黒薔薇
自分が特に気に入った記事を集めてDIYでマイ単行本を編む感覚で始めてしまいました。ご本人様からのクレームのみ謹んでお受け致します。サポート等は田所様へお願い致します。
推しを集めてみたら書き手がぜんぶ同じだったので、いっそマガジンにしてしまいました。非公式です。ご本人に『黒薔薇さんのマガジンから来ました』と仰って頂いてもたぶん通じません。一部有料記事が混ざっていることもあります。オススメ、サポートはご本人までお願い致します。
あの日から1年が経ったのだと、24時間TVを見ながら気がついた。 去年の8月最後の土日は、術前の塞栓術の予後が悪く、高熱にうなされながら過ぎていった記憶しかない。なにわ男子がパーソナリティを務めたということを後になってから人づてに聞いたきりで、内容も未だに知らないままだ。 手術をしてから1年あまりが経つ。もうそんな過去になったという実感はまだない。 依然として手は言うことを聞かないし、歩けるようになっても、まだ斜面と手すりのない階段は避けて移動している。自分の想
お久しぶりです。黒薔薇です。 私は、自分史上いちばん大きな病気を今持っているわけですが、回復するというのは、やっぱり風邪が治る時のように明確なものではないようです。 足元がどっしり落ち着いて、「よーし、もう走ろうが跳ぼうがOKだな」と体で分かるようなことは、ほぼ起きていません。 何なら、昨日はやれていたことが出来なくなっていたりします。 この間、初めて3時間を超える長い間を屋外で過ごしたのですが、何事もなく帰宅出来たものの、翌日は昼まで目が覚めませんでした。
季節が変わるほどの月日が過ぎたことが未だに信じられないのだが、この間退院して5ヶ月目を迎えた。 脳を切るというのは本当におおごとであったとつくづく思う。未だに手はろくに動かないし、外出して1時間もすれば疲労感が襲ってきて途方に暮れてしまう。出向いて退院のご報告をしたい方が山ほどいるのに、このていたらくである。 障害ゆえに何が出来ないということは、一般的に知られている「自分は◯◯が出来ません」ということとは全く違う現象である。勉強しても、努力しても、出来るようにはなら
私は去年、脳腫瘍という大病を患った。 死ぬかもしれないからと延命措置を希望するかどうかを訊かれて、常日頃から自分がこの世から居なくなることに対して何の疑問も抱いていなかったことを知った。 どこかで自分は短命だと思っていて、あたかも決められた長さを知っているかのように生きてきたとその時初めて気がついたのだ。 私は大学の時に恩師を亡くしている。享年53歳、がんの闘病中だったことを初めて知った。 前の職場に勤めていた時に、従姉を亡くした。彼女も53歳だった。
永田ジョージさんのライブ配信を聴きながら書いている。 実はこの間、うっかり珈琲をこぼしてしまったキーボードがうまく反応してくれないので、予測変換が誤字だらけになりながら打つのだが、それでも楽しい。 パソコンで何かを発信するのも久し振りだ。 世の中はどのくらい私の知る先に動いただろう。 まだ街中に出たら30分で頭の容量が溢れてしまう私には、闘病中にお世話になった方々の顔を見に行くことが難しい。 遠くからの発信を許して頂けるのなら、時々、手紙のような言葉をつづろうと思う
ぬいぐるみを抱いている時、その小さなものをあやしているのではなく、自分があやされているのだろう。
人差し指がまっすぐ伸びるようになりました。
先週から、電車で2駅の市街地を歩き始めました。 皆さま、お久しぶりです。脳腫瘍が破裂し損なって生き延びた私です。覚えていらっしゃるでしょうか。 脳にとって、五感から流れ込んでくる情報は刺激なのだそうです。 だから、病院にいて安静にしていた時よりもたくさんの情報が、普通の生活をしていたらどんどん入ってきます。 実際に街に出たら、音や匂いといったものが全方位から押し寄せてくるのがわかって、若干怖くなったほどです。 これまでのように歩けません。 あらゆる段
11/14に退院することが決まりました。 これからは日常生活の中で、機能を回復させていくことになります。 ひとまず、入院生活は終わりますが、病との付き合いは一生物です。 定期的な検査で脳の異常や再発の有無を確認しつつ、痙攣を抑える薬を飲み続けて生活します。 これまで見守って下さった皆さま、本当にどうもありがとうございました。 半世紀生きてきて、ここまで誰かが側にいることの有り難みを強く感じたことはありませんでした。 関わって下さった全ての方に御礼申し
昨夜、術後初めての発作を経験した。 指が引きつるように動いているのを感じたのは、左手でスマホをいじっている時だった。倒れた時も、左手で食事をしている時だったから、手を使うことがトリガーになっているのかな、と思った。 すぐに治まってしまったが、看護師に報告しないといけないと思った。主治医に伝えてもらうためだ。ナースコールを自分のために使用したのも初めてのことだ。「痙攣?!」と叫んでバタバタと出ていったので、同室の人たちも気づいたようだった。 当直の医師は脳外科では
この闘病記にお付き合い頂いている皆さま、どうもありがとうございます。2ヶ月を過ぎてやっと杖で歩けるようになりました。 右手は芳しくありませんが、トイレのペーパータオルをつまんで引き抜くことに先日、成功致しました。毎日、手をほぐして下さる先生方には感謝の言葉もありません。仕事に就くという目標にはまだ遠いようですが、1日ずつ大切に頑張っていこうと思います。 ここはまだまだ続きます。まだ読んでもいいよという方は引き続きお付き合いください。どこから読んでもそれなりに分かる内
転院してひと月経ち、主治医との面談日が来た。 「脚の回復は順調ですね」 MRIの画像を出しながらH先生が言った。 腫瘍で圧迫されて歪んでいた脳が膨らんできていたが、所々に白い影が映っていた。 「このあたりに腫瘍があったんですが、まだ脳のむくみが残っている状態ですね」 そこが恐らく、手の麻痺に該当する部位なのではないか、とのこと。 妹が口を開いた。 「その部分のむくみが取れるまで、どのくらいかかるという目安はあるのでしょうか」 先生は、うーんと唸って、特に何日経
とんでもないことが起きた。 今、私の部屋に車椅子はありません。 取られました!!(何するねん!) 看護師さん曰く、主治医の先生の指示とのこと。 まだ、大量の洗濯物が乾燥機に残っているのに、この仕打ち。どうやって持って帰れと?! 『この病院、スパルタで有名なんですよ』 今なら大きく頷ける。 私は、入院した時に服を詰めてきた布バッグを引っ張り出して、それに洗濯物を立ったまま詰め、左肩にかけて帰った。1時間前は「ダメ」だったことがいきなり「出来て当たり
ひとが少しでも元気がなさそうにしていれば、主治医とその上が飛んできて励ましてくれる素敵な病院です。。有り難いんですが、リアルであまり起きないことなので落ち着きません😅
今日は停電がある。 だから昼はお弁当だと聞かされていたのだが、午前のリハビリまでまるごと病棟で行うことになった。 自分が寝ているベッドで訓練をすると、おかしな感じがする。隣のベッドの人がじっと見ているのに耐えかねて移動するも、デイルームしか空いていない。その間にも、違う訓練をしている人の興味深そうな目線が向けられる。 お手玉を掴んでバケツに落としたり、麻痺側の腕を大きく上げたりする横を、歩行訓練の人と訓練士さんが通りすぎていく。普段の訓練場所は分かれているから、
1つ、大きなステップを上がった。 自分の部屋からデイルームとトイレに杖で歩いて行く許可が下りたのだ。 病棟の看護師さんたちはとても喜んでくれた。 まだ、訓練には距離があるので車椅子のままだが、それも時間が経てば行けるようになるだろう。 さて。 家族を驚かせる準備が整ったようだ。 今日はもう1つ、少し寂しい報告もある。 実習の終わった学生が帰っていったのだ。 明日からは、あの瑞々しい挨拶が聞けなくなると思うと、やはり寂しい。 甲斐甲斐しいとい