通過儀礼としての「死」と「再生」、「絶望」から「創造」への転化、「子供」と「大人」

最近考えていることを、宛もなく書くことにした。
結論はまだ出ていないので、明確なテーマはない。
思考を整理しながら感覚を辿り、言語化する筋道を記す。
よって不完全であることを始めに断っておきたい。

まずこの頃よく考え、書きたいと思わせる対象について。

河合隼雄「昔話の深層」 これはユング心理学を基礎として、
物語に現れる人間の精神的・心理的作用を分析する書籍だ。
ユング心理学を全肯定する訳では無いが、分析は面白く、
著者の柔軟な考えから、あらゆる物語の読みに活用しても
差し支えないと思われ、最近の思考はこの著作を鍵とする。

そして、先日読んで唐突に書き投稿した作品たち。
リチャード・バック「かもめのジョナサン」
サン・テグジュペリ「星の王子さま」
近現代の代表的な寓話としての興味。

さらに体系化する以前の原初的宗教と感覚、古代儀式。
及びキリスト教、仏教(特に禅)等の宗教的思想。
また「歎異抄」ベースの「浄土真宗」の思想。
宗教的規範による「救い」と「社会」の形。

敬愛する漫画家、町田洋の最新作「砂の都」について。
また一連の作品を通した彼の思想についての考察。
「砂」「建物」「瞬間的記憶」と「創作」の意義。

同時に、ずっと書けずにいる市川春子「宝石の国」について。
フォスフォフィライトの結末についての考察。
自己愛、親子関係、規範的意識からの逸脱。

なし得なかった願望の成就を無意識的にも子供に託す親。
親の歪みを受け取る子供、盲目的に信じた親の愛への反発。
愛憎入り乱れる人間的感情。子供から大人への成長。

人間は、他の動物に漏れず両親のもとに生まれる。
かつては両親と、その所属する集団・社会に生まれた。
その内の保護・生育の過程で、教化され、規範を学ぶ。
かつては通過儀礼による「死」と「再生」の体験により、
その宗教的規範の中で子供を辞め、大人へと成長を遂げる。

今は(大きく捉えると同じだが)違う。家庭は核家族化し、
社会は知覚できる範囲を超え、規範は選択肢として点在する。

現代の子供たちは、ベースの規範意識をどこで身に宿すか。
身近な親、受けた教育、出逢った友人・教師・大人。
熱中した音楽・文学・勉学などの文化的作品。

子供は今、様々な要因によって、それぞれの規範を手にする。
しかし、それが何であろうと、子供から大人への成長には、
その規範の「死」と「再生」が通過儀礼として生じる。
社会で生きていく過程で起こる、他の規範との衝突。
この乗り越え方で、大人はおよそ2種類に分化する。

「自らの規範」を「社会の規範」と共存・対決させる人間と、
「自らの規範」から「社会の規範」に乗り換える人間である。
ここでその善悪を語ることはない。ただ互いに大人である。
この過程で子供は死に、規範の本質を知る大人に再生する。
社会の中で「自らの規範」を確立させるに至るのである。

これは過去から続く通過儀礼としての死と再生である。
様々な違いがあるが、本質的には同様であると考える。

しかし、今は国家・宗教・共同体・親の規範の強度が違う。
そしてそれらはそれぞれの歪みを抱え、正当性を失っている。
ここで言う正当性とは、他の規範と比較されるものでなく、
おおよそどの規範にも通ずる倫理・道徳的な正当性である。

現代の子供たちは、こうした乱立する規範の洗礼を受ける。
また、汎ゆる規範が、資本主義的損益で腐敗し、盛衰する。
その速度に正当性(人間性と言ってもいい)は重荷であり、
もはや正当性のある規範や、本質を知る大人は少ない。

利益、発展、莫大な願い、欲望の成就に、人間性は無用だ。
もっとも、その欲望の果の景色は私にはわからない。
欲望にも生と死の両面的作用が存在するからだ。

快楽物質、拡張現実、人工知能、計算機自然など、
科学の発展がもたらす新たな世界の可能性については、
1999年生まれの私からすると、絶望だけの世界ではないと、最近思う。私の生の感覚には、既に「仮想」の質感があった。
その感覚のリアルとフェイクは、過去の人間にわからない。
そして、人の欲望、発展は止まらないだろう。…脱線した。

本来「死」と「再生」には大きな痛みが伴う。(はずだ)
しかし、正当性や本質を失った規範には感覚が生じない。
つまり感覚の麻痺した規範の中では通過儀礼は機能しない。
要するに、この痛みを知らない人間は、未だ子供なのである。

社会には、この痛みを知らない大きな子供が数多くいる。
あるいは、その痛みを忘却し、大人として機能しない人間。
もちろん、痛みを耐えながら、生きる人間も存在する。
むしろ、現代社会ではこれが多数派であろう。

大人とは「死」の痛みの中で生きる人を指す言葉になった。
これもいまではある種の規範というか、型になっている。
サラリーマン信仰、昭和父親像、社畜、理解のある大人…

その対抗に「楽」に生きる型が生まれたのかもしれない。
つまり通過儀礼としての擬似的な「死」とその痛みを忌避し、
それを感じないようにする文化が発生しているのではないか?

しかし、それは緩やかな「死」でしかなく、「生」ではない。
多用される「透明人間」「ゾンビ」「自傷」等を連想する。
これについては、改めて考えるテーマにしようと思う。

とにかく、現代を生きる人間に、本当の大人は少ない。
それは「死」と「再生」の通過儀礼を通らずにいるからだ。

「死」を遠ざけるあまり、必要な儀礼的「死」すら切り離し、
子供が子供のまま生きられるシェルターを作ってしまった。
しかし、それは致し方ないようにも思える。

なぜなら、確かな規範や大人のいない「死」の痛みは、
「再生」の希望がない。本当の「死」と直結してしまうのだ。
その痛みに耐えきれず死んでしまう子供も少なくないだろう。
(痛みの感覚の大小は元の規範や本人の強度により異なる。
 また、強い規範や大人のいる環境もまだ存在するだろう。)

しかし、というか既に子供も2種類に分化するだろう。
子供のまま生き(られ)るものと、そうでないものだ。
ここは個人的な感情が先行しそうなので、今は触れない。

私は、絶望を経て、一時退行し、創造的に転化する成長、
自らの規範の「死」と「再生」の通過儀礼の過程にいる。
そんな気がしていて、私の興味はその再生の方法にある。
初めに挙げた、私の興味の対象たちは、その方法を記す。
それぞれの規範の死と、それぞれの方法の再生を持つ。

理解し得なかった宗教的規範のその真髄の片鱗や、
かもめのジョナサン、星の王子さまの見つけた大切なもの、
町田洋氏の感覚や、フォスフォフィライトの物語の意味を、
今なら理解できるような気がして、それを朧げに考えている。








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