「言葉」を大事にし過ぎ?
もちろん言葉は大事です。そう感じているからこそ言葉の仕事をしています。ただ、大事にし過ぎて、本来の意味を差し置いて、言葉至上主義のようになってしまっていると感じることがあります。
言葉の意味 中学生編
「言葉は思いを伝えるもの だから大切
言葉は誰かに感謝を伝えるためのもの だから無くては困る
…
言葉は誰かを傷つけるためのものではない
言葉は誰かを苦しめたり 悲しませたりするためものでははい
言葉の意味 みんなで考えてみよう」
これは中学生の私が作ったものの一部です。学年で人を傷つけるような言葉が横行していたことがありました。学級委員の集まりで標語のような何かを作ろうということになり、その時に作った原案です。
これが採用となり、修正され校内に張り出されることになりました。中学生相手に効果の程は高が知れていたと思いますが、卒業の何年か後に行った時にも貼り出されていたので、多少の意味はあったのかもしれません。(ポジティブ)
小さい頃は読書家で、言葉にはパワーがあると感じていたので「言葉は何より大事」と考えていました。学校での音読発表会では皆が感情を入れて読むのを恥ずかしがる中、言葉を大事に読むので、常にダントツ1位を取っていたほどです。とにかく言葉って有無を言わさず素晴らしい、とても大事だと考えていました。
言葉の意味 大人編
それから十数年、社会に出て紆余曲折あり手話通訳者になりました。やはり大切だと感じている“言葉”に関わっていたかったからです。その中で言葉の意味、捉え方が少しずつ変化していきました。
有無を言わさず大事だと考えていたものが、「言葉は裏にある意図や思いを伝えるために存在しているものであって、“言葉”自体が大事にされるものではない」という風にです。
通訳者が考える言葉の意味
通訳という2言語を扱う仕事をしていてよく感じることです。
私はある海外ドラマが好きなのですが、捜査官が検視官に死因について「I need to know.」と言うんです。
“私は知る必要がある”
このように言葉にのみ重きを置いて翻訳されていたら「ん?」と思いますよね。日本語字幕は「突き止めろ」となっていました。言葉そのものでなくその意味、意図が大事なのです。
通訳は、
言葉の受容→メッセージの理解→再構築→言葉の発信
という構造になっています。真ん中の2つ、メッセージ(意図)の理解や、再構築の工程をすっ飛ばすといわゆる直訳になってしまい、本来言いたいことを伝えられません。意図を伝えられない、または誤った意味を伝えてしまってはわざわざ通訳する意味がありません。それでは寧ろマイナスです。言葉は意図を伝えるためにあるのです。
「言葉が大事」の意味違い
以前、手話通訳者向けに手話から日本語への翻訳研修を実施した時、参加していた通訳者から、私が考えた日本語訳例文に対して不満が噴出しました。
「“結果”なんて手話は表出されていないのに、日本語訳に“結果”と書かれているのはおかしい」
私は不思議に思いました。言葉は伝えるために存在している、だから伝わらないなら言葉を足してでも引いてでも意図を伝える、それが通訳者だと思っていたからです。なぜそんな表に出てきた言葉だけを大事にするのでしょうか。
言葉は手段に過ぎない
表出される言葉だけを大事にしていては、何のための言葉なのか本末転倒です。私は同じ内容を伝える時でも、言語や文化はもちろん、声か文字か、noteかTwitterか、電話か対面かzoomか、それらによってもチョイスする言葉を変えます。伝えたい内容が大事だからです。
私は以前、棒読みで「えー知らない」と口癖で言っていました。言うと友人らは笑って口調を真似してくれていましたが、文字にするとだいぶ強くて突き放した印象ですよね。LINEでは使わないようにしています。
選んだ言葉のせいで意図が伝わらない、または別の意を含んだり歪んで伝わってしまうことを防ぐためです。
言葉の意味 ものかきの視点
以前テレビを見ていたらオードリーの若林さんが、
海外から帰国するときに「また本音を言わない国に着陸する」と思う、
というようなことをおっしゃっていました。
日本ではテレビでは思ったことをポンと口にすると、そこだけ切り取られて炎上したりする、ということに対する思いだと思います。
それに対してピースの又吉さんが
それは嘘をついているということではなく、
自分では本音を言ったつもりでもそれがテレビでは自分が思うよりも過剰に伝わる、
だから自分の思っている「感覚」に近い伝え方をするということ
というようなことをおっしゃっていました。
これこそと思いました。字面や言葉を正確にするより、意図や感覚を正確に伝えるということなのです。自分のもやもや、考えていたことを言語化してもらった、というよりさらに上回る感覚をも気づかせてもらった気がしました。
「感覚」を正確に伝える
又吉さんの本『夜を乗り越えて』に、太宰治の妻が太宰のことを書いたエッセイの一部が掲載されていました。疎開中の妻に太宰が「空襲で家が半壊した」と伝えるのです。ところが帰ってみると実際には何も変わりないのです。
これは太宰の嘘でしょうか。太宰は嘘をついた、と一蹴したり非難したりすることもできます。
それに対して又吉さんは、
太宰は「空襲にあったけど、家は無事」という伝え方では、自分が空襲で体感した末恐ろしい恐怖を妻に伝えられなかった、言葉を正確にいうより感覚を正確に伝えたかったのではないか、
というようなことを書いていました。
少し極端な例かもしれません。ただ事実を伝えるという側面もありつつ、言葉は感覚、意図を伝えるために存在しているのだと思います。
(ぜひ読んで欲しい本で、別の機会に紹介したいです。)
言葉の意味 意図、感覚を包むもの
正確に言葉で伝えるというのは簡単なものでありません。意図が伝わらない、誤解を招く、過剰に伝わる。SNSでの発言や文言でもよく起こり得るトラブルの一端かと思います。
言葉に囚われる
私たちには言葉という表面に現れた部分だけが見えています。言葉を使う側も受け取る側も、表面に囚われ過ぎていると裏にある本来の目的が見えなくなるのです。
どう受け取るか、どう受け取られるか、意図に正確かをよく考えて発信する、意味を狭めずに受け取る意識を持つこと。さもなければ逆の立場のとき、自分の首を締めることに繋がりかねないのです。
結局言葉は大事?
「言葉を大事にし過ぎ」というタイトルも少し意図よりも過剰に伝わるチョイスかもしれません。結局言葉は大事なのですから。でも、言葉が事実はもちろん意図や感覚を伝える役割を持つからこそ大事なのです。
私はまだまだ言葉を使いこなせていないです。それでも、だからこそ私は言葉に関わっていきたいと思います。言葉は知れば知るほど奥が深くて、まだまだ新たな発見の宝庫だと感じているからです。私の知らない見えていない“言葉の意味”がまだまだありそうです。
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