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自然の生きものと対話すること

よく、“考えることのできる脳を持っているのは人間だけだ”と言われることがありますが、皆さんは、人間だけに意思が与えられたと思いますか?

動物を飼っている方なら犬や猫にもちゃんと自分の意思があることはお分かりでしょう。私は動物以外の鳥や魚、植物にさえも何かしらの意思があると思っています。

昔テレビである実験を見あことがあります。人の背丈ほどの低木を二つ用意して、一方にはこまめに水やりをしたり、根の周りの雑草を抜いてあげたり、枯れた枝葉を取ってあげたりして、とにかく世話をして可愛がります。もう一方の木は逆に水やりは枯れない程度、雑草や枯れ枝や枯葉は放置、その上わざと幹を傷つけたりしていじめるのです。

しばらくそれを続けていたところで、両方の木の幹に何やら電極を取り付けてメーターやスピーカーをセットします。そこに世話をしていた人を近づけると、どうでしょう。丁寧に世話を受けていた木からはやわらかい心地よさそうな音が聞こえてきます。そしていじめられていた木にその人が近づくと、なんと甲高い「キー!キー!」という音を放ったのです。

私にはそれらは木の“喜びの声”と、恐怖の“悲鳴の声”に聞こえました。

そうです。植物にも人を認識する力があり、それぞれ異なった反応をすることができるのです。にわかには信じられなかったので、とてもよく覚えています。

もう一つ身近に起きた事例を紹介します。私の庭にはいろいろな木を植えています。昔は私も家内も多忙で、あまり庭木の手入れが出来ず、半ばほったらかしの状態でした。そのひとつのモミジは見るからに弱ってきていました。私は「もう老木だからね」と仕方がないと思っていましたが、家内が見かねて手入れをするようになったのです。そして毎日その木の幹にそっと手を当てていました。「早く元気になってね」と心の中でつぶやいていたそうです。

すると数か月もしないうちに葉には張りが出てきて、新芽も出て来て、目に見えて生き生きとしてくるではありませんか。

今でも家内が木の幹に手を当てている姿を思い出すと感動の涙がこみ上げてきます。

庭のモミジは元気になりました

それからしばらく家内は庭の木の一本一本の世話を丁寧に行いました。別の木でも植木屋さんが、「この木はもうだめやね、枯れるかもしれないよ」と言われていたのに、家内のおかげで蘇り今ではよく茂っています。植木屋さんの言う事を鵜呑みにせず、あきらめないでよかったと思います。

このように、植物にも何らかの意思があり、こちらの意思をちゃんと受け取ることができるのです。植物もみな我々同様に生き物なのですから。

今では家内が庭に出たとたんに蝶々が寄ってきたりします。ただ飛んでいるのではなく、何度も周りを飛び回り、時にはすごく近くまで来ます。家内も、「あの子は昨日も来てくれたよ」とか言っています。私の庭には除草剤などの薬品は一切撒いていないので、虫も毛虫も普通にいます。きっとうちの庭で育った蝶々が挨拶にきてくれたのかもしれないと思います。

庭に出るといつも蝶々が飛んできてくれます。

鳥もそうです、庭の木に巣を毎年いくつか作っています。卵を産んでひなを育てているようです。そんな木ですが、あまりにも大木になったので、途中で切ってしまおうと、植木屋さんと相談していた時です。巣を作っていた鳥でしょうか、家の前の電線からこちらを恨めしそうに眺めていました。「木を切るのはやめてくれー!」と言っている声が聞こえてくるようでした。植木屋さんも、「珍しいね、あんな近くでこっちをずっと見てるなんて」と不思議がっていたのを覚えています。

こうして自然と対話するようになると、昆虫や植物でさえその気持ちが分かり、伝わるようになって、とても楽しくなってきます。

そいんな風に見えてくると、世の中で「ちょっとそれは違うんじゃない」「それはやめてくれ!」というものが出てきました。

私は宗教には詳しくないので、違っていたら申し訳ないのですが、仏教の教えに“殺生をやめなさい”というのがありますね。そして動物や魚を殺してはいけないから、大豆などの植物でそれに似せて代用する精進料理というものがあります。これは、殺してはいけないものは動物や魚類で、植物なら構わないということなのでしょうか?

今まで述べてきたように、植物もちゃんとした意思のある、命を持った生き物なのです。ですから料理をする為に切ったり引き抜いた植物も、その命を絶って行うという事なのです。これもれっきとした殺生なのではないでしょうか。じゃあ野菜も食べられないのではないでしょうか。命を大切にするという事は、これら地球上に生を得た生きものすべてに平等に行わなければいけないのではないでしょうか。植物は違うというのは、私はおかしいと思います。

精進料理もいいけど

外国でもキツネ狩りのような、ただの余興のための狩りがあったり、日本でも最近人気のルアーフィッシングでキャッチアンドリリースというのがあります。漁で既定のサイズに満たない子供の魚を放すという事とは意味が違うのです。何度も同じ魚を釣って楽しむために放すのです。人間の遊びのためだけの殺生であったり、命をもてあそぶ行為です。これは本当にやめてほしいと思います。

命をもてあそぶのが楽しい?

ライオンでさえ、おなかがいっぱいの時には、たとえ目の前をおいしそうな獲物が通りかかっても見向きもしないそうです。人間以外の生き物がする殺生とは、みな生きるためであって、ただの遊びでは決してないのです。

人の魂の重さは21gだと言います。重さ、すなわち実態があるという事でしょう。魂に重さがあるとは知りませんでしたが、それならば人間だけでなく他の生きものにも同じことが言えるのではないでしょうか。動物から植物に至るまで、すべての生きものには命、すなわち実態のある魂があるのです。私は、魂の重さは皆同じだと思っています。

ですから、日本独特の習慣である、“食事の前に「いただきます」と言うこと”、この命を有難くいただくこと、動物であれ魚であれ植物であれ、“いただく”すべての命に感謝をするということがとても大切なことだと思うのです。

よくブラック校則のようなものが、なんでもかんでも安易に禁止したりしますが、そういうような“殺生をやめろ”というのではなく、“生きるためにいただくものには、ありがたく感謝すべきだ”ということが、本当の“教え”なのではないでしょうか。そのことによって、皆命をつないでいくことになるのですから。

いただきます

なにもそれらの供養まですべきだとは言いません。ただ、いただく命に“ありがとう”と感謝すべきだと思っているのです。

近頃外を歩いていて、つくづく思うのが、「皆ありがとうと言わなくなったなあ」という事です。ちょっと道をゆずってもらっても、「どうもありがとう」ではなく「それでよし、当たり前でしょ」、という表情です。もうすこし“感謝の心”を取り戻すことが出来たら世の中もっと変わるのではないかと思う今日この頃です。

このことは、以前の記事「感謝の心」でも書いていますので、よかったら見てください。

皆さんはどう思われますか。

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