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「私」と「あなた」の幻想 『新版 エルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』

ホモ・サピエンスが誕生して30万年だか20万年が経過したらしい。6万年前まではアフリカ大陸で暮らしており、日照への対応を考えれば皮膚の色は褐色系であっただろう。6万年前あたりに何があったか知らないが、アフリカを出て世界中に拡散を開始した。緯度が変われば、日照時間と日照強度が変化し、日照が変化すれば植生が変化する。植生が変われば、そこで暮らす動物の種類も変わり、移動した先でホモ・サピエンスが手にすることができる食物もそれぞれの土地に応じたものであったはずだ。

当然、我々はそれぞれの環境に適応した姿形になる。しかし、その適応には時間がかかる。イマドキの若い人を見て「頭小せ」とか「脚長げ」とか思うのだから、万年単位の変化ともなれば「人種」とか「民族」といった括りで分化する大仰な変化になって不思議はない。万年単位の変化といえども、突然変異の蓄積によって遺伝子のレベルでの変化が定着することによって漸くはっきりとした差異になる。例えば、2018年に英国自然史博物館は、1903年にイギリスのサマセット州チェダー地方で発見された約一万年前の人骨のDNA解析を行い、その結果に従って当該人骨の顔面を再現した。皮膚の色は暗褐色で瞳は青だ。

今は世界で暮らす人々の外見はかなり多様だが、元は生活環境がアフリカ中部に限定されていたのだから、ホモ・サピエンスの標準はその辺りの自然環境に適応したものであったはずだ。チェダーの彼が生きていた頃は人類の出アフリカから五万年ほど経ているが、それでも少なくとも皮膚の色は低緯度系のようだ。今でこそ「ナントカ人」であることが差別のネタになったりするのだが、一万年も遡ると我々はホモ・サピエンスとしてアフリカの大地に生まれた頃と然程変わらない一括りの生物種である。つまり、万年単位で眺めれば、今とやかく言われる人種の差異は細やかなものでしかない。

それを思うと、信条とか信仰の差異はどれほどのものなのだろうか。経験を超えて発想することはできない。信条や思考は生活の現実に根差したものであるはずで、既成の広域宗教が日本で今ひとつ地に足がついた感がないのは当然であろう。それでも長きに亘って信仰が世代から世代へと受け継がれるなら、やがて現実が信仰に近付くこともあるかもしれない。

信条や思考は個人の生涯という時間軸で変化するが、生理であるとか身体の形質といったものの変化は、遺伝子のレベルで、それぞれの生活現場の環境に適応した突然変異が何世代にも亘って蓄積されて定着する。チェダーの彼の子孫も、彼の地での日照に合わせて色白になり、彼の地の寒冷な空気を多少なりとも温めて体内に取り込むべく鼻梁が高くなる。生きることは環境に適応することでもある。

身体の変化は遺伝子の作用だ。

 遺伝子は、私たちの体を構成しているさまざまなタンパク質の構造や、それがつくられるタイミングを記述している設計図です。ヒトは二万二〇〇〇種類ほどの遺伝子を持っており、その情報をもとにつくられるタンパク質が私たちの体をつくり、細胞の中で起こるさまざまな化学反応を制御して、日々の生活を可能にしています。この設計図を書いている「文字」に当たるのがDNAです。
 DNAは正式名称をデオキシリボ核酸といい、G(グアニン)、A(アデニン)、T(チミン)、C(シトシン)という四種類の化学物質が含まれます。この四種類は総称して「塩基」という特別の名称で呼ばれているので、DNAと塩基はほぼ同義語になります。DNAは複製をつくるために二本の鎖状の構造を取っていて、GとC、AとTがそれぞれペアになって存在するので、通常はその連鎖のことを「塩基対」という言葉を用いて表現します。
 ヒトの持つDNAは全部で約六〇億塩基対あり、延ばすと二メートルもの長さになります。それが折りたたまれてひとつの細胞の中にある核に収まっています。核を持つ細胞は二〇兆個ほどあると考えられますから、ヒト一人が持つDNAの全長は、四〇〇億キロメートルというとんでもない長さになります。
(中略)
 私たちは、自分が持っているこの二人分の遺伝子をシャッフル(組み換え)して一セットのゲノムをつくり、配偶者のゲノムとあわせて子孫に伝えています。つまり子どもは、両親から半分づつの遺伝子を貰うことになります。しかしそこには例外がふたつあります。ひとつは細胞質にあるミトコンドリアのDNAで、これは母親のものがそのまま子どもに受け渡されます。もうひとつは男性をつくる遺伝子の存在するY染色体で、これは父親から息子に受け継がれることになるのです。

篠田謙一『人類の起源』中公新書 72-74頁

というわけで、ミトコンドリアのDNAの変化を遡及的に辿ることでヒトの移動経路がわかるという理屈になる。この分析を系統解析というのだそうで、その系統解析を図解したものが下図である。

篠田謙一『人類の起源』中公新書 76頁

DNAの系統解析をさらに細かく行えば、例えば同じアジア集団の中でも日本人とそれ以外の差異が明らかになる。それぞれの土地にそれぞれの環境があるのだから、そこに適応した生物種は当然に多様になるはずだ。

地球が自転しながら太陽の周りを回り、太陽系まるごと何かの周りを回り、その何かが別の何かの周りを回り、という気の遠くなるような営みを所与のことと想定すれば、環境は常に変動しているはずであり、いわゆる「安定」というのは至難のことでほとんど幻想の域にある概念でしかない。昨今、温暖化であるとか環境の崩壊といったことが喧しく語られているが、それでもなんとなく昨日と同じような今日、今日とほぼ変わらぬ明日があるものとの思い込みの上に暮らしが成り立っている。しかし、現実は奇跡的な均衡の上に何とか成り立っている。

その変化し続ける環境下で自分自身も様々に変化する中で、「私」と「あなた」あるいは「私」とそれ以外との区別は尺度の取り方で如何様にもなる。尺度をどう取るか。結局のところ、決めるのは自分だ。ところが、その自分が無い。「私」というのはたぶん幻想だが、幻想する主体が幻想だとしたら「私」は、この世界は、一体何なのだろう?

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