見出し画像

人より速いことを目指して頑張って走っていた頃のお話。

私は頑張らない人間だ。趣味でトライアスロンをやっているが、「頑張らないこと」をモットーにしている(なおトライアスリートの中で少数派の模様)。トライアスロンの3つの競技、水泳・バイク・ランの、どれもゆっくりだが特にランは頑張らない。基本1km7分ペースとジョグのペースで行き、きつかったらすぐ歩く。ランの練習も数か月に一度。トライアスロンでなくランだけの大会でさえ、きつかったらすぐ歩く。レースには毎月出てるし運動も好きだし、毎週2〜3回のバイクトレーニングはすっと続けているけれど、「頑張ってる」感覚を持つのは嫌なのだ。

こんな私も、頑張って走っていたときはあった。バスケ部に入っていた中学・高校の頃。バスケ部は走る。マジで走る。体育館の占有時間の関係で、一日の練習時間は1時間半~3時間程度だったのだが、その間ほぼずっと走っている。走っているというか、ダッシュと静止を繰り返し、インターバルトレーニングに近い。練習メニューにはフットワークとか四角パスとかツーメンとかスリーメンとかいろいろあるが、大体全部走ってる。しかも部員数が多くなくすぐ自分の番が回ってくるので、もはやずっとダッシュしている。ある時、隣のスペースで練習しているバレー部、バドミントン部、卓球部の練習を観察したことがあるが、明らかにバスケ部ほどは走っていなかった。それらのスポーツは自陣を出ず試合中は長距離走らないのではしりこみがさほど必要ないし、バドミントン部などはコートの交代があるので、待ち時間がある(その分総練習時間は長かったりする。あともちろん学校にもよるだろう)。バスケは試合でも、たった5人のスポーツなので常に気を抜けず、自陣と敵陣をひたすら行き来してずっとほぼ全速力で走る。40分間走り続ける体力をつけるためにも、練習中も走りまくるのだ。

走るスポーツには、ほかにも陸上、サッカー、ラグビーなどがある。これらの部活もよく走り込みをするので、長距離走に強い。ただ、私の高校にはサッカーとラグビーの女子部はなかった。なので、私の女子バスケ部だけは陸上部並にトップクラスに長距離走が速かった。私自身もいつの間にか体力がついて、長距離走の授業では2クラスの女子40人程度の中、いつも1番速い子のペースを追いかけて2番を走ってゴールしていた(ペースを作らなくていいので楽なのだ)。さらに、私のバスケ部には伝統があり、年に1回のマラソン大会では2学年10数クラスの女子400人だか500人の中で、「女バス全員(20人程度)30位以内に入賞しなさい」とお達しがあった。そのときも頑張って走り、全体18位となかなかの好成績を記録し、表彰台に呼ばれてメダルと賞状を受け取った。とても誇らしかった。あの頃は、「足速いよね、すごい」と言われては、自分の努力を誇りに思い、喜んでいた。

あの時は必死だった。女子バスケ部だからというプライド。自分は長距離が速いんだというプライド。絶対に歩かず順位をキープするんだというプライド。実際に体力も今よりずっとあったんだけど、基本的にプライドという気力が自分を走らせた。プライドがあるから、きつくても体に鞭打って、それなりに速いスピード、たぶん1キロ5分程度で走っていた。一度歩いてしまったら、怠けたら、もう頑張れなくなる。糸が切れてしまう。だから頑張る。そんな気持ちだった。

果たして、部活をやめてからその糸は切れてしまった。高校卒業後も、暇な時を見つけてときどき外に走りに行っていたのだが、あるとき気づいた。「私、そんなに走るのが好きじゃない」と。あんだけ頑張っていたのは周囲の目があったからで、ひとりではそんなに頑張れなかった。そもそもよく考えたら、長距離を頑張るようになったのはバスケ部に入ってからで、もともとは短距離走や跳躍のほうが得意だった。人の筋肉は、短距離派と長距離派に分かれるという。私はどう考えても短距離の筋肉で、生来は長距離は不得意だった。世の中には長距離ランが得意で好きで好きでしょうがないという人もいるけれど、私は確実にそれではなかった。

それに気づいてから、外を走ることを減らして、市民プールに行って泳ぐようになった。人に誘われてランニング大会に出るときも、のろのろ走った。トライアスロンを始めるときにも、ランは無理しないことを決めた。歩いてOK。遅くてOK。練習でも本番でも、ペースは決めずのんびりと。そう許可して、ゆっくりと走った(歩いた)。人にも「私遅いんで」と自分から申告し、「足が速いキャラ」はスッパリやめた。ハイレベルなトライアスロン系のレースでは断トツのドベで、片づけられつつあるゴールに一人フィニッシュ、なんてこともたびたびあったけど、制限時間内でさえあれば、「これが私のペースだからOK!(そしてスタッフの方遅くまでありがとうございます!)」と、開き直った。

そうしていたら、最近少しずつ、走ること自体を楽しめるようになった。少しずつでも走っている自分を褒める。周りの景色を楽しむ。すれ違う他のランナーに挨拶する。「頑張らなければならない」という思いが取れて、純粋に走りに集中できるようになってきた。遅いけど、楽しい。マイペースで頑張ってる自分偉い。これは、昔頑張っていた時にはなかった感情だ。いい結果を出すことがすべて(=出せないのは恥ずかしい)。速くてカッコイイ自分が好き(=遅いのはダサイ)。表彰されることが、褒められることが私の報酬(=遅いと意味がない)。そんな思いで走っていた時とは、まったく異なる。今のほうが自然体で、豊かで、幸せだ。

人生でも同じだなあと思う。私は高校生の時、勉強でも似たところがあった。いい成績を取る自分。偏差値の高い自分。それがカッコイイし、自分を成している一つだと思っていた。そのお陰で成長できたところも確実にある。でも、窮屈だった。今は普通の企業で普通にマイペースで仕事をしていて、肩の荷が下りたような感覚だ。

もし私が何かまかり間違ってあのまま「人より優れるために頑張ること」をやめないまま生きていたら相当しんどかったろうなあと思う。「いい成績を取ることに意味がある」「優れた自分がカッコいい」「人に認められるのがやりがい」は、裏を返すと「失敗したら意味がない」「脱落者は生きていく価値がない」「認められないと無駄」となり、この思いを潜在的に抱えていくことになる。働くこと、勉強すること、趣味。色んなことを「結果を出して他人に認められること」「他人より優れること」のために頑張るのは、なんとも他人軸の生き方だ。努力するのは美しいことだが、その目的がそれとは情けない。いつかきっと、「あ、私、これそんなに好きじゃなかったな。」と気づいて、休んで、そこからまたやっと、次の人生が始まるんだろう。

というわけで、頑張らないことで私のトライアスロン生活は実に幸せになっている。仕事も今の感じで続けていきたい。その他のいろんなことも。「人より優れた結果」のために頑張らずに、それ自体を楽しむこと。それによって人とつながったり、人を助けたりすること自体に喜びを感じること。それを大切にして、下手でもダサくても落ちこぼれでも、地に足を付けて、深い幸せを感じていきたいと思う。

この記事が参加している募集

部活の思い出

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?