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信条について 『新版 エルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』

もうすぐ都知事選挙だ。よく、初対面の相手と政治や宗教を語るべきではない、などという。これは欧米の精神科医が患者のカウンセリングに際して注意すべきことのひとつとして言われていたものが世間に拡散したものらしい。

ドイツで臨床に携わった木村敏京大教授に伺うと、かの地では、信仰は患者に尋ねないことが原則なのだそうである。同じくアメリカでの臨床経験の長い土居健郎・元東大教授の御教示では、かつての宗教戦争の傷跡が、まだ癒えていないからだとのことであった。

中井久夫『世に棲む患者』ちくま学芸文庫 306頁 「精神的苦悩を宗教は救済しうるか」

欧州の長い歴史の中で、様々な民族の移動があり、ローマ帝国のような大国家が成立したり消滅したり、キリスト教が成立したり分裂したり、時に大規模で長期にわたる武力紛争があり、ペストの大流行のようなこともあり、民族、人種、政治、宗教その他諸々の大小様々な変化を経ている。自分とは異質の思考をする相手を前にして、生きるか死ぬか、殺すか殺されるか、というような切羽詰まった局面も数多経験したはずだ。そこで問題になるのは自他の区別、相手が「私」の側なのか否か、ということになる。隣国との戦争のようなものがなくても、十字軍とか魔女狩りとか、信条を問うのに大きな出費や覚悟を強いたり血生臭いことをする。それくらいに自分と関係する人の内面に対する関心が高いということでもある。つまりは、内面に関して何事かを共有しているとの幻想を抱きにくい相手に取り囲まれているとの緊張感を持って生きているということでもある。

「大航海時代」に日本にスペインやポルトガルの宣教師がやって来てキリスト教を布教したのは16世紀後半だ。当然、科学技術の発展で長距離の航海が可能になったという事情はあるだろうが、それ以前にカトリックが欧州域外へ勢力を拡散せざるを得なかった事情もあったはずだ。16世紀に入った前後にキリスト教界内部で既存の教会主流派に対する反抗運動が活発化し「プロテスタント」と呼ばれる勢力が急速に成長した。詳しいことは知らないが、既存の権力や権威が長期化することで内部の歪みも増幅されていくのは自然なことだろう。そうしたなかで、既存権力側も大いに揺らいで、欧州域外へ勢力拡大を図らざるを得なかったのではないか。

オランダのカルヴィニストたちが、他の地域よりも一世紀早く魔女狩りをやめて、その代わりに患者を「働かない者」として強制労働させたところに近代精神病院の始まりがあるという事実から、近代精神医学の成立における勤労倫理、その根底にあるカルヴィニズムに思いをいたすのは、マックス・ヴェーバーが、すでに資本主義の「精神」に見たものと同じであって、それほど奇異でも独創的でもない、と日本の知識人ならば考えるであろう。しかし、この考えは、西欧の精神科医で精神医学史の造詣の深い人からも、感情的に近い反発を受け、発言を遮られることさえあった。

中井久夫『世に棲む患者』ちくま学芸文庫 306-307頁 「精神的苦悩を宗教は救済しうるか」

社会構造の中で支配被支配という関係が当然にあり、その関係性の安定化に脅威となる存在が隔離されて抹殺されたり無かったことにされるというのは、いつの時代のどの社会にもあることだろう。我々の日常においても、意識するとしないとにかかわらず、存在を否定したり無視したりする対象の一つや二つはあるはずで、そういう心情の下敷きが社会の構成員の間で共有されることによって、いわゆる差別問題が頭をもたげる。ホロコーストは決して特異なことではなく、日常の延長線上にあることで、誰にとっても他人事ではないのである。

ナチスによるホロコーストで約600万人が犠牲になったと言われているが、あれから80年近くが過ぎた。エルサレムにあるシンクタンク、The Jewish People Policy Institute (JPPI)2023年版の年次報告書によると、2021年において世界には約1,647万人のユダヤ人がいるそうだ。このうち687万人がイスラエル、730万人が米国におり、この二カ国だけでユダヤ人人口の86%を占めている。

米国の人口は約3億3,650万人(2024年6月米統計局推計)なので、730万といえば2割強だ。以前にもどこかに書いたかもしれないが、集団の中で1割を上回ると、その小集団は全体を動かす潜在的な力を持つようになる。実際に米国でも政権中枢でユダヤ人が活躍している。現バイデン政権では15人の閣僚のうち国務長官、財務長官、司法長官、国土安全保障長官の4人を占め、しかも国務長官、財務長官、司法長官は大統領権限継承順位がそれぞれ4位、5位、7位という超重要ポストだ。閣僚級高官でも、大統領首席補佐官(2名とも)、国家情報長官、科学技術政策局局長、経済諮問委員会委員長(2名中1名)を占めている。米国実業界となると、金融をはじめとして各業界の主要人物は「悉く」と形容しても過言ではないほどユダヤ人に満ちている。

米国の成り立ちを見れば、その母体となっている欧州の精神世界の変遷と密接に絡んでいるのだろうし、今なお欧州域内に多数の言語集団や文化集団が複雑に同居している現実は「信条」というものの重さを体現しているのだろう。重さが違うのは分かるが、どう違うのかは私にはわからない。しかし、「ユダヤ人」というだけで「最終的解決」の対象になり、多くの人がその「解決」に加担したのは、独裁権力による強制の所為だけだったのだろうか。ドイツでナチスが政権を掌握したのは、その前段階として選挙によって一定の議席を確保したという事実があることを忘れるべきではないと思う。

ところで、現代日本での精神科のカウンセリングにおいて、患者に尋ねるのが憚られることは宗教とか信条のようなことではないのだそうだ。

現代の日本においては当然のことながら、宗教が話題に登場する場合は少数例なのである。欧米のごとく、宗教は聞くことを憚る主題でもない。それだけ、傷を負っていないとも言えるが、軽視されているとも言える。現代日本の患者にもっとも聞きにくいのは、実に「学歴」であり、しばしば、非常にぼかした答えとなるか、拒絶される。次は、職業であって、「何々関係」と表現されることが多い。これで見る限り、日本は非常に世俗化された社会であると言えよう。

中井久夫『世に棲む患者』ちくま学芸文庫 309頁 「精神的苦悩を宗教は救済しうるか」

もうすぐ都知事選挙だ。どの候補者にも「政治信条」が無いことはよくわかる。公約イコール政治信条ではないのだが、立候補を表明する場で候補者が公約はこれから考えると言い放つことができるのは、その候補者の特異性ではなく、我々国民一般にとっての「信条」とか「内面」がいかに軽いかということを端的に表している。自分はそういう社会に暮らしているということも、こういう時に改めて確認できる。内面への意識は淡白だが同調圧力は妙に強いというのも厄介だ。独裁者のような人がいる他所の国での出来レースのような選挙を他人事のように批判的に報じたり語ったりすることがあるのだが、そういうのを「目糞、鼻糞を嗤う」というのかもしれない。民主主義とか選挙制度というものは自分が置かれた状況を明らかにするという意味では、ありがたいものだと思う。

そういえば、学歴詐称疑惑のある候補者もいるようだが、学歴は詐称しなければならないほど政治家にとって大事なものなのだろうか。政治の仕事のほうで嘘を並べているのだから、ついでにそれくらいはどうでもいいことなのかもしれない。あるいは、せめて経歴くらいは正直に語りましょうよ、と思う人もいるかもしれない。何はともあれ、詐称しなければならない理由が俄に思いつかない。ふと、日本文化の特徴の一つは「軽み」である、というのを思い出した。

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