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優しいと言われると否定したくなる人たち

以前にスーパードライから人間になったという我ながら複雑な話をしたが、それに派生して起こった変化がたくさんある。

今日はその中のひとつ、博愛主義からの脱却について書きたい。

スーパードライなどと評されながら、一方で私はよく優しいと言われてきた。それは誰に対しても公平公正に接していたからと思われる。

当時の私は、関係性などで誰かを優遇するのはいけないことだと思っていた。

それは一見すると美しく良いことだが、これっぽっちも人間らしくはない。優しいという評価にずっと違和感しかなかったのは、恐らくそれが理由なのだろう。

道徳の教えに従い淡々と親切をこなす。正しい行いの一方で、伴わない感情。それは私にとって、受け入れ難いコンプレックスの一つだった。


「あなたは優しい。」そう褒めると否定する人たちが多くいる。

その理由はさまざまだろうが、中には私のような人もいるのだと思う。

その人たちはきっと、常識やかくあるべしというある種の呪いから抜け出せず、空っぽの自分に苦しんでいる人たちでもある。

誰よりも道徳を追い求めながら、追い求めるが故に、温かさを伴う感情的な判断が出来ずに戸惑う。

それではあまりにも報われない。


正しさにしがみつき、それを忠実に実行することでしか優しくいられないと昔は思い込んでいた。中身は冷たい人間なのだからと。

でもそれは大きな勘違いで、真実は全くの逆さま。社会的な正しさに依存し、忠実にそれを実行することを良しとしたからこそ、私の心は眠ってしまっていたのだった。

今の私は博愛主義ではない。それはある意味では正しくないのだろう。けれど私の身の丈には丁度であり、大切なものだけを大切にできる自分を、私は結構気に入っている。

自分のものではない、借り物の正しさを忠実に実行している人たちに伝えたい。

あなたの頑張りは素晴らしい。あなた自身もそうやって、頑張る自分だけは誇らしく感じているのではないかと思う。

でもそれは違う。その必死の頑張りを手放したとして、空っぽにはならないし、優しく出来ないということもないから、どうか安心してほしい。

あなたは決して冷たい人間ではなく、強く握りしめた指針を捨てて、自らの意思で歩み出したとして。酷い人間になったり、嫌な人間になったりしない。

あなたは無謀な理想を前に、ただ疲れているだけなのだから。














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