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記憶の整理

マガジンご購読の皆様、こんばんは。いつもお世話になっております。5月も後半、もうすぐ終わろうという時期です。かなり大昔のことになりますが、イギリスで暮らすことになり、旅立ったのがこの時期でした。日本は雨季に入ろういう時期ですが、イギリスもヨーロッパの多くの国も、これから夏まっさかりというベストシーズンの直前です。到着は6月1日だったかですが、大学は試験勉強で疲れた顔の学生であふれていたなあ、とか、高速道路のアスファルトが溶けて車が走れなくなったのがニュースになっているとか、こういうのを異国情緒と言うのかどうかわかりませんが、日本ではまず聞かない話だということでいまだに覚えています。

さて、もう5年ほど前になりますが、刷り上がり280ページの研究資料を Amazon の KDP を使って電子出版したことがありました。当時、15年ぶりに学会の実行委員長をやっておりまして、いろいろ新企画を考えていました。学会で研究発表される資料を印刷製本して、全員に配る一方、PDFファイルと Kindle ファイルを、期間限定でダウンロードできるようにしたのでした。もう今では、あちこちでタブレットやスマホで研究資料を閲覧するのもちっとも珍しくなく、2020年後半以後、バーチャルな研究会が急増して、そうしたスタイルもごく普通になっています。特に、いまはどんな資料もPDFファイルになっています。

そんなこんなで、最近、Voicy で9回にわたって「記憶の曖昧さと繊細さ」について語ったトークのテープ起こし(音声のテキスト化)したものに補筆しまして、電子化しております。

本マガジンでも、しばらくの間、連載することにいたします。よろしくお願いいたします。

記憶の曖昧さと繊細さ - カズオ・イシグロ作品について -

人の記憶とはどのようなものだろうか。コンピュータがメモリやストレージに保存するデジタルデータと同じようなものだろうか。脳のどこかに、過去の記憶をしまっておく場所があるのだろうか。

人に限らないことであるが、生物の脳の記憶の方法や形態は現在使用されているコンピュータの方式とはだいぶ違っている。ニューロンとシナプスの複雑な回路の動的平衡であると考えられる。

2019年、映画「マチネの終わりに」が人気を博した。2016年の平野啓一郎原作の小説を映画化したものである。原作小説、映画に共通して、人の生きてゆく過程での記憶の持つ意味について、興味深い描写があった。主人公の蒔野聡史は作中でこんなことを言っている。

「だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?」。

人の持つ記憶、そして、人の語る過去の世界は、時にとてつもない広がりを持ちながら、仮想的にパラレルに進行するものが相互に重なりあい、もつれあい、いたるところにひずみが生じている。いびつな形で大きさもまちまちで、その内部も不均質な塊がいくつも複雑に折り重なっている。その互いの境界部分はぼやけており、明快な区別がつかない。それでいて、現在に生きる自分に対し鋭敏に接続している。

そのような曖昧で繊細な記憶をテーマとしてとりあげ、現に生きている人にとっての記憶の意味を問い続けている作家は、21世紀前半、2020年代の現時点で、少なくとも一人おられる。カズオ・イシグロである。

カズオ・イシグロは、1980年にデビューした。イギリス国籍の小説家であるが、日本生まれであり、作品にも日本が登場する。2017年、ノーベル文学賞を受賞したが、それ以外にも多数の重要な賞を受賞している。今年、2021年までの41年間に次の8つの長編小説を発表した。

[1] 1982年 A Pale View of Hills (遠い山なみの光)
[2] 1986年 An Artist of the Floating World (浮世の画家)
[3] 1989年 The Remains of the Day (日の名残り)
[4] 1995年 The Unconsoled (充たされざる者)
[5] 2000年 When We Were Orphans (わたしたちが孤児だったころ)
[6] 2005年    Never Let Me Go (わたしを離さないで)
[7] 2015年    The Buried Giant (忘れられた巨人)
[8] 2021年    Klara and the Sun(クララとお日さま)

カズオ・イシグロの小説の特色は、100万人の読者が100万通りの感想を持つように仕組まれている点にある。読み手自身のこれまでの人生と、小説で描かれる世界が重なり合うためということもある。またテーマじたい、それをとらえる深さにいくつものレベルがあるような内容を含んでいるため、ということもあるだろう。そのため、他の人の異なる感想を聴くことは新たな知的刺激になる。

本書では、最新のKlara and the Sun(クララとお日さま)から始め、順に1つづつ作品の紹介と私的感想を述べてゆく。

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