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閉店後の美容院 第883話・6.25

「あ、あのう店長」「熊谷君、どうしたの?」ここは町の美容院、男性美容師の熊谷は、女性店長の多治見に相談事を話そうとしているが緊張気味。「その、店長に折り入って話が」
「わかった。今新しいお客さんが入ってきたようだわ。急ぎではないわね。閉店後に時間空けるわ」

ーーーー

「お疲れさまでした」美容院の閉店後、店長の多治見と熊谷以外のスタッフは、各々後片付けをするとそのまま店を後にしていった。
「あ、て、店長」「ああ、そうね熊谷君、話があるのね。いったいどうしたの?」熊谷と多治見は目の前に椅子に座る。
 熊谷は多治見を見るとゆっくりと深呼吸。それからやや大きめの声を出した。「ぼく、今月いっぱいでこの美容院を辞めさせてください!」
「え?」多治見は一瞬耳を疑った。
「ど、どうして?なんで急に!」多治見は思わず声を荒げる。なぜならば熊谷は、この美容院のスタッフの中では最も優秀であった。いわゆるカリスマ美容師とまではいかないが、今後そのクラスになってもおかしくないほどである。今は毎月の契約社員のような立場であったが、いずれ正社員になるものとばかり思っていたからだ。

 それと多治見の熊谷に対する個人な感情もあるのだが、それはまだ熊谷には伝わっていない。熊谷はもう一度深呼吸すると、「あの、この店や店長のことではありません。いいお店だと思うし、店長も素敵です」
「じゃあなんで?」多治見は少し辛そうに目頭を押さえる。スタッフが辞めるだけではない、やはり熊谷そのものが離れてしまう事への寂しさが、頭をよぎってきたこと。

「やっぱり、僕、駄目なんです会社の方針。僕はどうしても納得できないんです!」熊谷はそのあと、美容院を経営している会社の悪口を延々と語りだした。この美容院はある会社が経営している。この場所以外にも各地に多数のお店を持っているチェーン店。だが限りなくブラックに近い環境でもあった。経営陣は儲け至上主義のため現場の環境は決して良くはない。現場の美容師たちからも嫌われており、熊谷のようにある程度腕に自信があると、すぐに退職してしまう。退職しても「代わりはいくらでもいる」とばかりに新人をアルバイトとして安い給与で雇いながら業績を拡大した。

「......それを言われると、何もいえないわ。会社のことは私もある。それでも熊谷君やみんなを......のつもりだったけど......。わかりました。それならもう私は止められないから」多治見は立ち上がった。目には涙を浮かべていたが、すぐに後ろを向きそれを隠す。

「もちろん、残りの日数はしっかり働きますので、では失礼します」熊谷は退室しようとすると涙を拭き終えた多治見が振り返って熊谷を見た。表情はまだ悲しそう。
「あと、その、多治見さん、実は」熊谷はまだ何か言いたいことがあったが、それ以上は口をつぐみ一礼して出て行った。

ーーーー

こうしてその月をもって熊谷は美容院を退職。それから半月が経過した。
「多治見さんは、本当にいい人だったけど。多分怒っているだろうなぁ。やっぱり僕はあの美容院を経営する会社にいるのは無理だった」
 この日の熊谷は旅の格好で列車の中にいる。とりあえず旅に出て、これからのことを考えようとしていた。
「やっぱりあそこしかない。露天風呂でゆったりと!」熊谷はまもなく到着する目的地に向かっているためか、心躍っていた。心の中で大声を上げる。

 駅に到着した熊谷、改札を出ると「あ、やっぱり!」と女性の声。熊谷が見ると私服姿の多治見がいた。
「え、店長?」驚く熊谷「もうあなたの店長じゃないわ。多治見よ」
「な、なぜ僕がここに来ることを?」
 多治見は笑顔で「アカウントをフォローしていたからわかるわ。ストーカーみたいで悪かったけど、あなたの行動がわかっちゃった。店にいた時からここの温泉の露天風呂が好きっていつも言っていたでしょう。だから予想して早回りしちゃった」美容院では業務連絡用にスタッフ全員が情報共有できるようにSNSをフォローしている。
 熊谷はすでにフォローを外していたが、多治見はフォローを外していなかった。だから熊谷の行動がすぐわかったのだ。


「あ、そ、そういう事か。いえ、お久しぶりです」熊谷は退職時の悲しそうな多治見と違い、何かすっきりした笑顔を見せる多治見の表情が気になって仕方がない。
「実はね、熊谷君あれから考えたけど、あの後実は私も退職することにしたの」「え?」突然意外な事を言い出す多治見。
「理由はあなたと全く同じよ。私もあの会社に不満があった。でもなかなか 言えなくてね」退職理由を語る多治見を真剣な目で見つめる熊谷。
「でもあなたが辞めると言ったから私も決心できた。本当は今月末までだけど、今日からたまっていた有休の消化。もうあの美容院に私が行くことはない」

「でも、店長、いや多治見さん、店は大丈夫なんですか?」多治見は大きくうなづくと「ああ、別の店から店長派遣されたし、スタッフのみんなも大丈夫かな。まああんな会社だからほかのスタッフも、とっとと見切りをつけた方がいいかもね」
 吹っ切れたように語る多治見は、まったく熊谷と同じ気持ちのようだ。「あ、そうそう、もし嫌なら言ってね。私かってに来ちゃったけど」多治見が真顔になる。
「いえ、全然いいですよ。実は、僕、多治見さんのことが」熊谷は思わず次の一言を言おうとしたが、そこからが詰まってしまう。それを多治見が察知したのかすぐに返した。「もしかして、それ、私もなのあなたのことがね。その......個人的に......」
 ここで多治見は小さくうつむき顔を赤らめる。そんな多治見の表情を見た熊谷は思わず多治見の手を握った。すると多治見も手をしっかりと握り返す。多治見はそのまま熊谷の胸の中に納まった。



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