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消去しきれない不都合な記憶

マガジンご購読の皆様、こんばんは。幕末の頃、尊王攘夷派の佐幕派の抗争で世の中の不透明感が深まるなか、「ええじゃないか」の民衆運動が起きたということですね。ひょっとすると、令和の時代にも、今後、こういった風変りな社会現象が起きたりするのでしょうか。

https://www.youtube.com/watch?v=_3OnzNozNAA

その「ええじゃないか」の3年前、天狗党の乱が勃発。水戸藩内外の尊王攘夷派(天狗党)が筑波山で挙兵しました。天狗党は、現在の茨城県内の主要な地区のほぼ全部で戦闘を起こしました。県内だけでなく、日光東照宮の占拠を計画し、日光奉行の兵が出たため、不発に終わったものの、日光近くでも騒動が起きました。天狗党は鎮圧され、352名もの大人数が処刑されました。しかし、この天狗党の乱の3年後、大政奉還、王政復古の大号令に至り、「ええじゃないか」が起きています。ひょっとすると、令和の時代にも、日本のどこかの地域で、天狗党みたいな集団がひょっこり現れたりするのでしょうか。

さて、一昨日の続きをお送りいたします。

2. 消去しきれない不都合な記憶 - 忘れられた巨人 -

カズオ・イシグロが 2015年に発表した小説 The Buried Giant(忘れられた巨人)は、過去に起きた耐えがたい事件に関する忌まわしい記憶とのむきあい方を主なテーマとしている。過去に起きた耐えがたい事件とは、個人のレベルで言えば、親しい関係者の背信行為、社会のレベルで言えば、戦争や虐殺、あるいはそのほかの理不尽で社会正義に反する不法行為のようなものが想定されるだろうか。どんなものを思い浮かべるかは、読者次第である。見方によっては、人の一生、もしくは人類の全歴史が、そのような事件に満ちているとも言うことができ、そのどれを取り上げたとしても、それぞれに論じることができるだろう。この小説では、J. R. R. Tolkien作品の "The Hobbit" (『ホビットの冒険』)や ”The Lord of the Rings”(『指輪物語』)そっくりとも感じられるファンタジーの設定のもとで、アーサー王やドラゴンを登場させ、その物語を通して、過去に起きた耐えがたい事件に関する忌まわしい記憶のやっかいさを描いている。

5世紀から6世紀頃のイギリスはアーサー王伝説の時代である。アーサー王の実在性を含めた詳しい史実はいまだ決着がついていない。この頃、先住のブリトン人と大陸からやってきたサクソン人の間で戦闘が行われ、その後、平和な小康状態があった。

この物語の語り手は、その時代のブリトン人のアクセルである。すでに老人になっている。このアクセルの妻はベアトリスである。2人で洞窟の中で暮らしている。物語の最初から、ほぼ最後まで2人は一緒に行動する。

この時代、アクセルとベアトリスを含め、村全体、誰もが過去の記憶を失っている。集団で誰もが記憶を喪失している状態になったのは、霧のためだとと考えられている。その霧はクエリグというドラゴンが作り出している。

ある日、アクセルとベアトリスは旅に出ようという話になった。その目的は離れたところに住む息子を訪ねるためである。しかし、熱心にそのような旅の目的を語る一方、息子についての記憶がないようだ。そもそもどこにいるかということも正確に知らないようだ。

なぜ記憶がないのか、あるいは、なぜ記憶があるのか。そのいろいろな背景が少しづつ語られてゆく。土着のブリトン人と後からやってきたサクソン人が、生々しい戦争時代の虐殺などの記憶があるなかで、今後、平和的に共存するために、どうするか。自分や身近な人たちの生と死にかかわる種々の情念があるなかで、どうするか。などといったことである。

アクセルは妻のベアトリスの言いなりで優柔不断な男のように最初のほうでは描かれている。後でわかることであるが、実は、かつてアーサー王旗下で働く、最も武勇に優れた騎士の1人であった。単なる蛮勇ではなく、正義感にあふれる理想主義者でもあった。虐殺事件の折には、尊敬し敬愛するアーサー王の面前で、その批判をするような人物だった。

読者はこんな感じのどんでん返しにたびたび小さく驚かされるが、ラストシーンではもっともっと大きく驚くことになる。

実は息子はとうの昔に亡くなっていた。なのに、わざわざ、この2人の老人は危険を犯して、村を離れて旅に出ている。武装した兵士と出会って危険に身をさらしている。ドラゴンとの対決にまでつきあったりしながら、旅を続けた。

結局、この旅は死への旅である。アクセルとベアトリスは、ラストシーンで、一緒の船に乗ることはできないことになった。その船の船頭が、夫婦の事情を総合判断して決めるようだ。あれほど一緒に乗らないと嫌だと頑固に言い続けてきたベアトリスが、この最後の段階では、自分一人が先に船に乗ることをあっさり承諾した。その様子を見てアクセルは陸に戻るのだが、船頭が目に入らないかのように、その前を素通りしてむこうに行き過ぎてゆく。

息子が亡くなっていること、なぜ亡くなることになったのか、その理由とともに、この二人の過去が、読者にやっと理解できたとき、物語はこうして終わる。

もし記憶があったならば、その善悪を別として、特にアクセルは、ベアトリスと、村で一緒に過ごすことはきっとできなかっただろう。個人のレベルでは、「覆水不返」もしくは「覆水难收」の故事の通り、修復できないまま終わることが多いように思われる。それは単に別離という決着が、それなりに良い解決法になっているためと思われる。

社会のレベル、国家間のレベルでは、過去に起きた耐えがたい事件に関する忌まわしい記憶は、数10年、100年の年月を超えても、なお簡単には片付けかない、根深いものとして影を落とし続ける大問題になる。ドラゴンのもたらす霧による集団記憶喪失、もしくは記憶の改ざんがあれば、一定の効果も期待されるが、誰かがそのドラゴンを退治するようなことがあればどうなるだろうか。

現にそこにいる人々の大多数が幸福になるためには、都合の悪い記憶を消去できるとよいのだろうが、仮にそうしたとしても、いずれ、それは暴かれるだろう。

過去の呪縛から解き放たられて、明るい未来に向かうにはどうしたらよいのか、はまだ誰も答えを知らない。

ところで、カズオ・イシグロは、この"The Buried Giant" (忘れられた巨人) を発表するまでに、10年間ほど待たれたということである。10年前と言えば、第6作”Never Let Me Go”(『わたしを離さないで』)を発表した年であり、既に、その頃、この作品も書いていたことになる。

10年遅らせる理由はなんだったのだろうか。BBCのインタビューに対し、カズオ・イシグロは、夫人が反対したからと説明している。ファンにとっては、またしても新しい謎が生まれてしまった。

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