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#21『ロブスター』

アルコールを飲まずに眠ろうとすると、名前のない不安が僕に肩を組んでくる。
今この瞬間ではない、遠い未来のような、近い過去のような、雲を掴む物事が僕を寝かせようとしない。

この街を流れる川は耐えきれない臭いがする、何もかもが垂れ流され、ぷくぷくと有毒なガスを放ち、隣の部屋に住む学生は一晩中咳をしている。
小学生の頃、肺に水が溜まって入院した病室の上の階の患者がO157で、一晩中トイレを流す音が定期的に響き、毎夜睡眠を妨げられた。
つまり、精神がキリキリと歯ぎしりをして、思考が胸焼けを起こし胃酸臭い湿ったゲップが止まらないような感覚。

人生がいかに素晴らしいかということを証明するために悩んでいた頃は幾分か救われていた。
人生がいかにクソであるかということを証明するために悩むと出口が見つからない。
ちゃんとした根拠を持って自分の人生はクソなのだと納得したい、全てを諦めるための理由が欲しくて堪らない。

人生には目的と表現が必要だと過去の自分に大口を叩いた、それすらも過去になった今、目的があるということに息苦しくなっている。
叶わなかった約束が腰を下ろすような毎日に嫌気が差し、ギンズバーグの詩集を買ったが何ひとつ理解出来ない。
そういう背伸びで知恵の輪を解くような歯痒さを持ち続けるのは楽ではない。

されど、楽な生き方を選ぶのは尚更心がほつれていく。
例えば歯を磨くのを忘れること、例えば日々の運動を怠ること、例えばやるべきタスクを後回しにすること、例えば周囲の人間を蔑ろにすること。
五体満足で骨も立派、外からは見えないけれど心がすごい速さで腐っていく。

こんな文章を書きたいとは思わない。
こんな文章を書くために若い時間を費やすのは全くもって不健康だ。
だからアルコールを飲んで目を背けてきたのだ、365日絶え間なく、それを何年も繰り返してきた。
健康診断の薄っぺらい紙切れに、肝臓が弱っているので精密検査を受けてください、と言われても心の健康については何ひとつ触れられない。

僕は向き合いたくないのだ、人生を必要以上に難しくするぼんやりとした不幸に。
靴の先が無抵抗に濡れるのをただ黙って見ていたくはない、諦め切れぬまま失うような感覚が嫌なのだ。
本当は全てが大好きなのに、何もかも嫌いになっていくような生き方はこりごりだ。

ひと口のウィスキーに頼って、切なさを前におどけているくらいが丁度いい。
若い顔のアル・パチーノのように、道化を演じてロシアンマンボを踊っていたい、たとえ最後は親友の前で目覚めなかったとしても。

きっと全ては身から出た錆だ。
何度も忠告されてきた、それなのに聞いてる振りをしているだけで何も認めていなかった。
そんな自分が誰かを許せると思うか、自分に降りかかる不都合を受け入れられないのに、他人のことを許せるわけがない。

都会の大通り、いきがった若者が真っ黒な人混みになって僕の行く道を遮る。
誰かと比べられるようなプライドは順応する賢さと楽を知っている、そういう不毛なことを考えながら信号が青になるの待っている。
ごみ溜めの明日から届く力任せなメッセージ、交差点に飛び出して体ごとふっ飛ばせよ、誰かがそう囁いている、心のない優しさは決して大声で話さない、耳元で囁いているだけ。

科学の力で生かされて、気力や望みは失って、それでも生きていたいと思うか、本当に愛だけを信じて生きていれるか。
いっそのこと空から隕石が降って全て無くなればいいと思う、なんて本気で言ったら弱い奴だと見放すだろう。

誰も悪くないけどきっと誰かが悪い、そういう話を分かって欲しいけど分かって貰いたくない。
誰にも理解されないのはとても息苦しい、だけど誰かに理解されるのはそれよりももっと息苦しい。
それらはガラクタ、どうしても捨てられないガラクタがあって、お腹を空かせながら分かち合いたい。
退屈とか、神経質とか、落伍者とか、不適合とか、怠慢とか、そんな言葉で片付けないで欲しいのに、それすらも空腹の胃液に溶けていく。
僕らの心がどれだけ傷ついても血を流さないように、季節の花は素朴に枯れてしまう。

こんな時サガンならきっと、世界中のウィスキーを全部飲んだって気持ちは安らかにならない、なんて気の利いた台詞を思いつくだろう。

嗚呼、僕は大嘘つきだ。
実はこんな悲観的な文章を書いているが、他人事のような本音、全て作り話なのだ。
隣の部屋に、一晩中咳をする学生など住んでいない。
ロシアンマンボが何なのかということも、それほどよく理解していない。
空から隕石が降ってきたら、なんとか科学の力で阻止して生かされたいと思うだろう。

僕には悩みなんてない、不安もない。
事実、ハイロウズのロブスターというレコードに針を下ろした。
アルコールじゃなくて、一生分の炭酸水を飲んで健康的に興奮している。

スピーカーから聴こえてくる、ロックンロールが聴こえてくる。
マーシーが言ってる、"馬鹿は不幸が好きなんだ" って言ってる。

馬鹿は不幸が好きなんだ
馬鹿は不幸が好きなんだ
馬鹿は不幸が好きなんだ

金髪のヒロトかっちょいい!!
生まれ変われるならマーシーになりたい!!

馬鹿とバカバカしいは違う、バカバカしいは褒め言葉だ。
真面目にバカバカしく生きていくのは器量が必要、頭が良くないとそんなことは出来ない。
賢い僕達は涙なんて知らない!
賢い僕達は空っぽに生きていく!
ロックンロールはいけずのインテリじゃない!
ロックンロールは賢い音楽!

このタイミングでロブスターのレコードに針を下ろしたのは正解だ。

お酒も必要なく心が満たされたので、このまま眠ってしまおう。
ベッドに潜り込んでロックンロールのことを考えてバカバカしく眠ってしまおう。

幸せな気持ちで部屋の明かりを消した丁度その時、名前のない不安が僕に肩を組んでくる。
今この瞬間ではない、遠い未来のような、近い過去のような、雲を掴む物事が僕を寝かせようとしない。

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