意味にしがみつかない

最近、日に日に抑鬱的な状態に落ちている感覚がある。

それははじめ、気にならないほどの距離で横に座っていて、
ふと横目に見ると、気味の悪いほどやけに近くに座っている。

私はなるべく関わりたくないし、
それは私のかげみたいなものだから、
ただ離れてほしいと願うことしかできない。

昨晩から朝にかけて、それはほとんど真横に座っていた。
もし誰かがみれば、きっと気の置けない友人と思うだろう。
僕はまったく御免だと思うけど、これは一生ものの腐れ縁だ。

近くなれば近くなるほど、休職中の状態を思い出す。
そうだ、確かこんな感じだった。
よく生きていたものだと思う。

抑鬱の状態が、画一的なものかはわからないが、
根本的な症状は同じものであると思っている。

それはつまり「意味においていかれる」ということで、
言い換えれば「すべて無意味に思える」状態である。

それは「無意味になる」とはニュアンスがことなるもので、
意味は確かにあるのだが、それがうまく貼り付かなくなる。まるで磁力が弱まったマグネットのように。

あまり深くは踏み込まないが、個人の正常な人格とは、
汎ゆる偶然や、本来的には意味のないことすらも、
何らかの意味を生成し、必然として受け入れる。
人の主観は無意味であることに耐えられない。
それが人の意識のそもそもの機能なのだ。

そこで、その機能が暴走し、意味が氾濫するのが、
いわゆる統合失調症・分裂病と呼ばれ、
機能不全を起こすのがうつ病である。

…と個人的に理解している。

この、無意味に意味をあたえる≒思い込む機能こそ、
人を人たらしめる意識であり「信仰」である。

今の時代、「メタ認知」というものはポピュラーだ。
アニメでも漫画でも、「メタ的」なる表現は多く、
「推し活」もほとんどメタ的な要素を含む。

みんなそれが本物でないとわかっていながら、
本物であると信じるフリをして楽しむ。

(余談だが、その構造で第四の壁が破られたとき、
あたかもフィクションが現実に接続したように見える。)

このメタ的な消費活動の蔓延は、意識の病的な状態を示す。
あるいは、ナチュラルに病んでいるのが今のスタンダードだ。

宗教という神秘が失われた世界で、信仰を失った我々は、
創作という虚構をメタ的に消費することで生きている。
このメタ認知すら解体したとき、人は虚無に落ちる。

世界に存在するはずの無数の意味が先行し、
我が身だけが意味を持てず置き去りになる。

無意味を意味として信仰することができず、
意味にも無意味にも生きることができない。

そんな状態が、抑鬱的な状態だと思う。
ここまで整理して、いつも思い出す感覚がある。
そんな状態でも幸せだった瞬間が私にはあるのだ。

それは、休職の終盤、病院に向かう道すがら、
バイクで高架下から川沿いの道に上がるとき。

開けた視界にうつる空、川、草木、街、山。
身体に浴びる風、光、涼やかな空気、エンジンの鼓動。

そのどれもが、何の意味を持たずにそこにただあって、
本当に、汎ゆる意味から解き放たれて認識されたそれらは、
だた美しかった。それだけでいいと歓んで思うことができた。

そんな瞬間が確かにあったことを、思い出す。

だから、意味の不在が恐ろしく感じられたなら、
その時は、無意味だからこその自由を享受したい。

そうしたらきっと、鬱が隣に座ったときも、
肩を組んで仲良くできる気がするのだ。






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