くらのらサチエ

自分がないと言われ続けた人間が自我を獲得する過程についての覚え書きや日々のこと、好きな…

くらのらサチエ

自分がないと言われ続けた人間が自我を獲得する過程についての覚え書きや日々のこと、好きなもの。同じようなことをぐるぐる考えがち。

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  • サチエの生き方

    人生観や価値観を思うがままに語っている記事。私という人間の根幹部分。

最近の記事

不変でないという救い

昔は何でも、変わってしまうことが怖かった。 情勢も、人の気持ちも、自分自身も。 どんなに不変を願っても、ひとところへ留まってくれないものが、恐ろしくて仕方なかった。 今だってもちろん、変わって欲しくないものはある。 いつまでもそこにあってくれと、無理とは知りながら痛切に願ってしまうもの。 けれど同時に、不変であることに希望を見出してもいる。 ままならぬ世の中、生きづらくて仕方がなくて、お先は真っ暗で。 この先も生きていける自信をすぐになくして、不安に駆られて。

    • 変わって欲しいという願い

      昔の私は生きづらそうに見えたのだろう。 何人もの人が私を変えようとアプローチしてくれた。 けれど残念なことにその親切心からのアプローチは、私をただ苦しめただけだった。 一番変わりたいと願っていたのは、他ならぬ私自身だったから。 変われないはずだった私が変われたのは、そのままでいいと受け止めてくれた人の存在が大きい。 怖い怖いと縮こまって固くなった心に、ゆるゆると温かなものが流れ込み、時間をかけてふやけていった。 自分は変われるのかもしれないと、芽吹きの予感にワクワ

      • 味のない料理

        何年も前に流行ったアニメ・小説に、才色兼備でスタイル抜群、眼鏡の可愛い委員長。そんな出来過ぎた女の子がいた。 私は作品が再放送をしている時にたまたま、その子を見かけたのだが。あるエピソードを見て、ガツンと殴られた気になった。それは以下のようなものだ。 某羽川さんはなんやかんやあって同級生の女の子に手料理を振る舞う。しかしその料理には味がない。そして彼女はそのおかしさに気付けない。 私は彼女ほど極端でもなければ、味がわからないという自覚もあった。でも彼女は私なのだと思った

        • 当たり前レイヤー

          起業家の人たちを見ていて思うのは、苦労した過去のある人が多いということ。そのままでは生きていけない現実があって、必然に迫られて何かを生みだす。 最近はあまり聞かないけれど、若い時の苦労は買ってでもしろという言葉がある。失いたくないものが増えると守りに入りたくなる。大人になればなるほど、失敗することは怖い。 それはきっと、一度手にしたものを手放す痛みのせい。何かや誰かと比べて、自分たちは恵まれているのだからと認識したとして。苦しいものは苦しいし、辛いものは辛い。 恵まれた

        不変でないという救い

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        • サチエの生き方
          10本

        記事

          ルールを逸脱するということ

          日本は改善文化。そんな話を聞いたことがある。そして事実、そんな気質が根っから自分には染み付いているように感じる。 与えられたもの、既にあるものを元にどう合わせるか。 それは日本が閉ざされた国で、狭い範囲を対象にしていたからかもしれない。 今はグローバル社会。人も会社も国も、境界が曖昧な昨今。 改良をかんがえる間に、全く新しい価値や技術が生まれ、それそのものが不要となるようなことが増えているように思う。 前提が簡単に覆される世界。ルールの中での戦いから、そもそもそのル

          ルールを逸脱するということ

          優しいと言われると否定したくなる人たち

          以前にスーパードライから人間になったという我ながら複雑な話をしたが、それに派生して起こった変化がたくさんある。 今日はその中のひとつ、博愛主義からの脱却について書きたい。 スーパードライなどと評されながら、一方で私はよく優しいと言われてきた。それは誰に対しても公平公正に接していたからと思われる。 当時の私は、関係性などで誰かを優遇するのはいけないことだと思っていた。 それは一見すると美しく良いことだが、これっぽっちも人間らしくはない。優しいという評価にずっと違和感しか

          優しいと言われると否定したくなる人たち

          君の一番の長所だね

          「そこが君の一番の長所だね。」 どこにでもあるチェーンの中華料理店。 いつものお馴染みのメニューをつつきながら、どうしてか私が口にしていたのは、これまで隠し続けてきた弱音だった。 あの人はここがすごい、この人のここを尊敬している。 それに比べて私には何もない。 どういった話の流れだったかは忘れてしまったけど、賑やかな店内に似合わず漏れた寂しい本音を前に、向かいの彼女はにこやかに冒頭の言葉を口にした。 人のいいところばかり見えちゃうなんてすごいことじゃない。 そこ

          君の一番の長所だね

          スーパードライと呼ばれた女

          以前に私をよくわかっている知人から、スーパードライと評されたことがある。その知人は多くを語ってくれなかったので、当時の私はどうにもピンとこなかった。 そんなに私は冷たいんだろうか。 絶賛はやく人間になりたい期だった私は、密かにそうやって傷付くだけで。その時は笑って誤魔化す事しかできなかった。 そんな出来事から数年経った今、私はその評価の確かさをしみじみと感じている。 要するに私は、何でも頭で考え過ぎていたのだ。 事実は事実なのだからと、平気で何でも口にしていたことが

          スーパードライと呼ばれた女

          優し過ぎる人

          過剰適応という言葉があるが、私の周りにはそういう人がとても多い……気がする。 人といて何かを求められると、そういう人たちは過剰にその役割をこなしてしまう 合わせようとしてしまう。 私自身その気は強かったが、最近になって随分改善した。 無理なものは無理と諦められるようになったからだ。 自分自身の限界は自分にしか見えないし、決められない。 でも時にそれは見えなくなってしまう。 そういう時に必要なのは、限界を可視化してくれるモノや誰か。 一緒に限界を突破して、底まで

          優し過ぎる人

          人は何故占いにハマるのか

          以前わたしは知人から占い師のようだと称されたことがある。 私の中で占いというと不思議な力で先行きを見通してくれるスピリチュアルなもの。 私にそういった知識は全くないし、その人の未来を予見したわけでもない。 理解できずに確認した結果、知人にとっての占いとは、皆まで言わずとも的確に状況や自身の気持ちを言い当てる人のことを言うらしかった。 私からすればそれは心理学やカウンセリングの気がするのだが、それはさておき。 その経験からふと、占いというものに人が何を求めているのか何

          人は何故占いにハマるのか

          安穏と暮らせる人は多いほうがいい

          産まれながら生活に余裕のある人ほど、心は穏やかで安定している。一括りにする気は無いが、今の国に危機感を持っている人も必然的に少ない気がする。 きっとそれは、その人たちにとって現状に何も問題がないからだ。 私は現状維持では困る。だからどう変えようかと焦るのだが、そういう人たちに対峙した時、何も言えなくなってしまう。 その穏やかさ、心の安定は私にとって好ましい。だからそのままでいて欲しいと願ってしまう。きっとそれがその人たちにとっての幸せだから。 コスパだ何だとすぐに考えてしま

          安穏と暮らせる人は多いほうがいい

          家族が欲しいから結婚したい

          男と女が出逢って恋に落ちる。この人と一緒にいたいから結婚する。 長くそんな結婚に憧れていた。それがあるべき結婚の形だと思っていたし、私にとっても最適な形なのだと。 だから結婚願望もつい最近までなかった。そういう意味合いで好きになる人がいなかったから。 でも気付いた。私は恋愛というものが出来ないのではないかと。 男と女という分類がどうにも苦手だ。体力差など事実はっきりと違いがあるのだから、区別は必要だとは思う。それでも、男だからや女だからという論調に、とても違和感を感じ

          家族が欲しいから結婚したい

          ずぼらという最強の部族

          ずぼら=だらしがない、きちんとしていない。 総じてマイナスなイメージで辞書には書かれているが、調べてみるまで私はずぼらという言葉をポジティブに捉えていた。 ずぼらだからこそ少しでも楽をしたいと思う。ではどうしたらいいか? そういう怠惰な思考からこそ素晴らしい発明やアイデアが生まれると私は思っている。 かくいう私はずぼら人間。日々小さな工夫をしながら生きている。ちょっとの手間さえ積み重なると面倒になるからだ。 そして面倒な一手間を無くせないかと調べた時、大抵それは素晴らし

          ずぼらという最強の部族

          道を外れて気付くこと

          普通に大学を出て、普通に会社で働いて、普通、普通。 私は長らく道を外れないことだけを目的に生きてきた。 幸い社会に出て、会社に勤め、心が折れて退職に至るまではまずまず順調だったと思う。 つい数年前までの私は自己責任論を振りかざす人間だった(今でもその気は大いにあるけれど)。 立場が違えば見える景色が全然違うことに、自分の思い描く普通のレールから外れて初めて気付いた。 その立場になってみないとわからないことは沢山ある。 とはいえ自分の常識を常に疑ってしまうとそれはそれ

          道を外れて気付くこと

          何がと、どうして

          何事にも白黒が付くと思っていた頃、何がと説明できないままそれは悪だと反発することがよくあった。 でも今思えばそれはただの思い込みで、植え付けられた価値観だった。 何故と問われると言葉に詰まって、それでも悪いことは悪いとそればかりで。 植え付けられたものだったからこそ、余計頑なになっていたのかもしれない。 何が悪いという世間の基準ばかりを見ていたから、何故と踏み込まれると思考が停止して。 それでも正しいと信じてきたものを否定されるのは怖いから、明確な理由がないことを認

          何がと、どうして

          自己中心で社会貢献

          社会を良くしていきたいというと立派な志に聞こえる。 ただし私の場合は決して崇高なものではない。 ある意味逃げの社会貢献である。 大切な人たちを支えたいけどそんな余裕は私にはない。 自分が生きることに精一杯だからだ。 誰かを助けるなんてとても出来ない。 だから一生懸命何とか生きて、せめて社会を良くしていくことで、社会に大好きな人たちをなるべく助けてもらいたいと思っている。 自分のために社会を変えていきたい。

          自己中心で社会貢献