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記憶が喪失するときって 第925話・8.7

「例えば記憶が喪失するって、どんな気持ちなんでしょうね」ここは私が会社が定時の時に週に一度来る行きつけのバー。カクテルを口にした私は、バーのマスターに質問した。

 マスターは私の質問に軽く笑みを浮かべながらも淡々と手を動かし、店の作業をしている。「さあ、僕も経験がありませんからどうなんでしょうか?」
 今は夏場ということもあって、外はまだ明るい。バーはビルの4階にあり窓越しから街の風景は、仕事帰りの人が駅に向かってあわただしく歩いている。残業の日はおとなしく家に急ぐのに、定時になるとちょっと寄り道したくなる私。いつしかこのバーが行きつけとなり、いつもカクテルを1杯だけ飲む習慣がついた。

 私はいつもバーの開店時間から30分以内に入る一番客。このバーは深夜まで営業していて、むしろ遅い時間の方が賑やかだそうだけど、私が来るときはほぼ貸し切り。心地よい大人のBGMが店内に響き渡る。

 私は別にマスターがタイプとかそんなわけもないけど、マスターを独占できるこの時間に来るのが好き。さて目の前のマスターはどう思っているかわからないけど、相手は接客のプロだから、いつも私の気持ちを楽しくさせてくれる。
  私は店に入ると、その日の気分でカクテルを作ってもらう。カクテルが来て私が一口だけ口をつけると、無意識のうちにマスターにひとつだけ質問をする。質問といっても悩み事とかそういうのとは無関係な言葉遊びのようなもの。今日は特に意識していないけど、記憶喪失のことが頭に浮かんだだけ。

「そうよね、経験がない人には難しい質問かもね」私はそこまで言うと、再びカクテルに口をつける。
「失礼ですが、記憶喪失のご経験がおありだとか」
 マスターの声。やや低音で軽くエコーがかかった大人の声は、私の飲んでいるカクテルの味をさらに引き立ててくれているかのよう。

「ううん、ないわ。私はもちろん、周りの人だれも」私は正直に答える。ここは別にマスターと無意味な問答をするつもりはない。別に解決しなくても会話を楽しむだけでよかった。

 マスター作業をしていた手を止めて私を見つめる。それからゆっくりと口を開く「まあ、うちはこういう商売で、いろんなお客様がいらっしゃいますからね」
「ということは、お客さんでそういう人がいたの?」いつもならあまり私の質問から先に進むことがないが、今日はマスターが珍しく食いついてくれた。思わず私の声のテンションが上がる。
「まあ、あまり細かい話はできませんが、そういう感じのお客様が過去にいらっしゃったのは事実です」「ねえ、どんな感じ!」私は、マスターの食いつきに大きく反応、とにかく話の続きが聞きたかった。

「ええ、ただ外見ではわかりません。本人と周りの会話の中でそのようなやり取りがあっただけで、実際に確認のしようもありませんから」
「そ、そうよね」私はマスターの話に、少し梯子が外された気分。ついついカクテルを少し多い目に口に含んだ。

「もし、突然記憶が亡くなり、突然記憶が戻ったときにその間の出来事が思い出されないとしたらどうされますか?」マスターは表情を変えることなく口を開く。「それは......。べろべろに酔った時ならありそうね」と言って私は口元を緩めた。
 私は、ほろ酔い以上は飲まない主義。大学の時に記憶こそは飛ばなかったが、飲みすぎて酷い目にあった経験がある。それからは会社の飲み会では飲めないふりをするし、友達との女子会でも積極的には飲まない。

「仮に今、そういうことがあったらどうされますか?」
「え?」マスターの表情がいつもと比べて鋭く、声もいつも以上に力強く感じた。

ーーーーーーーー

「あれ?」気づいたときには、私は家に戻っている。「え、今日のってそんなにきつい酒だったの?」といっても、カクテルを一杯飲んだ程度のいつものほろ酔い。
 私は確認したが別にお金やカード類がとられているわけでもないし、お金の残高を確認しても、いつも飲むカクテルの料金分が減っただけ。つまり記憶はないけど、ないだけで私がいつもと違ったことが起きているわけでもない。
「なぜ、記憶がないの?」私は必死に思い出そうとしたが、どうやってもバーでの会話の途中から、家に戻るまでの恐らく2時間程度の記憶を思い出すことができない。
 結局原因がわからないから私は気味が悪くなって、1ヶ月ほどあのバーを避ける。定時の時には別の行きつけの店に行くようにした。

 あの日から1ヶ月後に久しぶりにバーに行ってみる。「あ、お久しぶりです。最近顔を見なかったので心配していましたよ」といつものマスターの笑顔。
「私、前この店に来たときに変なことがあって」私は1ヶ月前の不思議な体験を正直に答えると、マスターは不思議な表情をして「え、それは......何も変わったことはありませんでしたが」としか答えない。

「そう、よくわからないわ」と、言いながら私はカクテルを頼んだ。この日は無意味な質問をすることなく、黙ってカクテルを飲むと静かに帰った。もちろん記憶が無くなることはない。
 以降は、今まで通りのペースで通ったが、やはり記憶が無くなることもなく、記憶を喪失したのは、あの時一度だけの不思議な出来事で終わった。
「もしかしたら私の記憶が無くなったこと自体が実は気のせいだったのかも」私は、原因がわからないまま数か月が過ぎる。

 この日もバーからの帰り道。あのときと違い、すでに町は早くも夜空で暗くなっている。町のネオンはきれいだけど。私は首を傾げつつゆっくりと岐路に向かっていると、手をつないで嬉しそうに笑っている。若いふたりの女性が私の横から抜き去っていく。
「なんか楽しそうね。もう、過去のこと、いい加減引きずっている場合ではないわ。その不思議な出来事があったこと自体を記憶から封印するしかない」以降、私はあの日のことを思い出さないようにした。


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