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横山くらい
2022年9月18日 17:35
親子の入店が増え、籐馬が対応を始める。 柳木も千花も談笑の中でカップの中は空になっており、準備を始めようかと荷物に手を伸ばす。スツールから飛び降りたところで、スイーツ美女の彼女に声をかけられた。「もしかしてふたりは読み聞かせのスタッフさんですか?」 パソコンを閉じ、背中で振り返った彼女に千花は首肯した。もう怯えていないあたり、会話の中で柳木の無害さを汲み取ったらしい。「はい、これ
2022年8月24日 22:07
悪夢から覚めた後は、どうにも遅れて倦怠感がやってくる。元気づけに紅茶を注文し、待つ間に店内を眺める。 ジャコビアンに塗装されたカウンターテーブル、天井に吊り下がるシャンデリア、赤いベルベットの椅子。少し暗めの温かい色温度で昭和レトロ感の漂う内装だ。落ち着いた空気感に、つい仮眠もしたくなる。 お昼時ということもあって、来店客は多い。千花の二席隣にはポニーテールの若い女性がパソコンを開いてい
2022年8月19日 17:27
沈み込んだ感覚が危険信号に切り替わる。下半身にまとわりつくどろりとした流砂に千花は意識を覚醒させた。「なに、これ」 唖然として周囲を見渡せば、やけに低い視界に涅色の泥の海が広がっている。刻一刻と水位を増す様相は、埋もれていく体に相対的に成り立っている。足を支える大地がないとすれば、これは所謂底なし沼。 絶えず体を吸い込まれ、腕の半分を泥に沈めたところで、千花の愚鈍な神経は悲鳴を上げた
2022年8月10日 18:18
震える掠れた呼吸音が耳に届いた。見たくない。見たくないと思うけれど、大切に想うのならば受け入れなければならない。 ゆっくりと視線を向けると、胸の前で左手首をきつく握りしめたゆかが口を結んでいた。頬を伝う雫が唇の端を湿らせていく。渇いた千花の口腔が外を望んでも、送り出す言葉が見つからない。慰めも励ましも理解がなければただの暴力だ。 すさんだ千花を笑顔にしてくれたゆかの表情に今は胸を締め付け
2022年8月10日 18:14
「メッセージの横に送信時間が表示されてるよな。これらのメッセージはすべて午後六時過ぎに数分おきに送信されてる。ところで俺はこの会話、二つに分けられると思うんだが」 記憶力に乏しい千花は三度目の黙読に入る。柳木が先ほど営業妨害だなんだと可愛げのないことを言っていたあのやり取りだ。「えーっと、前半はみんなとはぐれたあみちゃんが場所を聞いてて、後半はパーティが終わってからの会話ですかね」「そ
2022年8月10日 18:09
車道の方によって辺りを見渡す。すると反対の歩道を警察署とは逆方向に歩いていく柳木を見つけた。だんだんと小さくなる柳木を目で追いながら、千花は混乱する頭で自身のモットーに従うことにした。 聞くは一時の恥、恥じて覚えて考えろ。仕事を放棄することに全力で謝罪し、千花は店内の机の上にあったこの店の鍵を取りに戻る。急いで出入り口を施錠し、柳木の後を追った。 開店についてだけではない。柳木は血の付い
2022年8月8日 22:34
柳木は愕然として声を荒げた。机を叩き、差し迫ってくる覇気に千花は背中をそらせて全力で後退した。怒られたわけでもないのに謝罪の言葉が口から溢れる。千花の驚愕は別の驚愕に塗り替えられ、頭が過敏なほどに冴えた。 冷静さを取り戻した柳木は、千花から離れると威圧感そのままの声で確認を取る。千花はもともとこの悪夢を共有するために足を速めていたのだ。幸か不幸か働くようになった頭で体験した出来事を順を追って
2022年8月6日 10:09
「柳木さん!」 走った勢いのまま乱暴に扉を開けると、カウンターの前で缶コーヒーを片手に持つ柳木と目が合った。呆気にとられた様子で目を細めた柳木は、肩で息をする千花に違和感を覚えたようだった。缶を机の上に置き、薄暗い部屋の奥からどうしたと歩み寄ってくる。 千花は息も絶え絶えにガラスの靴とゆかに起こったかもしれない出来事について話した。ゆかと初めて会った日に相談されたことから、血の付いたガラス
2022年8月3日 21:08
「嫌……ぐふっ」 衝撃で目が覚めると、千花は布団をまとってうつ伏せにベッドから落ちていた。落下の反動で夢から覚めたのだとしたら自身の寝相の悪さに感謝するほかない。 千花は間に合わなかった。あのまま凄惨な状況を目の当たりにすれば、一生のトラウマになったかもしれない。そうでなくても十分に心に傷を残してしまっている。千花は動くことができず、そのままの不格好な体勢で顔を布団に埋めていた。 ……
2022年8月1日 20:26
「王子の命を受け、この靴に足の合うお嬢様を探しています。その方を花嫁にするということで、この家のお嬢様方にもぜひご協力をお願いしたい」 役人はそう言って右足のガラスの靴を母親に差し出した。母親は慈悲をたたえた笑みで、役人にねぎらいの言葉をかける。「まあ、お城からは長い道のりだったでしょう。娘たちが靴を履く間、エールでもいかがですか?」「それはありがたい。連日家々を尋ねているのですが、一
2022年7月31日 19:13
午後の営業が始まっても、すぐにお客さんが来るということはない。そもそも、ここは童話専門書店。日本でこの店だけといって良いほど稀有な存在だ。従来の書店に比べてターゲット層が明らかに狭く、本来なら利益が出ないほど閑散とした状態になる。 この店が存続できているのは、日本で唯一という大きな特性が人々の関心を呼び、県外からの客足が多いおかげなのだ。そのため特に土曜日と日曜日の休日は、観光スポットのよう
2022年7月29日 20:59
することもなく周りを見渡すと、道を挟んだ向かいにはコンクリート造りのビルや二階建ての店、コインパーキングなどがある。高さがあるので斜めに伸びた影がこの歩道にまで到達していた。 T字路の角にある「眼鏡屋スズモト」と書かれた木製看板が目立つ建物は、シャッターが閉じサビが際立っている。店が閉まってから相当な時間が経過しているのだろう、商店街の名残りが感じられる。 一本道が終わり、左折して緩やか
2022年7月28日 17:47
柳木の拳がゆっくりと千花の頭上に迫る。すかさず二歩下がった千花は臨戦態勢で反論する。「だって絵本でエラって名前見たことないですし!タイトルも『シンデレラ』なんだから勘違いしても仕方ないですよ!」「こら逃げるな。確かに絵本は子どもに分かりやすいように構成されてるからな。特に日本における『シンデレラ』のストーリーはディズニー作品からの影響が大きい。本名のエラ含め、詳しい話は原作を読む必要があ
2022年7月27日 22:02
日本は四季があるというけれど、温暖化の圧力に秋は立つ瀬がないと思う。同様に春も。 十月も下旬となれば肌寒く感じることが増えた。たった最近まで半袖でも汗に苦労する猛暑だったのに、衣替えのタイミングを逃したまま冬が訪れようとしている。黒のニットにみ空色のサテンワンピースを合わせた千花は、現在二瀬小学校からの帰り道だ。 もちろん授業を受けた放課後の帰路ではなく、ポスター掲示のお願いで柳木に同伴