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サラリーマンを定年退職したオヤジの京都探訪【No.7 車折神社】

第7回は、嵐電沿線の車折神社!

(概 要)
車折神社(くるまざきじんじゃ)は、めずらしく神社本庁に属さない単立神社です。旧社格は村社。
祭神は清原頼業(きよはらのよりなり)。頼業は、平安時代後期の著名な漢学者・儒学者。
頼業が生前良く桜を愛でていたことから、車折神社には多くの桜が植えられ、「桜の宮」ともいわれています。

車折神社参道
車折神社鳥居

(歴 史)
平安時代末期の文治5年(1189年)に清原頼業が亡くなった後に頼業の院号にちなんで宝寿院という寺院が建立されました。その後、宝寿院の境内に頼業を祀る社が建てられ、それが車折神社の起源です。

社名の「車折」については、後嵯峨天皇が嵐山の大堰川に御遊幸の砌、この社前において牛車の轅(ながえ)が折れて、突然車が前に進まなくなった。御嵯峨天皇は頼業公を祀っていることを知り、還御の後に「車折大明神」の神号と「正一位」の神階を贈られました。これ以後、当社を「車折神社」と称することになりました。

室町時代になり、足利尊氏によって嵐山に天龍寺が建立されると宝寿院はその末寺となりました。

明治時代になると神仏分離によって、車折神社は宝寿寺から独立したが、荒廃してしまった。そこに、文人画家で儒学者でもある富岡鉄斎が宮司として入り、復興させました。
近代日本画の巨匠・富岡鉄斎は奈良の石上神宮や大阪の大鳥神社の神官を務めた後、明治21年から明治26まで車折神社の宮司を務めています。
鉄斎の作品が多数(約百余点)伝わっており、財団法人「車軒文庫」が管理しています。また、表参道脇の車折神社碑や裏参道入口の社名標、本殿の扁額は鉄斎の筆によるものです。
また筆塚には、 鉄斎が生前に用いた筆2,000本以上が納められている。

(境内社)
車折神社には魅力的な境内社がいくつもあります。
ひとつは芸能神社。祭神は、天宇受売命。
1957年(昭和32年)創建で比較的新しい神社ですが、芸能・芸術の分野で活動する人々より崇敬を受けており、有名芸能人やアーティスト達によって奉納された約4,000枚もの朱塗りの玉垣(2年間掲出)が社殿を囲んでいます。
有名人が数多く奉納していますので、多くの玉垣の中から推しの名前を探すのも楽しいものです。
そのほか、
清少納言社。 祭神は、清少納言。
頼業公の一族に三十六歌仙の一人である清原元輔がおり、その娘が清少納言です。
八百万神社。祭神は、八百万の神々。
大国主神社。祭神は、大国主大神(大黒天)などなど。

芸能神社と玉垣
清少納言社
八百万神社
大国主神社

(みどころ)
祭事として、例祭は5月14日。
その延長神事として5月第3日曜日に「三船祭」が行われる。
昭和天皇即位を記念して1928年(昭和3年)より催行されており、嵐山の大堰川にて平安時代の船遊びが再現される。

大祓式(茅の輪くぐり)は、6月の行事
人形(ひとがた)に名前等を書くことにより分魂が宿り、大祓式(6月30日)で神主がお焚き上げをすることで、半年間の生活の中で気付かぬ内にその方の身に付いてしまった罪や穢れ(けがれ)が祓い清められ、運気が上昇するというもの。

茅の輪くぐり
茅の輪くぐりについて

時代劇のロケ地として、
車折神社は、東映や松竹の撮影所が近くにあることから、映画やドラマによく使用されています。例えば、「吉宗評判記 暴れん坊将軍」「名奉行 遠山の金さん」「半七捕物帳」「忠臣蔵」「水戸黄門」 などなど。

神仏霊場巡拝の道の第91番札所
第90番は神護寺で、第92番は 仁和寺です。

車折神社御朱印


(ちょっと一息の休憩処)
嵯峨美術大学正門前の『中村屋珈琲店』
大学ができたころから50年以上営業している老舗珈琲店
店内はレトロ感満載、特にカウンター席が印象的
コーヒーが美味しいよ~

店舗外観
ブレンドコーヒー
嵯峨美術大学正門


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