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【書評】ゲーテ『若きウェルテルの悩み』自殺と結婚問題


0.はじめに

ドイツの作家ゲーテの代表作『若きウェルテルの悩み』を久々に読んだので感想・考察をやっていきます。
最初に読んだのは大学時代。イースト・プレスの「まんがで読破」バージョンでした。書簡体小説という未知の形式であること、自分と近年代である青年の悩みを扱った作品であることから、初読時に衝撃を受け、その後岩波版、新潮版と読み、今回読んだのはちくま版です。

主人公が社会不適合的なところがあって、それは当時の私も今の私も同じなので、今回も楽しく読めました。この手の作品にありがちな、「若い頃は楽しめたけど年を取ると恥ずかしくて読めない」という現象はまだ発生していません。
ただ、当時と違う視点を持って読むことができ、別の印象を抱いたキャラクターがいます。それはヒロインのロッテです。


1.感想

(1)美しい情景描写

ドイツ文学は「教養小説」と呼ばれる説教めいた教訓が書かれた、主人公の成長小説というイメージが強いかと思います。
もちろんこの小説にもそれはありますが、情景描写も綺麗です。
ワールハイムの森や噴水、そこで暮らす人々の雰囲気が牧歌的で、平和的です。この点、心理描写に重きを置きすぎたスタンダールと比べるとバランスが取れているように感じます。

(2)自殺論争の緊迫感

物語の中盤、主人公ウェルテルとその想い人ロッテの婚約者・アルベルトの間で自殺は是か否か議論する場面があります。普段はあまり争わない二人がここで激しく争い、考え方の違いが浮き彫りにされるシーンです。

アルベルトは自殺に関して、「自殺は弱さだ」と言い切ります。人生の苦難、辛酸を乗り越えることが我々の使命であるのに、それを投げ出すのは何事か、というわけです。まるでどこかの自己責任論者のような口ぶりです。
これに対してウェルテルは「自殺に精神の強さは関係ない」と主張します。人間は苦しみをある程度まで我慢することはできる。しかし、限度を超えては耐えられない。だから重要なのは苦しみの程度であって、精神の強弱ではない、と言います。
二人の議論は平行線のまま終わります。
挿絵も特にないですが、活字を読むだけで迫力が伝わってきます。

ここでは二人の、弱者へのまなざしの違いが描写されています。アルベルトは弱者であろうと生き残るために戦うべきだ、と言う。弱さは憐れみや救済の対象ではなく、克服すべきものとして彼の目に映っている。努力至上主義的な価値観です。
一方のウェルテルは、弱さというのを克服すべき対象としてではなく、憐れみの対象として見ています。努力は必要かもしれないが、それが必ず報われるわけではなく、努力にも限界がある、とする立場です。

この場面は後半の自殺に関する二つの伏線となっています。ウェルテルが自殺することと、アルベルトがそれを止められないことです。
終盤、ウェルテルが自殺をするためにアルベルトからピストルを借りるのですが、アルベルトは結果的にいとも容易くピストルを貸してしまい、ウェルテルはそれを使って自殺してしまいます。
なぜアルベルトはピストルを貸してしまったのか?ウェルテルの精神状態が悪化しており、ピストルを貸せば自殺に使われるリスクは彼も認識していたはずです。にもかかわらず、なぜか?
それは、アルベルトが心のどこかで、

「大丈夫だ。彼はああ言っているが、まさか本気で自殺はしないだろう」
と思っていたからではないでしょうか。
つまり、ウェルテルがそれを自殺に使う可能性を、想像することができなかったのです。想像力、感受性が欠けていた。自殺論争はその伏線だったのだと思います。

 (3)ロッテは悪女か否か

初めて読んだときはウェルテルのロッテへの執着に戸惑いを覚えつつも、基本的にはウェルテルに同化して読んでいました。
で、当時思ったのは、
「もしかしてロッテ悪女じゃね?」
という感想です。

どういうことかというと、既にアルベルトが婚約者なのに、なぜウェルテルを相手にして突き放さなかったのか?結局は二人の男を天秤にかけ、弄んでいたのでは?ということです。
たしかに、そうした読み方も可能です。
しかし、今回読み返してみてロッテの悪女性はほとんど感じられませんでした。むしろ、「なぜロッテはウェルテルとの関係を切るに切れなかったのか?」
という疑問を持ちながら読み進めることで、ロッテの心情が見えてきたのです。

それはつまりこういうことです。
たしかに、自分の夫はアルベルトであり、彼のことも深く信頼している。不義の恋によってその関係を破綻させようとは思わない。

それはよくわかっている。
わかっている。
わかっている「けれども」、

「人は配偶者のみにて生きるにあらず」
ということです。
つまり、結婚生活ですべてが満たされるわけではない。たしかに、アルベルトは「夫」としては申し分ない。けれども人生は結婚生活だけではないわけです。歌や踊り、文学や絵画、旅行や交友。いろんな楽しみがある。そして、それを味わいながら生きていくわけです。そして、それをアルベルト「ただひとり」に満たしてもらうことは不可能です。彼がいくら優秀だろうと、あらゆる楽しみをロッテに与えることはできない。誰か他の人の助けがいるわけです。
それがウェルテルだった、ということ。

最後ウェルテルとロッテが二人で逢引きする場面がありますが、そこでロッテがウェルテルに詩を読むよう頼むんですね。
ロッテの方は、こんなこと長くは続けられない、これが最後だと思ってるんです(ウェルテルにはその気がない)。
思ってるんですが、ウェルテルの詩を聞いて確信してしまう。自分とウェルテルが詩について驚くほど共感・共鳴できる、そうした感性が二人にはある、ということを。

その後ウェルテルに接吻を奪われますが、なんとか追い返すことに成功します。
しかし、もはやロッテの心から平静さは失われてしまった。それは夫への罪悪感でもあり、ウェルテルとの関係を切ってしまうことへの喪失感でもあったのでしょう。

「なぜウェルテルとの関係を切れなかったのか?」
その答えは、
「ウェルテルも(アルベルトとは違う意味で)大切な存在だったから」
ということでしょう。
このブログで度々言及している「恋愛・結婚の暴力性、悲惨性」がやはりここでも表れているわけです。誰かが何かしらの諦めを強制される。つまり、誰かを犠牲にしないと成り立たないものである、ということです。

この視点はおそらく重要です。
たとえば芸能人が不貞を犯すと週刊誌と大衆がこぞって非難を浴びせます。「人として最低だ」と。
誤解のないように言っておきますが、私は別に不貞行為を擁護するつもりはないです。結婚という枠組みを選択したのであれば、そこで適用される規範は守った方が「道徳的」なのは違いありません。

ただ、現実問題として「一人を一生愛し続け、他に目移りすることはない」というのはまずありえません。トルストイも言っていますが、それは「一本の蝋燭が一生燃え続ける」と言うのと同じくらいありえないことですから。

「じゃあせめて関係を切ってからにしろ」
と言う意見が飛んでくるでしょう。
私もかつてはそう思っていました。
しかし、実際にはそうしようにも様々な障害(制度、利害関係、単なる怠慢)があり、関係の清算がなかなか実行されないのでしょう。
そもそも不貞に走るということは、配偶者との関係が悪化していることが背景にあると思われますが、そうなると性エネルギーを配偶者に向けることができなくなります。
で、その行き場のないエネルギーはどうなるか。何らかの形で平和的に処理できればいいのですが、もしそれができなかった場合、配偶者の外でそれを解消しようと考えてもおかしくありません。
つまり、現行のシステムには配偶者との関係が悪化したとき、不貞に走らないようにする制度的設計がなされていないわけです。不貞を撲滅したいなら、道徳を説くより、こうしたシステム改善を試みるほうが賢明かと思われます。

本編からだいぶ逸れてしまいました。
ここで一つこの物語から教訓を引き出すとするなら、
「失恋は敗北ではない。たしかに、失うものもあるが、得られるものも大きい。得られたものに着目すべきだ」
という教訓。

私自身は極めて特殊な「失恋的体験」をしたのですが、それによって深遠な世界に到達したというか、まあ教訓は得られたわけですね。いつか機会があれば語りますけれども。

閑話休題。
ウェルテルがロッテへの執着を何らかの形で処理(抑圧、昇華その他何でも)できれば、ロッテの喪失を埋めるだけの恋人なり仕事なりに巡り遇えたはずです。彼には仕事をする力もあったし、芸術的感性もあった。世間に放置される存在ではない。だから希望を持って生きよう。そう思うことができれば、あの悲惨な結末も変わったかもしれません。
要するに、「諦める勇気」ですね。諦めるは「明らめる」でもあり、物事の真理を照らすことでもあるんです。
じゃあ何で諦められないのか?というと、「努力至上主義」「幸福(快楽)至上主義」に陥っているから。
努力と勝利が至高の価値なら、敗北と喪失を味わったときには絶望しか残りません。また、「幸福(快楽)」が最高の価値だとすれば、それを取り逃すこと、今回の場合だと失恋は恥であり、忌むべきことだ、ということになってしまう。

こうした考えに呪縛されている限り、鬱も自殺も永遠になくなりません。
ダメでもいい。負けてもいい、と思える勇気が必要なのです。この小説は、そのことを教えようとしているのかもしれません。


2.おわりに

ということで、長々と語ってきましたが、このへんで締めようと思います。
まあ日本にも精神を病む原因がそこら中にごろごろ転がっているので、こうした名作を読み直すことで防衛するのも大事かと思います。特に自己責任論者はこれを読んでもまだそう思えるか、ぜひ試していただきたいところです。
同じくゲーテの『ファウスト』は悪魔に魂を売った話ですが、これと同じことを日本社会もやってしまったわけなので、多くの人が幸せになるためにも、ぜひ「悩み」多き人たちの声に耳を傾けるべきではないでしょうか。
この本はそのために役立ちます。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


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