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丑三つ時の漁船

「ふぁあ、ねえ海斗、こんな夜中に呼び出してどうしたの?」
 奈々は眠そうに左目をこする。「おう、悪いなこんな夜中に。でも、昼間だと親父に怒られるから、アハハッ」
 海斗は口を緩めて笑いながら、右手に鍵を持っている。

「それ、船の」「そう、LINEで報告した通り、俺小型船舶免許の1級取れたんだ」「うん、ちゃんとお祝いのスタンプ返したじゃない」「で、今から免許を取ったばかりの俺が、初めてクルージングに奈々とふたりでと思ったんだ」「あ、それで夜中のデート」

「うん、明日は漁が休みだけど、昼間だったらおやじは絶対ダメだといいそうだからな。講習受けているときから、免許を取って最初に奈々を乗せたいと思ってたんだ」「まあ!ありがとう海斗」といって奈々は嬉しそうに抱き着いた。

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 今年20歳になる海斗は、知床半島にある漁師の家に生まれた。そのまま中学のころから父親の手伝いをして、後継者の道を歩んでいる。そして17歳になる直前には2級の小型免許を取得した。
「うちは決められた網のところまで行って、網に引っかかった魚を取って港に戻るだけだから、2級免許の範囲で十分だったんだ。でも」「でも?」
「どうせなら、外洋まで出られる1級が欲しいと思って。親父は『そんなの別に要らねえけど、まあお前が取りたいっていうならいいだろう』って言ってくれた。それで無事に合格。でも、まだ操縦させてもらえない」と海斗は不満そうにつぶやく。

「まだ、お父様がお元気だからよ。そのうち嫌でも、運転させられるんじゃない」「だって、実地訓練でもしっかり学んだし。一応100海里までの外洋まで行けるんだよ!それなのに親父の操縦を横で見ているだけで、結局網から魚を取り上げるとか、そんな肉体労働ばかりだぜ」
「100海里ってどのくらい」不満そうな海斗をよそに奈々は話題を変える。「えっと185.2キロメートルだ」「うわぁすごい!そんな遠くまで」
 驚く奈々を見て少し笑顔が戻る海斗は、漁船に乗り込む。そして奈々を両手で引っ張り上げて、船に案内する。ふたりは近くに住む幼馴染。高校のころから自然と交際に発展していた。

 海斗は船尾付近の安全確認を行うと操縦席に入り、エンジンを動かす。それまで静かだった深夜の漁港に、突然エンジンの回転音が鳴り響く。エンジンの近くからは、うっすら煙のようなものが見える気がする。
 そしてディーゼル特有のにおいが鼻の中から入り込む。海斗は実地訓練で習いたての手順に従い、準備を行った。ひとり操縦席で指をさしながら合図をしている。こうしてゆったり漁船は前進した。

「うちの船は19.5トン。だからギリギリなんだ。20トンを超えると別の免許がいる。そうなると機関士や通信士とかも乗らないといけない」
 海斗は正式に免許を取って初めての航海。もちろん1級免許にのみ許されている5海里よりも遠くの外洋を目指す予定だ。
「存分に遠くまで行って帰り際には運が良ければ、オホーツクから太陽が見えるかもしれない」海斗はそんなロマンチックな瞬間を、奈々とふたりで過ごせることを夢見た。

 こうして船は港を出港する。勢いよく波しぶきをあげて船は港を出た。すぐにオホーツクの外洋だ。そして冷たい風が船体を吹き付ける。もちろん防寒対策をふたりともしているからそれは問題ない。
 やがて沖合に出ると波がどんどん激しくなり、木の葉のような船体を揺らしはじめた。運転中の海斗はこの程度の揺れは何ともない。それは奈々も同じである。

 奈々は遊魚船を経営している家の娘である。これは釣り船。知床の沖合で釣り人が鮭やイカを狙うためのサポートを行っている。奈々も乗船に同行して、何度か釣りを楽しんだ。だから多少の揺れには慣れている。

 しかし、海斗ははじめて自分で操縦していることに喜びを感じた。だからどんどんけ沖合に行こうとしている。そのためいつも以上に波がキツイ。さらに、夜中に出発しているから暗闇の中を航行している。
 暗闇からはときおり白波のようなものが船にぶつかってくるが、それが幻想的な灰色として見えるだけ。基本的になにもない。だけど波は常に船を上下、場合によっては左右に大きく動かす。だから体が常に揺れるのだ。

 それでも顔を上にあげれば楽しさはある。この日の夜は雲がなく夜空が見渡せる。遠くに見えるのは三日月か?その周りには大小さまざまな星が見えた。あたかもプラネタリウムで天体観測をしているかのよう。ここは沖合の海の上である。漁船から発するわずかな光はあるが、基本は光のない暗闇空間。星空を見るにはまたとない環境なのだ。

「一体どこまで航行したのかしら」最初は楽しそうに星空を眺めていた奈々は、徐々に不安が頭をよぎる。海斗は操縦で頭がいっぱいのようだ。真剣なまなざしで前を見ている。とても話しかける空気ではない。
 しかしひとりで眺めていた奈々は、このころから船酔いに苦しみ始めていた。星空を眺めすぎたのだろうか、急に気分が悪くなる。

「あ、ちょっとすごい遠くまで来てない! 私船酔いしたかも」やや大声の奈々の声を聞こえた海斗が振り向くと、青白い顔をして明らかに苦しそうな奈々がいた。

「え、おい、大丈夫か?顔色悪いぞ」「こんなの初めて。たいていの波は、だいじょ、うぷっ」奈々は慌てて口を押える。海斗は慌ててエンジンを止めた。すると小型の船は波に振り回されるように激しく揺れる。
「結構沖に来たな。どこまで来たんだろう」海斗はスマホを取り出してみる。電波は圏外のようだが、どうにかマップで位置確認だけはできる。
「あ、これって、相当遠くに来たみたい。ていうか、このままいったら間もなくロシアに行ってしまう。ちょっとマズイ!」

 海斗は顔色が変わった。すぐに引き返す。少し焦りがあるのか、手元に汗がにじみ出る。慌ててエンジンを動かした。船は進路を180度の急転換。このとき相当な揺れが船を襲う。
「ち、ちょっと。うッ ググウ」
 ついに、奈々はフラつきながら船の外に顔を出す。そこから戻してしまった。
「大丈夫か!」運転をしながら大声で呼びかける。しかし奈々は「た、た、だい ウグッ、グファ!」と言って再び船の外の海に口を向けた。

 海斗は、エンジン音と波の音で、奈々の声がはっきり聞こえない。とはいえここにいても何もできない。急いで港に戻るしかないのだ。海斗は少し後悔しつつも、全速で港を目指した。

 しばらくの沈黙が続く。船は相変わらず揺れている。天気が良いことだけが唯一の救いか。すでに重度の船酔いで横たわっている奈々は、目をつぶって苦しそう。天空からのプラネタリウムを楽しむ余裕などなかった。

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 やがて灯台の光が見えてきた。陸が近いのがわかる。海斗は奈々のところに行きたい衝動を抑えながら操縦を続けた。港まで戻ればどうにかなる。 「あ、港が見えてきた!」奈々に聞こえるように大声を出す海斗。

「え、あ、良かった」弱弱しいが奈々の声が、久しぶりに聞こえた。海斗は、奈々のほうを見る。相変わらず顔色が悪いが、起き上がって岸辺のほうを見ている。
 こうして船は無事に港に入港した。すでに外は少し明るくなっている。

 ふらふらに歩いている奈々を、抱きかけるようにして船を降りる海斗。「奈々ごめん。ちょっと張り切りすぎた。苦しかったよな」海斗は先ほどよりは顔いろが良くなった、奈々に必死に謝る。
「う、うん、本当に苦しかった。まだ頭が痛いけど、もう大丈夫。途中までは星空も見えてよかったし。
 でも海斗、今度はお昼に乗せてね。暗闇だと波の揺れが厳しいのが余計に気になるから」と言って苦笑い。

 こうして初めての航海は終わった。しかし無断で漁船の運転をしたことが、ばれてしまう。その日の午前中は、父親から延々と説教を食らってしまう海斗であった。



追記:トップの画像は先日北海道の知床半島で、真夜中のホテルから見えた漁船を撮影したものです。

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シリーズ 日々掌編短編小説 281

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