kotonoha_seki
散歩の、記録。 そして、思うことをつらつらと。
-경성궤도의 이야기- 日本統治時代の京城、解放後のソウル、その街に、ひとつの私鉄が走っていました。時代の波に揉まれ、消えていった鉄路が残した「ものがたり」です。
韓国についての、あれこれを、つれづれと。
たべたいですよね~
ゆるやかに、美味し島。
ソウルの南郊からムグンファ号に飛び乗る。きっぷ無しの無札乗車だが何とか座れて、通りがかった車掌からきっぷを買う。永登浦の発音が難しく何度か聞き返される。車掌は文在寅だった。新聞が欲しくなり頼むと中から一頁だけ抜き取って渡される。その頁は文氏お気に入りの記事でもあったのだろうか。 きっぷも買い新聞も手に入れて安心したら寝落ちし気付けばソウル駅に着いて車内は清掃中、慌てて降りて時計を確かめると8時10分、釜山ゆき夜行ムグンファ号の出発は8時15分、慌てて駅舎内のコンビニに走る。
前投稿からのつづき 早春の金曜、ある列車の最後を見届けるため訪れた山陽路。 ちょうど他に見ておきたかったものもあるので…と訪れた笠岡の街、廃線跡の探索が思いのほか興味深く心惹かれるものでしたが帰宅への刻限も近づき、駅へと向かうべく進路を変え、踏切跡から「まち」へと分け入ることになりました。 踏切を渡った気分で歩を進め、まちの裏側から中へと分け入ってゆきます。 まちの裏側を流れる水路、というか沢、でしょうか。普段は水の流れはなく生活排水路なのでしょうが、小高い山の裾野にあ
日本統治下で賑わうソウル、いや京城の街。日本人が続々と入植してゆく、京城の近郊。朝鮮時代から内陸水運の河川港として、また渡し場として賑わっていた纛島のまちも、生活の近代化や物流の増加など京城近郊の拠点として重要度はますます高まっていったようです。 そんな中、大きな転機となる事象がありました。 1925年7月、京城近郊は大雨に見舞われます。4日降り続いた豪雨により漢江沿岸の集落や施設は大きな被害を受け、さてどうしようかと思う間もなく数日後には再度の豪雨となり大洪水が発
ソウルの、いや京城のまちの電車ものがたりなどをつらつらと「ゆめ語り」しているのですが、初回からの続きをば… 初回記事はコチラに https://note.com/ktnh/n/n672fd69269da さて、ソウルが京城と呼ばれていたころの街は、今のソウルより、ずっとコンパクトでした。 朝鮮王朝時代の首都だった「漢陽府」はヨーロッパや中国に多い城郭都市で、西大門・南大門・東大門、そして街の鎮めとなる北岳山(北大門)を結ぶ城壁に囲まれた内側「のみ」が市街地でした。今で
ソウルの街を縦横に駆け巡る地下鉄、郊外へひた走る電鉄。いまのソウル都市圏は世界トップレベルの電車ネットワークを誇る街。そんなソウルにも、昔、市内電車が走っていました。 ソウル(いや当時は漢陽の時代ですね)の市内電車は、朝鮮王朝(大韓帝国)時代の1898年に王室とアメリカ資本との共同出資で設立された電気会社「韓美電気」によって企画され、翌年4月に西大門−鍾路−東大門−清凉里間で開業と、かなり早い段階で導入されていて日本の東京より先なんですよね。一説には王族が宮中から宗廟や
先日ちょっと機会があって訪問した笠岡のまち。昔走っていたちいさな鉄道に、逢ってきました。 海の街を感じながら、駅跡を見て、残された車両を見て、乗って、潮風を感じて…。 たのしいひとときでした。 半世紀前に消えた鉄道の、その車両の実物に触れ、乗れただけでも楽しかったのですが、すぐそこに、線路跡が、見えている…。まちあるき好きな私としては、歩かない訳にはいきません。 車両が置かれている高架道路から山手を見るとゆるくカーブして山裾へと進む小径があります。まさに、明らかに、線
先日、とある列車が運行終了となりました。 岡山と福山を結ぶ快速電車の運行が、2022年春のダイヤ改正で消えました。この列車はその昔、新幹線が出来る前に山陽本線を広島や九州までかっ飛ばしていた電車急行列車で、新幹線開業後は運行区間を短縮したうえで一部が快速列車として運行を継続、その後は「都市的列車サービスの提供」を目指して大増発され、車両も京阪神の新快速用ハイグレード車を用いるようになり、その車両が「まさに国鉄時代の電車急行」のような乗り心地・走りっぷりだったのです。この列車
1月17日の朝、毎年思い出す、あの日。 震源から20km程度の近距離ながら幸いにも強烈な破壊力を持った揺れには襲われず、とはいえ目が覚めるほどの異様な音(それは地鳴りであったのだろう)で目覚めたとほぼ同時に「初めて経験する」揺れ、そして様々なものが割れる音。いったい何が起こっているのか一瞬分からなかった。 揺れが収まると慌てて同居者の無事を確認し、自室に戻ると布団の傍に人形ケースが落下し割れていた。布団の位置が30センチずれていたら、頭部もしくは頸部直撃だった。これは後日改
昨年も、「今年こそはきちんと書く」と、書いたままだったかな…。 などと恥ずかしいことを思いながらの新年はじめてのnote。書かないと、ほんと、感覚が鈍りますね…。 この年末年始、皆さんも「穏やか」に過ごされたのかなと思いますが、如何でしたでしょうか。帰省ラッシュの殺伐とした映像も、通勤ラッシュ並みに人が詰め込まれた境内の様子もあまり見ることなく、お祝いムードはさほどなくとも穏やかな年越しとなったように思います。 この年末年始は、私も(カテーのジジョーもあって)酒浸りになる
昔は、とてもイヤでした。 ご近所の物見高い視線とか、家庭の事情など漏れまくりの個人商店/各種サービス業の口コミネットワークを迷惑に思っていましたが、これらのことを「相互の見守り」と捉えるようになったのは、私の社会観が育ってきたのか、いや加齢のせいか(苦笑)。 いま住む町は、物心つく前からずっと暮らしてきた町。個人的な友人とかはほとんどいませんが(学生時代も就労後も交遊とかは大阪/京都がベースだったので)、私が赤子の頃から見知ってくれている人が今も多数いて、家族の健康を気に
ここ数年、写真投稿サイト「flickr」を、よく見ます。 欧米でよく利用されているサービスで、比較的高齢者の利用も多いのか古い写真も多くアップされています。そして従軍カメラマンなどの個人所有写真もアップされたりしており、そのコレクションからは、当時の様々な様子が垣間見られるのです。 冬のソウル郊外を歩く、紳士。これは1946年に撮影されたものだそうで、都市部の撮影が多い昔の写真としては珍しく、70年以上も前の朝鮮半島の近郊農地の風景が見られます。 https://www.
もう、そんなに経ったのですね。 最近は、この話題に「生まれる前のことなので…」という反応も結構頻繁に聞かれ、自分の加齢について実感する場面にもなったりしています。 いろいろと、思い起こしていました。四半世紀前のことを。 幸いにも、私の身近には「直接的な事態」になった人は、いませんでした。 そういう意味では私など「語るほどのものではない」経験しか、していないのでしょう。 それでも、この節目に気軽に「当時はこんなんだった」とは、書けないのです…。 発災数日後、私は新長田に
いろいろあって渋ってたけど、いよいよ、やってしまいました… 何やかんやで順調に進んだかと思いきや、落とし穴が… メーラーが不調に。送受信不可能!これは困る… いろいろ頑張ってみましたが、どうやらダメ。解決しなさそう…。 まあ、もう、しょうがない。旧メーラーは既受信メールは見えるので存置し、今後は新メーラーに…。いろいろあって狐火系にしてしまったけど、今後だいじょうぶかな…(苦笑)。 さて年始早々の連休は、うれしいことにお若い人からお誘いを受け、出歩くことになりました。
以前は、そんなことを特段に考えずとも「何かしらの刺激」がある場所へ、出向けていた。 今は、ほぼ半径2kmの範囲内での生活で、公共交通もほぼ使わない暮らし。 こんなにも「刺激が無い」とは、思わなかったなぁ…。 とはいえ、それはワタシが自家用車レスな暮らしをしているからで、クルマがあればちょっと空いた小一時間での散歩なんかも、気軽にできるんでしょうね。ほぼ部屋着のままでも何か羽織ればドライブくらいはOKだろうし、何ならクルマの中で髭を剃って軽く着替えて「ちょっとした買い物」
書きかけの記事が、シリーズが、幾つもあるのを改めて見て、あぁ、続けていかねば…と思う夜。 しかし、なかなか気分の乗らない夜もある。 でも、続けないとなぁ。 こんなん作って遊んでる場合じゃない。