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緑のシャムロックおじさん

「1年前の約束じゃ無理よね」照明が薄暗いあるクラフトビールのバーのカウンターの真ん中に座るひとりの日本人女性は、緑のVネックカーディガン姿。グラスにはホップの香りが華やかなアメリカのクラフトビールを飲んでいた。
「でも今日はまだ1時間あるわ。もう少し待ちましょね」と女性をなだめるのは同じ女性。バーの店長でフィリピン人女性のニコール・サントス。

 この女性は1年前のこの日この店で出会ったというアイルランド人男性を待ちわびている。1年後の再会を約束して。
「3月17日のセントパトリックデーの日に出会ったあの人」女性はグラスのビールを口に含む。
 店長のニコールはその時の記憶ははっきりしていなかったが、話を聞いていくうちにそのころ記憶が少しずつ蘇ってきた。
「そのアイルランドの人って、ダブリン出身ですか?」「いまどき連絡の交換もせずに口約束だけじゃ無理よね」女性は小さく頷くと愚痴り始める。
「1年前に別れ話があった直後。ここでやけ酒を飲もうっておもってここに来たら、彼がいたのそうあの席に座っていた」女性が指さしたのは10席が横並びになっているカウンター席の右端。

「優しそうだったわ。別れた男はアメリカ人。背が高くてイケメンだけど下品。ここで会った彼のほうが上品だった。で話が盛り上がったけど... ...」
 
 ニコールは少しずつ記憶がはっきりする。「あ、思い出した。そういえば、あの日から来てないわね」
「じゃあもうアイルランドにでも帰っちゃったかなあ」

 そこで入り口のドアが開く。女性は「まさか」とばかりにドアのほうをに視線を向けるが、入ってきたのは常連客でニコールのパートナー、西岡信二だった。「あ、残念!」
「あ、ごめんなさいね。ちょっと! びっくりさせないで。この方の1年ぶりの再会かと思ったのに... ...」

「え、そんな。俺関係ないし」ニコールに、突然わけもわからず指摘されて戸惑う信二。ニコールは身近な相手とばかり気にもせず「ねえ、いつものでしょ」「あ、ああパイントで頼む」
 ニコールは、ギネスのパイントグラスを用意するとギネスを注ぐ。窒素混合ガスによるやや高音が店内に聞こえた。そして8割近く注ぐと、泡を落ち着かせるために待つ。茶色い液体から少しずつ波打つように泡が液体と分離を開始する。
 信二は真ん中に座っている女性から席をひとつ置いた左側に座った。この店では、習慣的にカウンターの左側に常連が座ることが多い。

「そうね。今日はセントパトリックデーだから、緑のおじさんのうんちくをひとつ」ニコールが語りだす。
「緑のおじさんことパトリキウスは三つ葉のクローバーに似たシャムロックを手に『三位一体』を説いたんだって。で、それがこれ」
 ここでニコールはちょうど窒素混合ガスが落ち着き、黒い液本体と分離したギネスのグラスの泡の上に追加する。そして最後に注ぎ口を筆記用具の様にうまく回す。ただし動かすのはグラスのほう。こうしてシャムロックをその上に書き上げた。

「へえ、これがシャムロック。意外に初めて見るかも」女性は書き終えてきめ細かい泡の上に描かれたアートをじっくりと眺める。
「あ、これ飲んでいいのかな」注文した信二は、恐る恐る聞く。「す、すみません。どうぞ」

「あ、じゃあ僕もパトリキウスのエピソードを」ここで信二よりもさらに左の端にいた、店の常連である泰男が口を開いた。セントパトリックスデーは緑の日ともいわれていて、緑色のものを身に着けると幸せになるという言い伝えがある。だから彼も今日は緑色のネクタイ姿。
 そういえば緑と全く縁がないのは、信二と黒い蝶ネクタイをした制服姿の店長ニコールのふたりくらい。

 彼もギネスビールが好きで、ちょうど半分ほど飲んでいる。何しろ泰男が付き合っているという彼女とは、アイルランドで出会ったという。日本人で同じ旅行者だったのだ。
「あ、泰男さん。今日はおひとり?」「ああ良子は友達と遊んでいる。あとで会うんだけどさ」と、やけに嬉しそう。それを見ていた女性は悲しそうな表情。「あ、もう、いいから話して」状況を察知したニコールは、泰男に促した。

「現地で聞いた話だけど、パトリキウスは当時のドルイド教の拠点だったアイルランドに布教に来ていた時の話。その日は宗教的に火を焚くのが禁じられていた。でも彼はそれを無視して丘の上で火を焚いたんだって」
「その人無茶苦茶だなあ、それって多分寺院の仏像をいきなり破壊するような話なんじゃ」信二はすかさず突っ込む。
「今考えるとそうなるな。でもそれを見たアイルランドの王は彼を罰しようとしたが、ここで不思議な力により、王はパトリキウスがまことの神から遣わされたことを信じたんだってよ」

「あ、失礼しました。いらっしゃいませ!」
 気が付けば、新しい客が店内に入っている。前面に大きな深緑のシャムロックが付いた緑のニット帽を深くかぶった男。どうやら白人のようだ。そして泰男とは反対側の右端の席に座っていた。
「アイリッシュのロックを」と流ちょうな日本語で一言。ニコールはすぐにカウンターの後ろを向きウイスキーを手に手際よくロックを作る。

「今日はセントパトリックスデーですね。皆さんのエピソード横で聞いていました。では私からもパトリキウスのお話を」出されたウイスキーのロックに浮かぶ氷をグラス越しに揺らしながら突然語り出した。

 ウェールズのケルト人だった若きパトリキウスは、奴隷として牧場で働いていたが、突然神の声を聞く。そして神の学問の勉強のために脱走した。その距離は300キロ。
 こうしてアイルランドからヨーロッパ大陸に渡った彼は7年かけて神の学問を学び、晴れて伝道師となった。そして彼は意外にも奴隷としてこき使われていたアイルランドに渡って布教することを決意。彼の家族は反対したがそれを押し切る。そこで彼は365の教会を建て、12万人をキリスト教に改宗させたという。

「あ、あのう。もしや!」突然女性が立ち上がると、男性のほうに向かった。
「私のことと覚えてますか?」「はい覚えています。今日は約束を果たしに来ました」男は帽子を取る。金髪の白人男性。女性はその瞬間、顔中がしわくちゃになるほどの笑顔。
「うぁあ、私、待っていました。本当に来てくれたんですね」と言い終える前に男性に抱き着く。抱き着かれた男性の表情も嬉しそう。

「でも、僕のことよくわかりましたね」「はい、1年前と全く同じ話してましたから」ふたりは見つめ合っている。まるで映画のワンシーンのよう。
「実はあの日の翌日から1年間、沖縄に行ってました。僕はプランナーです。現地でリゾート開発のプロジェクトに参加しました。せっかく君と会って仲良くなったのに、実はそのことで頭がいっぱい。うっかり連絡先を聞くの忘れて... ...」
 男性はウィスキーを口に含む。「でもプロジェクトは一昨日無事に終わった。だからこうして君に会いに戻ってきたよ。無事にいてくれてよかった」と男性は白い歯を見せる。

「でも、私はこの日必ず来てくれると信じてました。そして本当会えたから」先ほどとは違い目を潤ませる女性。
「ああ、じゃあさっそく連絡先を交換しましょう」と白人男性。完全にふたりだけの世界に入っている。

 それをニコール、信二、そして泰男は、その様子を少しうらやましそうに眺めるのだった。



「画像で創作(3月分)」に、とらみな(寅三奈)さんが参加してくださいました

空の虹、文庫本に挟まれた四つ葉、振り子のような戦士のストラップそして車窓から見える緑を見ていたら... ... 短い文章なのに、バスの中で起きていそうな情景が頭の中に浮かぶ作品です。ぜひご覧ください。


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シリーズ 日々掌編短編小説 421/1000

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