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中井久夫 『世に棲む患者』 ちくま学芸文庫

11月10日金曜日、日経ホールでみんぱく公開講座を聴講した。お題は「依存するヒト」で講演は国立精神・神経医療センター精神保健研究所薬物依存研究部の松本俊彦先生と国立民族学博物館人類基礎理論研究部の平野智佳子先生。各講師がそれぞれ30分の講演を行い、それに基づいて約40分のパネルディスカッションという構成で、進行役は国立民族学博物館学術資源研究開発センターの野林厚志先生、というものだった。たまたまこのところ中井久夫の書いたものを読んでいる所為もあり、大変興味深かった。

松本は精神科医としての自身の研究や臨床経験から、依存症の治療の要を孤立させないことと説いていた。依存症(addiction)に対するものはつながり(connection)だというのである。このことをわずか30分の講演の中で「薬物」の定義と歴史から始まってネズミによる実験データの紹介まで含めて見事にまとめており、講演内容もさることながらその手腕に感心した。

平野はオーストラリア先住民を対象とする研究をもとに、酒を巡っての先住民間の関係と先住民と国家との関係を語った。オーストラリア内陸は乾燥地域であり、酒のもとになるものがなかったため、先住民が酒類と出会うのは欧州系の人々が入植した後のことである。平野が対象にしている地域の先住民は、アルコール依存症の問題を抱えながらも、比較的うまく対処できているように見えるという。その要が先住民社会内部の「つながり」の妙であり、先住民の世界観の中での白人社会の位置付けとそれとの距離の取り方にあるようだ、というのである。

松本もネイティブ・アメリカンのアルコール依存症問題に言及していたが、北米先住民も豪州先住民も植民地国家成立当初は被征服民として抑圧された。それが昨今の人権重視の潮流の中でその歴史や文化が改めて認知され、それまでの抑圧的な政策から保護的な政策へ転換が行われているらしい。しかし、それは先住民への敬意というよりは補助金を掴ませて隔離して、とりあえずの形を整えているだけのように見えなくもない。そもそも先住民の文化はとっくに粉砕されているだろう。その残骸を寄せ集めて人権云々と言われても、言う側も言われる側も当惑するだけではないか。手の施しようがなくなってから表向きの態度を変えて「できるだけのことはしましたが、、、」というのは姑息な出口戦略のようにも見えてしまう。

私はそのあたりのことの経験も知識も持ち合わせていないが、想像するに先住民は暮らしに困らない程度の経済的補助を国家から受けながらも就業機会は十分とは言えず、結果として無職の状態で暮らしているケースが多いのではないか。かといって、旧来の狩猟採集的な生活が認められているわけでもないようだ。つまり、いわゆる「仕事」に就くという形での社会参加から外れていて、有体に言えばヒマなのではないか。そこに酒類への依存症の温床があると思うのである。

本書も様々な論考を一冊にまとめたものだが、その中に「働く」ということについて、精神疾患患者の社会復帰という観点から論じられているところがある。中井も病気と社会からの孤立の問題について度々言及しており、その所為もあって、松本のconnectionの話が私には刺さった。

これまで「なぜ働くのか」ということを深刻に考えたことが無いままに賃労働者として38年も過ごしてしまった。その間に二度、解雇を経験したが、初回の時は解雇通知を受けた翌日に街で以前の勤務先の先輩にバッタリ出会い、その日のうちに彼の勤務先に採用が決まったので、失業に至ったのは一度ということになる。その一度のほうも、単発のバイトを繋ぎながら旅行に出かけるなどして呑気に構えていたら、口入屋が働き口を世話してくれたので、実態としては4ヶ月半の失業期間だった。それで、「なぜ働くのか」ということを真剣に考える機会がないままに還暦を超えてしまった。恥ずかしいことである。それで今更なのだが、人は「なぜ働くのか」、「働く」とは何なのか。

疾患の治療においては、「就業すること=疾患の寛解」という図式で捉えられることが多いという。働くことが人として何かしら当然のことと社会的に認識されているということなのだろう。

リハビリテーションが狭義の治療およびソーシャル・ワークの代わりにならないということから当然の帰結だが、リハビリテーションの目標をただちに治療目標と等置するのは正しくないだろうということである。
 これをわざわざ言うのは、リハビリテーションの一部である「働くこと」が、広義の治療目標と同じ意味として掲げられていることが少なくないからである。極端な場合、「働くこと」が、患者にとっても家族にとっても、いや医者にとっても「治ったこと」とほぼ同じにみられてきた。
 これは一見もっともらしく見えるが、実際は、さまざまな混乱を生み、長期的には再発促進的な見解であるとさえ私は思う。むろん、病気が治れば、多くの人々は、他に事情がなければ働こうとするであろう(倫理的に働かなければならないのではない)。しかし、「働ければ治った」のでは決してなく、それは一つのステップである。(略)しかし、「働くこと」と「治癒」とをイコールとすることは、「服薬しないこと」と「治癒」とをイコールとするのと並んで、患者自身も周囲も陥りやすい誤りである。その結果は無益な焦慮であり、性急と挫折である。

本書45-46頁「働く患者」

確かに、就業することで所得を獲得することができ、その所得によって生計を立て、社会生活を営むことができる。おそらく大事なことは、社会の中で何がしかの位置を占めること、或いはその自覚だろう。社会とは秩序であり、その秩序の中に位置を得ることで人は「自分」になる。所得はその位置の表徴であり、就業状況と所得状況によって人は社会の中で公的にも私的にもその存在が認識される。

所得だけが問題なら、定職に就かなくても生計は立つ。世間には単発のバイトの口はいくらでもあり、私の場合、二度とも解雇通知を受けたのが11月の終わりだったので、二度目のときはクリスマスケーキの仕上げ作業とか、年末休暇で従業員が少なくなった工場の雑用、百貨店の催事の入れ替え、食品卸業の臨時倉庫でおせち料理セットの仕分、などなど日に一万円程度ずつ毎日取っ替え引っ替えどこかから給金をもらうことができた。実際、バイトで出向いた先には、そうやって暮らしている人がいくらもいた。また、そういう暮らしは特定の人間関係に縛られることがないので、私のような無精者には心地良くもあった。

しかし、それは健康で身体が一通り動けばこそ可能なことであり、自身の健康のみならず何かしら身の回りに不測の事態が生じれば、そんな生活は破綻する。不測の事態に際して社会のセイフティネットに引っ掛かるには、少なくともその社会に参加をしていなければならない。この国の場合、それが就業なのである。だからこそ、疾患などで社会の営みの輪から外れた場合に、本人やその関係者、治療者といった面々が社会「復帰」にこだわるのだろう。

5年ごとに実施される総務省の就業構造基本調査というものがある。直近は2022年10月1日現在のデータをまとめたもので、2023年7月21日に公表されている。この統計によると、2022年10月現在では、15歳以上人口が11,019.5万人、うち有業者が6,706万人。さらにそのうち自営業主は510.8万人、家族従業者が101.8万人で、雇用者は6,077.2万人だ。雇用者にはいわゆる正社員の他に会社役員もパートやアルバイト、嘱託や契約社員も含まれる。有業者の90.6%がこうした雇用者だ。この国では「仕事に就いている」といえば、ほぼ賃労働者なのである。

制度面では個人の所得税や住民税は就業先の企業が給与から源泉徴収することで国家の側が取りっぱぐれないようになっている。役所の用語では、自分で税金を納めることを「普通徴収」といい、源泉徴収によって雇用先が本人に代わって納めることを「特別徴収」というのだが、実態としては「特別」の方が普通だ。健康保険も企業あるは業界団体の健康保険組合が実際の保険事業を行っている場合が少なくないだろうし、年金も基金の集金は給与からの源泉徴収によることが多いだろう。生活の中の事務の多くを勤務先が肩代わりしている状態は、あたかも民間企業が公的機関の末端のように機能しているかのようだ。

個人の生活の現実においても、生活時間の過半を職場あるいはそれに準じた場所で過ごしているのは当たり前のことだろう。通信が便利になって在宅勤務が増えると、結果として私的空間が賃労働の現場に侵食されることになる。在宅テレワーク、ワーケーション、ノマド、言い方は色々でも、意識の方は賃労働者のままなのではないだろうか。こういうところは、我々の精神構造を考える上で重要な点であると思う。

また、社会人になる前段階において偏差値で階層化された教育機関で育った人々が、就職においても仕事の内実よりも就職先のイメージやブランドに囚われることは自然なことだろう。仕事というものは何であれ社会に必要であるからこそ仕事として成立する。そこに貴賎は無いはずだし、経済合理性に従えば、賃金はその仕事が生み出す価値のうちの被傭者の取り分であり、価値は社会での需給によって決まる、はずである。現実はどうであろうか。

勤労・就労が当然という社会にあって、そこから外れた存在は歓迎されないだろう。しかし、様々に階層化され、その構造化した社会を誰もが安心とか心地良いと感じるかどうかは別の問題だ。その構造や階層が意に沿わないからといって人里離れた土地で自給自足の暮らしを営むことができるのなら、世間を気にすることなく勝手に生きればよいだけのことだが、人というのは自分が思っている以上に非力なものだ。結局は何かしら社会と関わらないことには暮らしが立たない。そしてその現実に押しつぶされてしまう人がいても不思議ではない。生きるためには自分が居る社会と折り合いをつけなければならないのである。本書には「ヴァレリーの定式」なる言葉の引用がある。

「われわれは自分と折り合える限度においてしか他人と折り合えない」

本書20頁「世に棲む患者」1980年

折り合いをつけるには、自分や社会のそもそもに遡ってあるべき姿を追求するよりも、「そういうもの」として何かしら前提をでっち上げてしまった方が諦めがつきやすい。つまり、考える余地を無くした方が安直で納得しやすい。そこに絶対的存在、絶対的尺度、数の大小、上下左右の位置関係、その他有無を言わさない「何か」の存在が誘引される。しかし、現実が様々に変化する中で「絶対」であったはずのものが間尺に合わなくなる。そこで再び考え悩むよりは、カードゲームで手札を全取っ替えするように、以前の「絶対」を無かったことにしようとの動機が生じる。そこに破壊的な状況が現出する土壌が生まれるのではないか。

結局、今回も本のことは殆ど触れなかったが、本書のはじめのほうにある「働く患者」、それに続くアル中のことに関連して、あれこれ考えているうちにこうなってしまった。一応、なんとなくまとまったかなと思ったら、こんなことばを目にしてしまった。

仕事が楽しみでなくて、一体仕事とは何だい。

小林秀雄 永井龍男との対談「芸について」『婦人公論』1967年4月号
『小林秀雄全作品 26 信ずることと知ること』新潮社 44頁

文脈が違うとはいいながら、こんなふうに言われてしまうと、振り出しに戻ってしまう。やれやれ。

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