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路面電車と路線バス 第886話・6.28

「お、バスが通過していったかぁ」貞明はおもわずため息をつく。貞明はある町の路面電車の運転士である。都市の専用軌道を走る路面電車は乗る人物にとっては味わい深いものであるが、貞明はどうも路面電車の運転士よりも並行して走っているバスの運転手に憧れがあった。
「隣の芝生はじゃないが、路面電車は決められたレールしか走れない。けれどバスは道路を自由に走れるんだよな」
 ただバスも路線表に従ったルートしか走らない。おそらくタクシーの運転手の方が貞明の希望に近いのかもしれないが......

 そんなことを考えながら今日も所属する会社に出社したが、突然管理職が朝礼で意外な事を言い出す。
「わが社にある路面電車の赤字路線の一部の廃止が決まりました。一部の人には悪いですが、系列会社の販売部門に行ってもらいます。販売部門行きのメンバーについては5日後に発表予定。ただ、もし早期退職を希望される方は遠慮なく申し出てください。そうすれば退職金を上乗せします」

 貞明は考えた。早期退職の希望までは3日ある。「あのいいぶりでは、早期退職者がある程度いたら、残るメンバーは販売部門に行く人が減るかもしれないのか」
  もし販売部門行きを言われたら、バスどころか運転業務から離れてしまう。「そうまでしてこの会社に居続けるかどうかだな」いつものように路面電車を動かしつつも、貞明の頭の中では今後のことで頭がいっぱいであった。

ーーーーーー

「お疲れさまでした」勇太は路線バスの運転業務を終えると、近くにある赤ちょうちんが灯された立ち飲み屋の暖簾をくぐる。ここは勇太のお気に入りの店。週の半分は顔を出すから店主とは仲が良い。「よ、勇太さん、今日はねぇ」と、カウンター越しにいる店主は勇太の顔を見るなり、いきなりおすすめの料理を紹介する。勇太は「じゃあそれで」と店主のおすすめのものを注文した。

「いやあ、バスの運転もどうなんでしょうね」酒が回ってきたのか勇太の愚痴が始まる。店主はいつものことだとばかりに何度も声に出してうなづきながら「大変だねえ」とのセリフを繰り返す。これはいつもの事。だが、今日は少し違ったようだ。
「いっそのこと路面電車の運転でもしたいですよ。あれルートが決まっているから楽そうで、バスは渋滞のときとかもう、後ろで座っている客がイラついているのがわかるんです。電車なら専用の道だから渋滞なしでしょう。いいなあ」

 これを聞いて、横でグラスを強くたたく音がした。それは貞明だ。貞明は勇太のような常連ではないが、それでも近くにある店なので月に1度くらいは顔を出す。
 あまりにも大きくグラスを床に叩くから、店主も勇太も驚いて貞明を見る。貞明も酔っているのか少し顔の表情が鋭い。「どうしました。何かありましたでしょうか?」店主はこの緊迫した状況をなだめようとしたが、貞明は勇太を見ると「何、路面電車が楽だと!」とややドスの聞いたような低い声を発した。

「なんだよ、あんた。横で話を聞いてたのかよ」すでに勇太も酔っている。貞明の態度に不快を表しながら絡む。「ちょっと勇太さん!」
店主は明らかに場の空気を換えようとするが、ふたりは完全に戦闘モードに入ってしまい睨み合いが続く。
「おい、俺は路面電車の運転士だ。てめえにわかるかな。この辛さがよ!」
「路面電車の運転士ね。ほう、いっとくがな俺は路線バスの運転手だ。運転手だって仕事が終われば愚痴のひとつもこぼすんだよ!」

 もはや一発触発の状況である。店主はカウンターから出てきて、ふたりの間に入り「まあまあ」とふたりをなだめた。もしどちらかが力づくで行動を取ろうとしたら、即中に入って止めようと、こちらも息をのむ思いで緊迫した空気を見つめている。

 その間沈黙の時間が流れた。このときほかに数人の客がいたが、みんな事の異変に気付いたのか会話が途切る。みんながにらみ合っているふたりを見つめていた。

 ところがその緊迫の空気は突然和らいだ。その空気を変えたのは貞明。「ああ、バスの運転手さんでしたか。いやあそれはお互い公共交通の運転士ということ。何か初めて会った気がしませんね」
 と急に口元を緩めて顔も緩やかになる。それにあっけにとられた訳でもないが、勇太も表情が緩んだ。「それは、どうも、確かにそうですね。この街で多くのお客さんを乗せているってことは、路面電車も路線バスも関係ありません」

 突然お互いがあっけなく和解すると、その場で乾杯をしてふたりで飲み始めた。店主もホッと腕をなでおろすと、カウンターの奥に戻る。他の客もすぐに元に戻った。

 こうしてふたりは意気投合し、二軒目に行こうとなって店を出て行く。後で聞いた話では、貞明は路面電車の会社を早期退職し、勇太の会社に入ることになる。実は勇太の会社では隣町で路面電車を運行しているとかで、ちょうど運転士を募集していたのだという。
「バスをうらやましいと言ってられないな」こうして貞明は新天地で働くことになるのだった。

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