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海 Ocean đạidương มหาสมุทร 海洋 第545話・7.22

「あれ、ここは?」目覚めると、見慣れぬ光景が広がっている。どこを見ても海が広がっているだけ。上を見ると雲ひとつない青空が広がっていた。海に、体が浮いている? ではない。白いサーフボードの上に乗っている。「一体何をしていたんだ」と、思い出そうと頭をひねる。一部の記憶がよみがえった。さっきまでSUPをしていたこと。そうスタンドアップ・パドルボード(Stand Up Paddleboard)をしていた。梅雨も明けたこの日、マリンスポーツを楽しもうとSUPに初挑戦。インストラクターに教えてもらいながら、サーフボードに立ち上がり、オールで漕ぐことができた。

 ところが元々運動神経がいい。その上、カヌーの経験もある。だからすぐにSUPをマスターすると、インストラクターがよそ見をしている隙に遠出した。それが良くなかったのだろう。気がつけば陸地が全く見えない海の沖合に来てしまった。漕いでいたオールもない。幸いなことに、ここはどこかの湾内か入り江なのか? 波がほとんどない。もちろんわずかに揺れてはいる。だけどサーフボードに乗ってさえいれば、揺れで落とされることもない。とりあえず今の体制でいられるのだ。

「どうしよう。ていうか、ここどこだ」周りは海しかない。後は空だけ、どれだけ遠くに視線を置いても陸が見えない。見えるのは水平線。そして他の生き物。例えば魚を狙うような水鳥の姿もない。そう唯一ひとりだけここにいた。来ている服装に何か入っていないか確認する。ライフジャケットを羽織っており、その下には白いTシャツで、その中は水着姿。スマホはSUPをするからと、他の着替えや荷物と共にロッカーに置いてきてしまったようだ。だから何もない。何もないからわからないし、方向も距離感覚も不明。「だったら海面の深さは」と下を見た。青い水しか見えない。ふと期待していたようなこと。例えば広いサンゴ礁であれば意外に浅いとか、そんなことを考えたが、どうやら間違いだったようだ。

 ここでふたつの選択肢が頭に浮かぶ。ひとつは、どこかの方向に向けて、手足を使って進んでみること。だがこれをやると体力を消耗するリスクはあるし、そもそも水平線しか見えないから、どのくらいやらないといけないのか未知数。もうひとつは、何もしない。つまり体力を温存するというやり方だ。実はここまでに、あることに気づいた。それは、今、天気が良く、太陽が照り付けている。実際に真上には、目を合わせるのができないほどの、強力な太陽が見えていた。だが不思議なことに、普通ならこれだけの光を浴びれば、体が熱くなり汗をかく。あるいは皮膚が焼けるだろう。だがそれが全くない、皮膚も焼けなければ、汗もかかない。さらに日差しそのものに、暑いという強さを感じない。だから太陽によって、体力が消耗されることが考えられにくいのだ。

 ところがここまで来て、ひとつの疑問が浮かんだ。「太陽にこれだけ体が当たっているのに、何も感じない。なぜ?」ふと目の前の海、それに手を入れるとどうなるか試してみた。体をサーフボードにうつぶせになり、右手を伸ばして海につける。海につけると普通にその感覚があった。そのまま手を中に入れる。「冷たい。海だ」とすぐにわかった。「舐めてみよう」手のひらを少し丸めるようにして、海水を取り出す。それに対して舌を入れて味をチェック。「し、しょっぱい!」やはり海の味がする。「おかしい。なぜ太陽だけ感じない。よし、足を入れたら?」今度は左足を恐る恐る入れてみる。ゆっくりとつま先から入れていき、やがてカカトまでつけてみた。普通に冷たいし、感触が海そのもの。「と言うことは、夢とかそういうわけではなさそうだ」と思った。何しろ足が気持ちいい。実は太陽に焼かれていないのは錯覚で、実際には相当暑くてマヒしているのかもしれないと感じた。気持ちよいから右足も入れたくなる。そのまま右足を入れた。やっぱり冷たくて心地よい。「これなら体力がしばらく」と、しばらくこの体制でいることにした。

 さてどのくらいたったのか、とつぜんサーフボードが傾きかける。「あ、あれ」という間もなく、ボードから投げ出されるように海中に入る。慌てて泳ぐが、このとき強力な何かが足を引っ張った。「う、うわあ」慌てて手を水面で、ばたつかせる。だがそんな間もなく、体は海の中に引きずりこまれてしまった。「ああ」体の周りには大小の泡が見える。そして体はどんどん底に沈む。やがて泡は無くなり、青い海のみが広がった。「ああ、これで死ぬ」と覚悟。だが不思議なことに、水中で呼吸ができる。そしてゴーグルも何もないのに、普通に目が開いた。「どういうこと?」理解はできないが、そんな優雅なことを考えている場合ではない。体はどんどん底に沈む。周りには魚も海藻も含め、生命体もなければ岩もない。ただ青い海の中。太陽に近い、海面近くは明るいが、体が向っている方向は暗い。どんどん視界が青から紺色に変わっていく。「どうなるんだ?」全くわからない。吸い込まれている感覚はあるが、目は開くし、呼吸も問題ない。ただ身をゆだねるしかなさそうだ。

 やがて真っ暗になった。暗闇の中、足はまだ下に向かって動いている。「一体どこまで沈む。まさか竜宮城があるとか」最初は恐怖に満ちていたが、この状況に慣れてきたのか、くだらないことを頭に浮かべる余裕ができた。もうどうなるか考える必要がない気がしている。なるようにしかならないから。すると目の前に赤い何かが見える。右手を伸ばすとそれが取れた。「うん?タオル」赤いタオルらしきものを手にした。別にこの赤いタオルで、何かができるわけではない。でもここまで来て、始めて海以外のモノを見たために、そのタオルはそのまま離さず、右手でしっかりとつかんだ。

  ここでふと下を見た。今度は先ほどと違う。下の方が明るいのだ。上は闇のように暗いのに、下に行けば行くほど、まるで海面に向かっているかのごとく光が見える。「いつの間にか体がひっくり返った?」可能性はある。だがそれを確かめるすべはない。周りの海の色が徐々に明るくなる以外、何も情報がないから。足はひたすら明るい方向に向かう。もう身をゆだねているためか恐怖すら感じない。海中に身を置いていること自体、それが心地よく感じるまでになっている。「魚の気持ちがわかるかも」と思って、ふと足を見た。「良かった、ヒレになっていない」そして手も見る。「大丈夫、魚に変身していないな」などと考えていると、いよいよ海面に近づいたようだ。

 急に明るくなっている。「眩しいかもしれないぞ」と警戒していると、ついに、明らかにそれまでと違う境界面が見える。「海面に違いない」体は一気に境界面に激突。その瞬間、体が大きく跳ねるように境界面を越えた。そして予想通りそれは海面から外に出た瞬間。飛んだ体は大きく宙を舞い、どこかに落下ししようとしている。「また海か?」と思ったら、そのときの衝撃が違う。少し痛みが走る。そしてその面から下に落ちない。その境界面で止まった。そのまま仰向けになって。寝っ転がっている。「あれ」横を見ると砂浜の上。十メートル先に海があり、定期的に激しく波立てている。「どういうこと?」頭が混乱してきた。見ると横には先ほどのサーフボード、さらにオールまで置いてある。

「あ、おい、そこで何しているだ!」と聞こえたのは、SUPのインストラクター。そのまま近づいてくると「インストラクターの指示に従わず、勝手なことをするな。慣れているのかもしれないが、海を甘く見たらいかん」と、一喝された。「す、すみません」とりあえずその場で謝り、インストラクターと一緒にビーチを歩く。やがて見慣れた風景。ロッカールームのある建物が見えた。その後は、ここに来るまで、つまり今まで通りの展開が、何事もなく続く。「一体あの瞬間は、やっぱり夢かなあ」と思ったが、右手を見ると赤いタオルを握っている。「あ、何と不思議な体験。でも絶対に誰も信じないだろうけど」と言って、ひとりでほほ笑んだ。



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シリーズ 日々掌編短編小説 546/1000

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