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『継体天皇樟葉宮跡伝承地』 - 創作された伝承地という特異点


『継体天皇樟葉宮跡伝承地』とは

継体天皇樟葉宮跡伝承地。末社貴船神社が石段の参道の先にある。

『継体天皇樟葉宮跡伝承地』とは、大阪府枚方市にある交野天神社の境内にある、末社貴船神社が鎮座する小丘周辺のことを指す。ここは、継体天皇が即位した樟葉宮跡の伝承地として、大阪府指定史跡にもなっている。以下は、枚方市ホームページの引用である(2024/1/18現在)。

『日本書紀』によると、越前(福井県)の三国(みくに)から迎えられた男大迹王(おおどのおおきみ)は、のちに継体天皇として507年に樟葉で即位し、5年にわたり宮を営んだとされます。
樟葉宮跡の杜は交野天神社の境内にあり、石灯籠が並ぶ参道を進むと拝殿の向こうに室町時代の一間社流造(いっけんしゃながれづくり)で桧皮葺の交野天神社本殿と末社八幡神社本殿が見え、拝殿右側の杜の奥には貴船神社が鎮座する小丘があります。この小丘周辺は継体天皇が即位した樟葉宮跡の伝承地として大阪府の史跡に指定され、小丘の麓には顕彰碑が立っています。太古からの原生林の姿を残し、かすかな木漏れ陽は、訪ねる人を遠く古代に誘います。
鎌倉時代の関白左大臣・一条実経(いちじょうさねつね、1223~84)は、「くもらじな ますみの鏡 かげそふる くずはの宮の 春の夜の月」(続古今和歌集)と詠んでいます。ここからほど近い「市民の森」にある鏡伝池(きょうでんいけ)は、古来観月の名所で、鷹狩りのあと鷹の姿を水面に映すのが慣わしだったといわれています。

https://www.city.hirakata.osaka.jp/0000000636.html

交野天神社について

交野天神社は、京阪電車「樟葉駅」から徒歩20分程度の距離にある神社である。閑静な住宅街の中に突如現れる原生林に覆われた境内一画は、そのコントラストからどこか非日常なものを感じさせる。

神社付近の住宅街
日中ながら辺りは静かな時間が流れている
ひっそりと立つ案内板。奥が神社への参道となっている。

交野天神社は、桓武天皇が延暦6年(787年)、父である光仁天皇を祀るための郊祀壇を設けた地とされている。

交野天神社、第一の鳥居。左の石碑には「桓武天皇先帝御追尊之地」と記されている。
第二の鳥居
奥に進むと、手洗舎と第三の鳥居、正面奥には拝殿が見える
拝殿
拝殿を右に曲がると、貴船神社・樟葉宮跡へと続く道がある

貴船神社と継体天皇樟葉宮跡伝承地について

木漏れ日が差し込む開放的な空間が広がっている。左奥の石段の先に神社と伝承地がある。

貴船神社は、継体天皇が即位した樟葉宮の宮跡を祈念するために、当地の氏神である高竉神(たかおかみのかみ)をこの地に移して祀ったのが起源といわれており、ともに祭神として合祀されている。

石段の先に出てくる貴船神社。また、この周辺が伝承地とされている。
奥に本殿が見える。この日は閉まっており中は撮影不可だった。
大阪府指定史跡を示す石碑

『継体天皇樟葉宮跡伝承地』とそれがある交野天神社。一見すると、地域の歴史、由緒性を感じられてとても良い。

しかし、その伝承が「創作された」ものだとしたら…。

伝承地という偽史

今中五朗によって創作された伝承

上記で『継体天皇樟葉宮跡伝承地』は、「継体天皇が即位した樟葉宮跡の伝承地」と紹介した。しかしそれは、明治10年前後に楠葉村の今中五朗によって、「創られた伝承」であると、歴史学者 馬部隆弘氏は著書『由緒・偽文書と地域社会―北河内を中心に(勉誠出版、2019年)』で指摘している。

馬部隆弘氏は、交野天神社が近世から用いていた「桓武天皇が天神を祀った場」という由緒を、近隣の片埜神社が明治7年に横取りして社格を上昇させたことに原因があるとみている。その対抗策として今中五朗は、交野天神社の社格上昇を図るため、桓武天皇から移り、継体天皇との関係を主張し出した。

更に今中五郎は、より受け入れられやすい由緒となるように、その筋書に何度も推敲を加えており、その中で樟葉宮の場所を度々変更している。そのため、現在の伝承地は本来の場所を伝えたものではない。そもそも、交野天神社を樟葉宮の跡地であるとする伝承・文書は、『五畿内志』をはじめとする地誌等の古文書に記録されていない。

さらに、『継体天皇樟葉宮跡伝承地』は、考古学的に伝承を示す何らかの出土品が"ない"という。

正しい歴史として認定された「偽史」

一方で、継体天皇が楠葉のどこかで即位したことは、『日本書紀』に記述されている。その中で交野天神社は、元々楠葉の神社という意味で「樟葉宮」と呼ばれ、地域に定着していた。これはある意味、即位地であったことを示す名残といえるだろう。
そうした要素によって、いつしか伝承地として定着した「樟葉宮」を含む、交野神社の境内一帯は、1984年には枚方市から、「枚方八景」の一つ「樟葉宮跡の杜」として名所に指定されている。

町おこしとして使われる偽史

偽史であった以上、伝承にまつわる一切を再検証・訂正する必要があると考えるのが一般的な考えだろう。だが一方で、長年にわたって地域に根差し定着した歴史に対する地元住民の認識や心情をひっくり返すことは難しい。
また、行政にとっては町おこしの観点から見た場合、その文化財が「事実か否か」より「使えるか否か」の方が重要度が高い。

実際、馬部隆弘氏は、枚方市教育委員会に勤務時、委員会が2008年に発行した小学生向けの副読本『発進!! タイムマシンひらかた号』に掲載された歴史的内容のチェック時に、『継体天皇樟葉宮跡伝承地』も含めて、冊子に不適格な記述がある箇所を全て書き換えるよう要望したが、訂正されることはなかったとのエピソードを明らかにしている。

筆者の卑近な経験ばかりで申し訳ないが、その一例を紹介しておく。市制六〇周年記念の一環で、枚方市教育委員会が平成二〇年(二〇〇八)に発行した小学生向けの副読本『発進!! タイムマシンひらかた号』には、アテルイの首塚や七夕伝説、そして王仁墓に関する椿井文書なども登場する。枚方市役所では、歴史的な内容の記述がある場合は、市史資料室がチェックする習わしになっていたので、筆者も立場上、この冊子について不適格な記述は全て書き換えるよう要望した。すると、編集を担当した指導主事は、「史実でなくてもいいから、子供たちが地元の歴史に関心を持つことのほうが大事」とこの冊子の編集方針を明言した。怒りは覚えたものの、正直なところをいうと驚きはあまりなかった。なぜなら、これはほんの一例で、何度も同じような苦い思いをしていたからである。チェックして、それが無視されて、市史資料室のお墨付きがついたというかたちで世に出ていく。これが繰り返されると、さすがに自身の無力さが情けなくなるとともに、こういう思いをしなくてもよいようにするためには何をすべきかと真面目に考えるようになる。その結果、偽史の研究に積極的な意義を見出すようになった。

『椿井文書―日本最大級の偽文書』/馬部隆弘(中央公論新社、2020年)

余談だが、『継体天皇樟葉宮跡伝承地』の現地には、歴史を解説する案内板が立っている。そこの末筆には、それぞれ府・市の教育委員会の署名がある。

貴船神社へ上る石段前にある案内板。枚方市教育委員会とある。
貴船神社前にある案内板。こちらは大阪府教育委員会。

これはすなわち、市史資料としてお墨付きがついていることを明確に表している。

終わりに

人の願いと欲望が創り出した特異点

各地の郷土史の中には、本来の意味での伝承ではなく、『継体天皇樟葉宮跡伝承地』のように、近代にある種の政治的思惑をもって創作された伝承が存在している。
だがそれらは、地元とその歴史を「よくしたい」、「こうであって欲しい」といった思いや欲望が込められたものともいえる。

偽史として検証することは歴史学の観点からは重要だ。一方で、地域住民にとっては慣れ親しんだ地域の歴史でもあり、偽史という真実を突き付けることは、自分たちのアイデンティティが失われることなのかもしれない。

国の正統な歴史と地域性。両者のバランスは難しく、研究者ではない私は、そこに対する回答を持ち合わせてはいない。そこで、このような背景を持つ場所や存在を、現実と妄想が交差する特異点と定義しようと思う。そして、それらを私は第三者としてニュートラルに、探求・撮影していきたいと思う。


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