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思い出の羊焼肉 第584話・8.29

「最初はずいぶんギャップを感じたが、所詮俺たちは日本人。日本だといろんな意味で落ち着くなあ」
「ねえ、あなたそんなことより、ずいぶん高いところまで来たんじゃないの」
 商社に勤める長田灘之助は、妻の鈴蘭と共にケーブルカーに乗っていた。「ああ、もうすぐ山上駅か」

 ケーブルカーはゆっくりと速度を落とすと、山上駅に到着した。ここは神戸にある六甲山のケーブルカーの駅。長年海外勤務であった灘之助は、今回神戸支社長として日本に戻ってきた。ここから目的地に向かうバスを待つ。
「25年間の海外赴任で、東南アジアの都会を3か所も回ったのね」
「ああ、最初はクアラルンプールだったな。あのとき君が一緒に付いてきてくれたのがうれしかった」
 灘之助の視線が遠くに向かっている。「ええ、むしろ海外赴任が決まったから、それならって、入籍するのを決意できたこともあるわね」
「当時は俺の髪もフサフサだったしな」
 全体の7割の髪を失い頭頂部が薄い灘之助は、いつも持ち歩いている櫛で、前髪を後ろに流し、薄い部分を隠した。

 ちょうどバスがやってきたのでふたりは乗り込む。乗り込むと先ほどの話が続いた。「クアラルンプールの後は、バンコクの子会社社長に抜擢されたのには驚いたわ」「まあ15年いたからな。もちろん会社社長と言っても100パーセント出資の子会社だから名ばかりだけどな」
「でも、それが今のスキルに結構役立ってるじゃないの」「まあな」窓を見ながら灘之助の口元が緩む。
「バンコクに6年いて、あと4年はベトナムホーチミンの支社長を経て、神戸支社長か、あなた見事に出世街道から外れなかったわね」
「でも関西赴任なんて、俺初めてだから、言われたとき最初はちょっと緊張したよ」「でも流石ね。全然平気じゃない」
「ああ、君がずっとついてきてくれたから、無茶をしなかったんだと思うよ」それを聞いた鈴蘭は嬉しそうに隣の席の灘之助に寄りかかった。

 神戸に赴任してからのあわただしい1か月が終わり、ようやくゆっくりできる灘之助。すでに鈴蘭とふたりの間に生まれたふたりの子供。長男は21歳で、現在イギリスの大学に留学中。そして次男は19歳でアメリカの大学に進学していた。こうして現在は、夫婦水入らずのひとときを過ごしている。
 この日は、そんなふたりだけの、それも日本で久しぶりのデートでもあるのだ。
「さて、六甲山牧場についたぞ。日本語だけの響きだと、まだ少し違和感があるな」ふたりが到着した六甲山牧場は羊やヤギ、乳牛といったいろんな動物を飼っている。高校の同級生だったふたりは、動物好きという共通点がきっかけで交際したということもあり、今回も動物との触れ合いを特に楽しみしていた。こうして牧場内のエリアを回りながら、山上でのんびり過ごしているピュアな動物たちに癒される。

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「あなた、お昼はどうします?」「うん、そうだな。お、BBQレストランがあるな。焼肉でも食べて元気をつけようか」
 ふたりは、敷地内にあるBBQレストランの中に吸い込まれた。「へえ神戸牛だって。高級なものを扱っているのね」「それはいいな。せっかくの休日だからリッチなものを食べようか」
「そうね、じゃあこれにします」ところが鈴蘭が店員を呼ぼうとしたとき、灘之助は大きく手を伸ばして静止した。

「ちょっと待て。ほらここを見ろよ。ラム肉があるぞ。そうだ日本に戻って羊食ってないよ」「え、ほんと。ラム肉、羊ね。やっぱりそれにしましょう」鈴蘭も嬉しそうに見つけたラム肉の焼肉コース。こうしてふたりは羊肉を注文した。

「羊か。それにしても東南アジアの駐在員時代は、よく食べたな」「ええ、日本と違って鶏、豚とかと並んでて普通に選べたわね。それが日本では本当に見かけないわね」
「成長した大人のマトンは臭いとはいったものだが、子羊のラムは鮮度が良ければ、臭みなんて全く気にならないんだけどな」
 などと言っているうちに、ふたりの前にラム肉が登場した。

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「さ、来たぞ!」「うぁあ、まさか帰国してこんなに羊が恋しくなるなんて信じられないわ!」
 いい年をしながらテンションが最高潮に上昇したふたりは、さっそくラム肉を焼き始めた。
「羊肉の焼肉素敵ね。東南アジアではいろんな羊肉料理食べたけど、私にとっては北海道かしらね」

「ああ、ジンギスカン!」灘之助は肉を自らのペースで乗せていくと、淡々と焼いていく。職場の飲み会ではいわゆる『鍋奉行』と、同僚にあだ名されている灘之助、鈴蘭は一切手を出さない。
 黒い鉄板に乗せられた羊肉は、白い湯気を出し、そして油と肉内部の水分による、ハレーションの音を激しくながらしながら、赤いボディを徐々に茶色に染めていく。

「あ、ほら。これ」鈴蘭は手帳から一枚の写真を取り出した。

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「うん? ジンギスカン鍋。あ、これって! お前いつも持ち歩いているのか」それは黒い帽子のような形をしている、ジンギスカン鍋に乗っかっている肉の写真だ。灘之助は、すぐにいつのものか思い出す。 

「そう、大学生のときに、北海道で食べた味。それもあなたが東京からわざわざ北海道まで来てくれて、一緒に食べたジンギスカン」
「そうだった。ああ、懐かしい。そう君が北海道の大学に進学することになったので、本当に寂しかった。あのときは今のようにスマホもLINEなんてなかったしな。だから夏でも冬でも学校が長期の休みに入ったら、我先にと北海道を目指したものだ。
「いつも本当に会いに来てくれてうれしかったわ」「あ、ちょっと焦げ気味だ。まずい」感慨にふけったために、鍋奉行として痛恨のミスをした灘之助は、苦笑いを浮かべながら必死でリカバリー。
「ごめん、邪魔して」
「ああ、いい大丈夫。それで、食べたんだよな。現地のジンギスカン」
「そう、こうやって羊肉を焼いていると、どんどんあの時の記憶がよみがえるわ」

「あのときは、現地の安い店に行ったな」「うん。あなたは往復の交通費が大変て分かったから、私がおごったのね」
「いや、あのときは助かった。寂しさが解消されたこともあって、余計においしかった。ありがとう」
 灘之助は礼を言うと、鈴蘭の皿に焼きあがった肉を置く。
「でもそれときの寂しさがが良かったと思うのかしら。大学を卒業して就職先を、都内にしたのもあなたと頻繁に会いたかったし」
「そして、マレーシア転勤を言い渡されたときに、すぐついてきてくれた」
「うん、大学の4年間の寂しさのおかげ。あなたがいないと、私、駄目だと思うわ」
「お、おい! 早く食べよう。覚めるとおいしさが半減するぞ」灘之助は照れを隠すように大きな声を出すのだった。

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こちらの企画に参加してみました。

※話の内容は完全な創作・フィクションですが、実際に羊肉が好きで、東南アジアに旅をしていたころは、各地でよく食べました。それから日本でもジンギスカンが好きなのも事実です。


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シリーズ 日々掌編短編小説 584/1000

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