していた。
実際にそのパワハラ上司に対して、辞めていった人間がでるたびに毎回ではないが、上層部の人間が指導や教育をしていたことからも、会社側も彼に問題があることを積極的に認めている証拠であろう。
しかし結局は彼の行動は改善されなかった。それどころかどんどんとハラスメントの頻度は上がっていったように思える。それぐらい短期間に人が矢継ぎ早にこの職場を離れていったからだ。
ではここで彼の行動を改善させることができなかった上層部の問題とはなんだろうか。
それは彼を行動変容に導く技術を彼らがもっていなかったこともそうだが、それができない自分たちを客観的に把握することができていなかった、というのが根本的な問題だろう。
臭いものには蓋をする、とはよく言ったものだが蓋をしてその中に一緒に閉じ込められるのは僕らである。いっしょに腐っていくのが必然だろう。
しかし上層部はそんなことは気にならない。なぜなら雇用や人材についての彼らの根本的な考えのひとつに僕ら(作業員)はいつでも交換可能な部品や、追加可能な燃料である、というような考えがあるからである。
ここに対して異議を唱える人もいるだろう。「実際にはそんなにひどいものじゃないよ」とか。「人それぞれ事情があって特に上の人はしがらみがあるからさ」とかどうたらこうたらである。
しかし明確な結果がでているのであって、そこには間違いなく因果関係があるのである。それはやつらも自覚しているのである。しかし彼らはその問題を、因果で結ばれている線を直視しても抜本的な改善をしようとはしない。
それが「自分の問題ではない」からだ。だって交換可能だから壊れたら変えればいいんですよ。彼らのロジックではね。人材は会社の一番大切な原動力であり資源だと思っていたんだがどうやら違うらしい。
この場合であれば抜本的な改善策とは、パワハラ上司を他拠点へ異動させて、僕らと彼との物理的な距離をとると同時に彼にその異動の理由を明確に彼に告げることで彼自身の行動や言動にどのような問題があったかを自覚してもらうことが最善の策であるように僕には思われる。
しかし実際に行われたことはそれとは真逆であった。最終的な判断として会社側が出した答えは「彼に問題はなかった」である。
ここまで読み進めていただいた方にならご理解いただけるかとは思うが、繰り返すが僕は私怨で動いたわけではない。怨恨や怒りほど自分の人生の貴重な時間を無意味に奪い去ってしまうものはない。
しかし、怨恨からではないにせよ今回は許せなかった。いつものようにやり過ごそうとしたがそれができなかった。体に症状がでたからだ。それは自分の心の無視してはいけない声のように感じられた。
というか、無視できるようなものじゃなかった。2、3日あまり眠ることもできず、十二指腸潰瘍にもかかり、副鼻腔炎まで併発した。結果として僕も数日ダウンした。その後に意を決して告発という流れだった。
なぜここまでの症状がでたのかといえばやはり自分のなかでまったくもって納得することができなかったからだろう。いくら理性が「こんなのいつものことじゃないか」とか「自分の身の安全を考えたほうがいい」とか言ってもここまでくると理性にできることはあまり残されていない。
今回の告発を通して会社側には正しい認知をしてほしかった。そのうえでしかるべき行動を起こしてほしかった。
具体的にはパワハラがあった事実を認め、それを今まで自分たちの管轄内でのさばらせてしまっていた事実を認め、そのような人間を自分たちが称揚して役職にまでつかせ、何人もの人間を損なわせてしまった責任の一端が自分たちにあると認めてほしかった。
そして具体的な改善策を会社全体で考えていってほしかった。今後CSRとしてはアンガーマネジメント研修やパワーハラスメント研修を定期的に行うことで改善を目指す、ということであった。しかしこれは徒労と自己満足に終わるだろう。
僕は本来であれば物事を断定するのは好きじゃない。この世界は変わり続けることで成り立っている世界だと思うからである。であれば人が変わることもできるのである。
しかし、【ひとが何かを学び取ることができるかどうか】というのは、ひとがその学びを受け取れる状態になっているかどうかにかかっている。その観点から言うとうちの上のやつらは【学び】の受け皿を持っていない。
もしくは持っていても底に致命的にでかい穴があいている。
これは年寄りが今までの成功体験に縛られて固定観念の奴隷になっている状態とも言えるだろうが、それに加えて致死的なほどの【学ぶこと】に対する無関心と、無気力さがある。自分自身が認識の幅を広げることへの価値にたいしてまったく認知していない状態である。
だからこそ
「感性が剥がれてく、生活だけが残る」のである。
そうではないだろうか。感受性とは自分のままならない部分であるかもしれない。自分がなにをどう感じるかは人によってさまざまだ。しかし感性とは感受性とはまったく違うと僕は思っている。
感性とは価値を与える機能である。物事を解釈するときに僕らが頼りにする重要な機能である。これは鍛えることができると僕は信じている。
例えば風邪をひいた時の解釈として以下のようなものがあるだろう
①「くそが、なんでこんな時に風邪なんかひかなきゃなんねーんだよ」というのか
②「あー、無理してたんかもなー。もう少し毎日の過ごし方を見直してみるか」というのか
③「きっと神様が休めって言ってんだな、よし、とりあえず思い切り休んでからまた頑張ろう」というのか
このそれぞれの解釈はあなた個人のパーソナリティによって決められているものではない。解釈の内容は自分の力でどうとでも変更できる。
学ぶことによってその解釈力はつけられると僕は思っている。
学び方は人それぞれだ。ある人は行動から、ある人は読書から、ある人は観察からといったように方法はさまざまだろう。しかしまずはなぜ自分が学びたいのかを明確にしなければならないだろう。
それはあなた自身がどうなりたいか、ということと関係がでてくるだろう。しかしそれよりもこうは思えないだろうか。
あなた自身がどうありたいか
社会において、家庭において、友人関係において
そして本当に一度きりしかない自分の人生において
あなた自身がどうありたいか、という質問は常に自分に投げかけていくといいのかなと思います。なかなかにしんどいんですが、流されるだけの生き方は僕はもう嫌だなって思ってしまったので、こんな面倒なことをだらだらとせっせと書いてるわけです。
最後にこの曲でお別れを。怒ってるひとにはズシン、とくるよ。笑
2000年代のインディーズシーンは絶望の中で足掻きまくって、「俺はこう生きていってやるからな」という美学をもったバンドがいくつもいたように思う。必然的にサウンドや歌詞が攻撃的だったり、鬱屈してたりするんだが、あれもあの時代を表現していたんだろうか。
今でも好きだ。
当時これを生で見て泣いた。笑
追記:とくに難なくニコチン離れ1週間経過。いい感じである。