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テロ、ウォール街占拠、BLM運動…21世紀、ゾンビは「怒り」を映す鏡となった。遠藤徹『ゾンビと資本主義』本文一部公開

黄昏どきのUSJにストリート・ゾンビが出現中の2022年10月。
工作舎では、遠藤徹 『ゾンビと資本主義──主体/ネオリベ/人種/ジェンダーを超えて』を刊行します(10月25日前後から書店に並びます)。
著者の遠藤徹さんは英文学やアメリカン・ポップカルチャーの研究者。これまでスーパーマンやバットマンなどアメリカンヒーローの表象分析によって人種主義や優生主義などの問題を読み解いてこられました。今回遠藤さんが取り組んだのはヒーローではなく個や主体のない群れであり、死んでいるのに生きている存在論的矛盾に満ちたゾンビです。
本書は、欧米の豊富なゾンビ研究の成果や現代思想の概念を駆使しながら、近代的な主体のあり方、資本主義、人種やジェンダーなどの枠組みを無効化していくゾンビの可能性を見出そうとする一冊です。刊行を記念して、本文から一部を公開します!

『ゾンビと資本主義──主体/ネオリベ/人種/ジェンダーを超えて』
遠藤徹=著 工作舎刊 四六判上製356頁 定価 本体2,500円+税
2022年10月25日頃から全国書店・ネット書店で発売予定


ゾンビは悪ではない。悪を映し出す鏡なのである。

遠藤徹『ゾンビと資本主義』第1章より抜粋

  オタワ大学のジェンダー学者アーリャ・アーマッドによれば、ゾンビはアップデートされた吸血鬼である。著者はジュディス(ジャック)・ハルバースタムの「『血縁ではなく言語によって産み出された』想像の共同体」が怪物であるとする定義を引き、そもそも中世ヨーロッパと関連づけられていた吸血鬼は、産業化された資本主義のアメリカで徐々に連続殺人鬼に置き換えられたという。そして、ポスト産業資本主義、後期資本主義において、それはグローバル化されたゾンビの群れへと置き換えられた。ゾンビは非個人化された大衆であり、それが現代ホラーの主導的な「怪物的語り」なのだとする。
 つまり、吸血鬼は、連続殺人鬼を経てゾンビへとアップデートされたのであり、結果としてゾンビは「帝国主義的、植民地主義的拡張」がもたらす数多くの脅威を濃縮し、人種差別や階級特権への脅威をもそこに含み込んだのだという。
 あるいは、サラ・ジュリエット・ラウロはゾンビは「鏡」であるという。ハルバースタムは、「ゴシックは、同一性の反復を通して差異の生成を行う」と述べているが、そのような機能をもつものをレベッカ・シュナイダーは「反映機械(refl­ection machines)」と呼んでいる。たとえば、ゾンビはアフリカ系黒人、ホームレス、薬物中毒者、精神病者をモンスターとして表象してきた。「鏡」としてのゾンビは、①歴史的な、あるいは生のさなかでの「暴虐的で不正な」人々の怪物性を反映すると同時に、②ハイチ人が受けたひどい仕打ちを、抑圧者に投影し、偏向し、投げ返すことを可能にするという。つまり、先進資本主義国が、後進国に対して行ってきた暴虐の歴史を映し出す鏡となるわけだ。

 ゾンビを「鏡」として捉えた場合、それが映し出してきたものをもう少し丁寧に捉えなおしてみよう。
 ジョージア大学のマーティン・ロジャースは、ゾンビ映画は、SF的な技術的不安、パラノイア的な社会的・個人的不安などが、身体的不安に重ね合わされた不安のハイブリッドだという。ゾンビが身体をもつことが実は重要なのである。なぜなら、ゾンビは死んでいるはずなのに、脳を撃たれたり、焼かれたりするともう一度死ぬからだ。つまり、身体的限界をもっているのであり、その点でわたしたちと同位相にある。わたしたちがゾンビに感じる不快感とは、わたしたち自身の身体機能に関する「投影的不快感」にすぎないとネヴァダ大学の哲学研究者デイヴ・バイゼッカーは述べている。
 身体をもつ鏡であるゾンビは、20世紀の前半のヴードゥーを主題とする映画においては、カリブ(特にハイチ)の植民地支配のイメージ、そして大恐慌下の労働者階級のイメージを映し出した。
 1942年のウィリアム・ボーディン監督作『リヴィング・ゴースト』になると、『ホワイト・ゾンビ』以降の特徴だったゾンビの黒人性やヴードゥー的な起源が抹消され、世界大戦の時代を反映して、ゾンビは新しい悪を表現した。たとえば、外部者の国家への浸透や、独裁者による群衆操作や、共産主義の洗脳や、邪悪な技術や科学への関心などである。
 60年代末から始まるロメロの映画では、ゾンビ化をもたらす疫病は、悪というより革命と似たものとして描かれる。当時世を揺るがしていた同性愛、薬物中毒、ホームレス、帰還兵などの問題を反映しており、共産主義、ファシズム、マッカーシズム、愚かな消費主義、エイズ、性革命の寓意までさまざまな「生者」の葛藤が、ゾンビ化という形象を通して互いに置き換わっていく。

 そして21世紀になって、ゾンビは鏡としてさらに新しいものを映し出す。
 ひとつは怒り。
 それまで抑圧されていた怒りが噴出したのが21世紀だった。その口火を切ったのが9・11だった。
 湾岸戦争やイスラエルへの支持を通して、イスラム世界への構造的暴力を行使してきたアメリカに対する怒りが、テロとして表出した。
 それは極めて新しいテロだった。なぜなら、これほど大規模なハイジャック事件だったにもかかわらず、使われた武器はナイフやカッターという日常的な道具だったからだ。そして満タンの燃料を積んだ、日常的には人を運ぶ道具であった航空機が爆弾代わりに使われた。さらに、その飛行機が突っ込んだ先は、世界貿易センタービルという経済大国アメリカを象徴する建築物であり、日常的にビジネスに使われる場所であった。
 つまり日常生活を楽しむための道具や空間そのものが破壊の武器となり、破壊の象徴となったということだ。これ以後、慣習的な安全の物差しというものが壊れてしまったといえるだろう。このテロが破壊したものは、日常性への信頼だったのだ。
 日常的に接している親しい人間が突然牙を剝いて襲ってくるゾンビのイメージは、まさにこの日常性への信頼の崩壊と軌を一にしているといえるだろう。
 そして、資本主義社会そのものの内側にも怒りはあった。それが形象化されたのが、9・11の翌年にダニー・ボイルによって撮られた『28日後…』だった。ここで重要なのは、この映画で人々をゾンビ化するウイルスが、レイジ(凶暴性)・ウイルスと名づけられていることだ。ウイルスがわたしたちを怒らせるのではない。わたしたちの内側に潜んでいた、あるいは沸騰寸前だった怒りをウイルスが解放する。ボイルは、痙攣的な動きをてんかんの発作から、われを失い、全身から怒りや狂暴性を噴き出させる身体的なイメージを狂犬病やエボラウイルスから借用している。すでに怒りが感染者の内側で準備されていたことは、その発病の速度に明らかだ。感染後たった10秒から20秒での発現。感染者は不規則に、そして信じられない速度で走り、跳ね飛び、組み付き、よじ登り、強烈な殺人衝動をあらわにする。
 フロリダ大学でSFや文学、映画を研究しているテリー・ハーポルドは、いつ、どこから襲われるとも知れない不安を具象化してゾンビは速くなり、暢気でいられなくなると、人々は生死に関わるような警戒状態に置かれた登場人物に共鳴すると述べている。先行きの見えない不安に戦おののき、そして怒りを抱えた隣人の存在に怯え、さらに自らも怒りを潜在させているのは、まさにわたしたち自身だということである。

 だから、鏡としてのゾンビは悪ではない。悪を映し出す鏡なのである。
 たとえば、ロメロの映画には悪が存在しない。ゾンビ化をもたらす疫病は革命と似てすらいる。なぜなら、社会が破綻するということは、信頼できない権威者の失墜を、不平等な社会的秩序の崩壊を意味するからだ。社会の変容を望む、怒りを潜在させた人々、アフリカ系アメリカ人、マイノリティ、ホームレスなどといった人々。2020年、白人警官に8分46秒にわたって首を絞められて一人の黒人男性が死亡した事件で再燃したブラック・ライヴズ・マター運動を思い起こせば十分だろう。しかも、それだけではない。オキュパイ・ウォールストリート(OWS:ウォールストリートを占拠せよ)運動で噴出した、1パーセントの富裕層に支配され搾取されていると感じる、99パーセントの人々の怒りもそこにはある。鏡としてのゾンビが映し出しているのは、過去の歴史であり、同時に現在でもある、「暴虐的に不正な」人々の怪物性そのものなのだともいえる。支配者の暴虐性が庶民によって反復される。それが革命だ。ここに鏡のイメージが現れる。支配層の暴虐性が鏡に映されるようにゾンビとなった庶民によって反復され、社会という鏡そのものが割れる。その願望こそが、ゾンビ映画の眼目なのではないだろうか。

著者 遠藤徹(えんどう・とおる)
1961年生まれ。同志社大学グローバル地域文化学部教授。研究テーマは英文学、身体論、文化論など多岐にわたる。
評論著作に『溶解論:不定形のエロス』(水声社、1997)、『ポスト・ヒューマン・ボディーズ』(青弓社、1998)、『プラスチックの文化史:可塑性物質の神話学』(水声社、2000)、『ケミカル・メタモルフォーシス』(河出書房新社、2005)、『スーパーマンの誕生:KKK、自警主義、優生学』、『バットマンの死:ポスト9/11のアメリカ社会とスーパーヒーロー』(以上新評論、2017、2018)。また小説も執筆し、短編小説「姉飼」で第10回日本ホラー小説大賞を受賞、「麝香猫」で第35回川端康成文学賞候補となる。2022年、『幸福のゾンビ ゾンビ短編集』(金魚屋プレス)を刊行。


遠藤徹『ゾンビと資本主義』は2022年10月25日前後から書店に並びます。くわしい目次はこちら
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ウェルビーイングから遠く離れて──工作舎より

「ゾンビと資本主義」で検索すると、「ゾンビ化する社員」やら「日本をダメにするゾンビ企業」のような案件がヒットしてしまう昨今ですが、本書を一読すると「ゾンビってこんなにラディカルでアナーキーな概念だったんだ!」と認識を新たにできると思います。
近年、幸福や健康などを意味する「ウェルビーイング well-being」という言葉をよく耳にします。もともとは社会福祉の世界で使われていましたが、最近は「社員のウェルビーイングをめざす健康経営」などを謳う企業が増え、ビジネス用語化してきました。幸福や健康を求めることは人間として当然であり、そのための経済政策や制度設計はとても大事なことです。ただ、人によって受け取り方が曖昧な「ウェルビーイング」が普遍的価値として固定されることによって、何が健康で何が健康でないのか、何が幸福で何がそうでないのかが一定の基準で判定されるようになり、それに貢献するものは価値があり、そうでないものは価値が低いとみなされてしまうのではないか。そんな危惧も感じてしまいます。そんな「ウェルビーイング」の対極にゾンビがある、というより「ウェルビーイング」という価値観自体を無効化してしまうのがゾンビではないでしょうか。
以前、進化生態学研究者の深野祐也さんが「嫌悪の進化と社会の問題 虫嫌いから差別まで」という興味深いテーマでお話しされたコンシリエンス学会研究会のウェビナーを聴講しました。進化心理学の観点によれば、人間の基本感情の一つである「嫌悪」には、感染症を避けるための適応的機能があるそうです。それゆえ私たちは、死体、体液、嘔吐物、腐敗した食べ物など感染症リスクの高いものに対して「嫌悪」を発動するとのこと。また、嫌悪感情はともすれば「偏見」「差別」と結びつきますが、通常の排外主義と異なり、感染症嫌悪は外部だけでなく内部の人間も偏見の対象となるというお話でした(コロナ禍の数年を過ごした私たちは、そのことをよく知っていますよね)。
ゾンビは、見た目も作用も感染症リスクの象徴といえます。噛まれた人間は誰でもゾンビ化してしまうという点で、ゾンビは内部と外部の境界を撹乱する、共同体にとって危険な存在でもあります。にもかかわらず、人間はなぜゾンビがこんなに好きなのでしょうか。嫌悪を超えてゾンビに魅入られてしまう情動はどこから生じるのでしょうか。『ゾンビと資本主義』でその謎を解く鍵が見つかるかもしれません。(文責・李)

『ゾンビと資本主義』担当編集者の石原から、「ゾンビだけじゃなくヴァンパイアも狼女もNASA×スタートレックもあわせて読むべし」とのことですので、こちらもよろしくお願いします↓

一部品切れ本もまじってます。

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現代法医学の観点から吸血鬼の実像を解き明かす。新装復刊しました。

ウェルズ恵子編著『狼女物語』
『リリス』のG・マクドナルドの「狼娘の島」など、ヴィクトリア朝に始まる“魔性の女”の物語6編。

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