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東紀州に見える海を見つめて

「海以外本当に何もないところね。でもこれがいいのかしら」安田未生はそう言って海を眺める。隣には夫の真司がいた。
「この辺りから東紀州だな。紀州といえばみんな和歌山を連想する。でも新宮の東からは三重県だというのに」

 ふたりがいるのは紀伊長島というところ。紀伊半島の東端に当たる。小さな町だが、港の前は小さな入り江のような湾になっていた。釣りの場所としては、それなりに名が知られている。
 とはいえ、6年前に結婚したふたりは、釣りに来たのではない。ローカル鉄道の旅に来ていた。3歳になるひとり息子を、愛知県で名古屋の西にある弥富にて鑑賞用の金魚(弥富金魚)の養殖を生業としている未生の両親に預かってもらってのふたり旅。この両親とふたりは同居している。結婚後に養殖業の後継者となるべく真司は修行中の身であった。
「紀伊長島か、私たちの近くにも同じ名前の所があるのに」「長島温泉だろ。あそこも実は三重県じゃなかったかなぁ」ちょうど海からの風がふたりに向かって吹いてきた。そしてふたりの髪をなびかせ、肌に潮の香が混じった風を心地よくぶつけてくる。
 ちなみに真司の両親は、現在岐阜の大垣にいた。ところで青春18きっぷの季節でもないのに、なぜか各駅停車だけで紀伊半島を新宮まで旅をしている最中。これはその途中下車である。

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 ここまでのふたりの行程は、こうであった。朝、弥富から列車に乗り、三重県に入る。そして最初の目的地が亀山であった。
「久しぶりの亀山、懐かしかったわ」「時間が限られていたが、さっと亀山公園まで行けてよかった」「それはだって、あなたとよく遊びに行ったところだもん」
 ふたりは10年ほど前に出会った。出会いが少しだけ特殊である。亀山には大手家電メーカーを始め、いろんな会社の工場が林立。ふたりは当時亀山に在住しており、真司は精密機械会社の工場、未生は食品会社の工場勤務である。一見接点がないように見えるが、双方の同僚の中にいとこ関係がいた。そのいとこのふたりがそれぞれ会社のメンバーを集めて、駅近くの居酒屋で合コンをしたのがそのきっかけである。
 ごく自然に意気投合したふたりは、連絡先を好感した後、休日のたびに亀山城跡などでデートを重ねる。そしてゴールインした。

「本当はもっと、亀山でゆっくりしても良かったが、その気になればいつでも行けるからな」
「うん、私はむしろ松坂に行ってみたかったから。おいしい肉を食べたくて」海の沖合を眺めている未生。海とは一見無縁に見える牛肉の話題になると、おいしい記憶がよみがえり口元が緩む。ただし肉といってもいわゆる『ホルモン』と称される内臓部分。

 亀山から再び列車に乗ったふたりは、次の目的地である松坂に、お昼前到着した。
「1時間ちょっとしか時間のなかった亀山と違って、ちょっとだけ時間に余裕があったのが良かったわ」
「そう、だから最初に昼ご飯のホルモンを味わっても時間が残ったな」真司は美羽とは別の角度の海、波止場付近を見ている。
 ちょうどそこには釣り人が何かを捉えたのか、先が曲線を描いている釣り竿と格闘している姿が見えた。
「おかげで寄り道して松坂城跡も見学できた」真司が言い終えたころ、視線の先では、わずかに竿の先に魚らしきものが付いているのを確認。
「でも、昼間からビール飲んでちょっと心配だったのに」「ハッハハア! あれくらい。昼ビールなんて、車で来たらできないからな」真司はそう言って声に出して笑う。

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「そろそろ時間ね」未生が時計を見る。「ああ、次はいよいよ尾鷲。今日の宿泊先だな」
 ふたりは松坂で、名物のホルモンを食べた。腹ごなしに松坂城跡まで往復すると駅に戻る。三度列車に乗り込んだふたりが移動してきたのが、この紀伊長島。今回別に目的はない。ただこの辺りが特に真司が行ってみたかったという『東紀州』の入り口部分に当たるのだ。
 そして松坂までは伊勢湾。そこからは志摩半島を横切るように列車が進み。紀伊長島から再び海に出る。ただしここは熊野灘に該当。

「JRの普通乗車券って、距離が長いと途中下車できるなんて初めて知ったわ」「今回は弥富から新宮までの切符を買ったしな。距離が223.7キロもあるんだってな。200キロ越えているから3日間有効。だから尾鷲で一泊したとしても、明日もこの切符でそのまま移動できるんだ」
 歩きながら得意げになった真司は切符を取り出して眺める。「ちょっと、変なことして失くしたらまずいわよ」未生はたしなめた。真司は声にださない笑いを見せながら切符をポケットにしまう。

 紀伊長島の駅には歩いて到着。尾鷲方面の列車はあと15分後に来る。「乗り遅れたら軽く一時間待たされるからな」「そうよ、ここまでくれば一安心ね。ちょっとトイレ行ってくるわ」
 ほどなく列車は到着。ふたりがこの日ローカル列車に乗り込むのは、これで4度目だ。今ふたりが乗っているのは紀勢本線。亀山から紀伊半島を半周するように和歌山市駅まで通じている。そのうち今回ふたりが向う新宮までの東側は、電化されておらず、ディーゼルカーがメインで活躍していた。
 そのようなこともあり、ディーゼル独自のエンジン音を鳴り響かした列車。停車中はまるでバスを乗っているかのような錯覚がある。だが動き出すと、列車特有といえる線路の継ぎ目からのガタゴト鳴る衝撃音が、それを上回るのだ。

 列車は紀伊長島駅を出発した。尾鷲に向かって左手に熊野灘が見える。当然そのようなことは真司も未生も知っていた。だから左側の席に座りそこから車窓の風景を楽しむ。

 とはいえ常に海の前に出ているわけではない。この辺りはリアス式とまでいかなくても複雑に海岸線が入り組んでいた。そのようなこともあってか、海は稀にしか見えない。ただ別の楽しみのようなものはあった。それは紀伊長島以前からも頻繁に。

 それは制服を着た生徒たちの姿である。いろんな制服を着た男女が交互に列車に乗り、ある駅に到着したら降りていく。単なるこれの繰り返し。彼らにとっては普通に通学をしているのに過ぎない。だが旅人であるふたりはその様子も旅情をそそった。
 実は並行して高速道路が尾鷲まで通じている。しかしこれらを使った車の旅や特急列車では決してみられない風景。地元の人たちの日常の姿が、ふたりには新鮮に感じたのだ。

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「次が尾鷲だ!」紀伊長島を出発して30分弱。真司はつぶやく。降りる準備をするふたり。車窓からはやがて少し開けたところに来ると建物が多く並んでいるところが見えた。こうして列車は速度を落とし尾鷲駅に到着。この日の旅はこれでいったん終了する。
「朝市は第一土曜日だけか。残念」未生は駅に到着後さっそく尾鷲の観光案内を確認した。そして肩を落とす。
「朝市はいいよ。それよりホテルに荷物を置いたら、地元の魚料理が味わえるぞ」「そ、そうよね。で明日は熊野市の鬼ヶ城に立ち寄ったら、最終目的地の新宮ね!」

「ああ、そして深夜バスで一気に名古屋に帰る。あと一日デートを楽しもうな」
 尾鷲駅を降り立ったふたりは、引き続きテンション高めである。こうして間もなく夕日が迫り、空の色に変化が起きつつある尾鷲の町。
 その町中を嬉しそうに歩きながらホテルを目指すのだった。


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シリーズ 日々掌編短編小説 503/1000

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