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時間がない 第978話・9.29

「うわあ、時間がないわ」女は焦っている。女は坂を転げ落ちるように走っていた。女は腕にはめている時計を何度も見た。明らかに時間がない。時間がないから焦っている。焦ってしまうが、焦れば焦るほど、冷静さを失いかえって余計なことをしているような気がした。したけど、それに対して対処する余裕がない。とにかく時間がない、時間がないのだ。

 女はなおも走った。幸いなことに今日はスニーカーを履いている。別に意識しなかったが、それが結果的に成功した。だから走る分には影響がない。これが仮にヒールの靴など履いていたらどうなっていたことか!
「やばかっただろうなあ」走りながら余計なことが頭をよぎる。「もう、時間がないのに」我に返った女は、あまりにも余裕がなくなったのか、頭の意識に対して怒りをぶつけた。
 怒りをぶつけたが、余計なものとはそう簡単に消えない。頭の中ではヒールで走って誤って石に躓いて、こけるようなことまでイメージしてしまう。

「やめろ、考えるな!」心の中で思いっきり叫ぶ。そんなことがあったから危うく道に滑りかけた。ちょうど雨上がりの下り坂。路面がぬれており確かに滑りやすい。だけどスニーカーだからかろうじて持ちこたえたようだ。

 女はさすがにイメージしていたことが本当になりかけたので、頭の中が白くなった。それは精神を集中するのに役立つ。「これで急げられる!」時間がないからとにかく走るしかない、走るしかないのだ。
 気ばかり焦っているが、でもあまり速く走れていない。こんなときに余計なことがまた頭の中に浮かんでくる。
 それは、小学校の頃の運動会でのことだ。かけっこに参加するが、いつもビリという成績であった。短距離走は本当に苦手で、いつも同級生たちの背中ばかり見ていたような気がする。

「ああ、運動神経悪すぎ!」また頭の中で脳の指令に従って動き出す手や足に怒りをぶつけた。怒りをぶつけたところで速く走れるわけでもないのに、いら立ちを向ける矛先が、ほかに浮かばないのだ。
 だが、このときふとは中学生の良き思い出が覚醒するようによみがえった。小学校までは主に50メートルとか100メートルの短距離を走ることが多かったが、なぜか中学に入って陸上部に入る。
 それはおそらく当時の自分にとって「速く走りたい」と思ったからだろう。だが短距離走はどれだけ頑張っても遅い。悔しいが改善の見込み無し。そのときに顧問の先生が、「長距離をやった方が良い」とアドバイスをくれた。それは正解で長距離になると、ビリではなくなったのだ。
 さらに女には持久力があるためか、20キロくらい走るレースとなるとむしろ上位に名前が連なりだす。どうやら女は長距離走に向いていることがわかった。

「そうか、長距離だ!」このとき女の頭の中はひらめく。今まで時間が無くて急ぎすぎたために、短距離の体制でほぼ全速力で走ろうとしていた。
 そうすると、走る速度が遅いのに余計な体力を使う。有酸素運動といえば聞こえは良いが、そんな良いものじゃない。一気に走ればただ息苦しくなり、立ち止まって息を整えざるを得ない。それは足の休息にもなった。それから再び全速で走る。そのようなことを繰り返していた。

「長距離、そう、長距離のモード」今までなんでこんな単純なことに気づかなかったのか。
 今回も今まで通り走った後に、疲れて立ち止まったとき、息を何度も息を吐いた。そして次は短距離ではなく長距離を走るモードに切り替える。これは短距離のような全力疾走ではなく、あくまで力を温存しながら走るスタイルだ。これで息を整えながら走る。時間がないのに長距離の走り方でよいのか、一瞬自身に葛藤が走った。だが、すぐに中学から高校にかけての部活で活躍できた長距離の成功パターンを思い起こし、そのような葛藤を打破する。
 走る速度は短距離の時よりも遅い。だが長距離の呼吸で走ることで、持続性が生まれる。

 これまでの全力で走っては休憩の繰り返しから、ゆっくりだけど休憩なしで走り続けられるようになった。息も整っているから走り続けても苦しくない。その結果どうだろう少しずつではあるが、焦りが無くなってきていた。時間がないのは同じだけど、なぜか余裕がある。このペースで走り抜ければこの時間のない状況が、回避できるような気がしたのだ。

 さらに精神的な余裕が生まれたのか?頭の中で考えるゆとりができた。いろいろなことが頭に浮かぶが、短距離の時のような、思考を停止させようとは思わない。むしろいろいろ考えることで長距離を走るペースが乱されないような気がする。こうして私はマイペースで走った。時計を見ると、やはり時間はない。だけど余裕がある。そして最後はこう考えるに至った。
「仮に時間が無くても長距離ならストレスなく移動できる」と。


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シリーズ 日々掌編短編小説 978/1000

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