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1月17日

1月17日の朝、毎年思い出す、あの日。

震源から20km程度の近距離ながら幸いにも強烈な破壊力を持った揺れには襲われず、とはいえ目が覚めるほどの異様な音(それは地鳴りであったのだろう)で目覚めたとほぼ同時に「初めて経験する」揺れ、そして様々なものが割れる音。いったい何が起こっているのか一瞬分からなかった。
揺れが収まると慌てて同居者の無事を確認し、自室に戻ると布団の傍に人形ケースが落下し割れていた。布団の位置が30センチずれていたら、頭部もしくは頸部直撃だった。これは後日改めて思い起こしてゾッとしたのだが、当時は全く気付いていなかった。そんなものが気にならない程、至る所のものが転げ、割れ、散乱していた。

大地震だ。こういう時は情報源をとテレビを点け、NHKを見る。しかしいつまでたっても「神戸の震度が出ない」ことが気になり、大規模停電で測候所もダウンした?それともまさか…と思いつつ余震におののきながらも室内の片づけし、暫くして「神戸、震度7」の報が。え?神戸、まさか、まさかの状況だったのか…と愕然とし、そして8時過ぎ頃だったか、点けっぱなしのテレビ画面に映し出された「倒壊した高速道路」を見て、どう理解したらいいのか、困惑した。実感が湧かないけど、いや数時間前の揺れからしたら有り得る事態だろう、いや、でも…。

そして、長期入院中だった祖父が危篤(地震の混乱による医療機器の不調が遠因らしい)との報があり、その対応で家族は出掛けて私が一人留守番となった。その状態で見る、倒れた高架、崩れ落ちた電車、そして焼けてゆく街の姿。
本当に、困惑した。どうしたらいいのか、分からなかった。

大学生だった当時、通学そしてバイトでほぼ毎日のように通過していた場所、友人や後輩が住む町、そして大好きだった電車の惨状が映し出されるテレビを、ただ、見るしかできない。物理的に、なにも出来ない。どうしようもないのだ…と自分に言い聞かせながら、テレビを見ていた。時間が経つと取材クルーが現地に入ってゆき、空撮の範囲もどんどん神戸へ近づき、様々なところを映し出す。被災者の声が、そのまま放送に乗る。生々しい。ほんとうに、生々しい状況だった。手近な棒きれなどで瓦礫から救助する姿、人々のやりとり、そのすぐ背後まで迫る火。四半世紀を過ぎても、あの姿は忘れられない。現地で実際に体験された方々の心痛は、本当に、いかばかりか…。
(その映像を撮るためのヘリの音が、取材班の声が、救助の妨げになったことを知るのは、後になってからだった。)

その日から数日、地下鉄が西神中央から板宿まで開通したことを知ってからずっと逡巡していたものの、思い切って「あの場所」へ、行くことにした。あの大火災で度々映されていた、新長田、そして西代へ。

物見遊山か。あの発災から数日後に、支援でもなく救助でもなく、ただ「行ってみる」だけか。そうなのか。
自分でもそう思っていた。でも、行ってみたかった。何が起こっているのか、知りたかった。画面越しではなく、実感したかった。

電車やバスを乗り継ぎ、板宿駅へと向かう。車窓はいつもとそれほど変わらぬ、播磨の姿。そして地下鉄で現地に着き、地上へ出て、先へ進む。見慣れた駅がズタズタに崩壊した姿、傾いた架線柱と曲がった線路の上を歩く人々、全ての建物が倒壊した道、もはや平原のような廃墟。画面の中にあった姿は、現実だった。そして、よく通っていたカレー屋は、瓦礫になっていた。いや、恐らくそうだろう。なぜ「恐らく」かと言えば、「どこがどこなのか分からない」のだ。ほぼ全て崩れ、燃え、瓦礫で埋め尽くされ、道すらも分からない。太めの道「だった」場所は一応瓦礫が除けられていたが、細街路はどこにあったのか分からず、建物はその特徴も消えた「瓦礫」だったから。なにも、分からない。

半ばあてもなく歩く先に、しゃがんでいる老婦人が居た。横を通るとき、彼女がポツリ「ここにお爺さんが居たはりますねん」と。

たぶん私に何かを訴えたのでは、ないのだろう。瓦礫というか石を少しずつ除けながら、漏れた「ひとこと」なのだろう。私は何もできなかった。しかし、この、今の気持ちを忘れず、生きていくのが私たちの責任なのか、と…。

あの日、あの場所で感じた「感情」と「感覚」は、一生忘れないと思う。何が焼けたのか想像がつく「におい」、風に吹かれる瓦礫の音、あの場の空気感、忘れないだろう。忘れずに、生きて、いく。

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