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現代社会でもサラリーマンの取り分は、すべて経営者のものとなるのか?

今日は、ラテン語法格言を取り上げます。ラテン語法格言で、以下のような気になる法格言がありました。

「奴隷によって取得されるものは、何でも、主人のために取得される。」

非常に気になるラテン語法格言でした。以前の当拙ブログで、マルクスの『資本論』を検討しましたが、そのとき、「奴隷制→封建制→資本主義」といった名前やシステムが変わっているだけで、現代社会においても、取り分が多い人と、取り分が少ない人というのが厳然と存在せざるを得ないという思想的根拠ともなりうるような、ラテン語法格言だからです。戸籍が良い人(=元・王族とか)は、取り分が多いほうに回れて、戸籍が悪い人(=何もない一般人)は、取り分が少ないほうに回るというのは、当然だとするラテン語法格言だからです。王族へのリスペクトというのが、すごく存在していることが見て取れます。
加えて、ラテン語法格言は、法学だけでなく、経済学や政治学的な話も包含されていると解釈してもいいことが見て取れます。今回、取り上げた、ラテン語法格言は、いわゆる法律の「価値規定」と言っても良い規定で、非常に興味深い、法格言です。この法格言を乗り越えるためには、相当な論理的な説得的な話を展開するか、相当な価値観の変容か、社会主義などへの体制変換などがないと、無理なのでしょうか。
こういう太古の昔に作られた法格言も、現在も、「法の継受と変容」という形で、脈々と、息づいていて、その思想性に反する法律や経済や政治のシステムが作れないとすれば、詳細に検討せざるを得ないというのが、現状です。
やはり、社会システムや経済システムに順張りがいいのか、逆張りがいいのか、悩みどころです。
ただ、このラテン語法格言も、現代社会においては、「組合」や「共有」という民法制度が認められているので、日本社会においても、すべてのことについて、その法格言通りに動いているとも言えないようです。ただ、現代日本社会では「組合」的なものは、マイナーな存在で、「株式会社方式」が、メジャーなものとなっています。
このブログの記事は、少しずつ書きためていければ、と思っています。
『資本論』に関する話は、当拙ブログの以下の私の記事も、ご参照して頂ければ幸いです。

また、現行の会社法制に関する、ちょっとした私の考えは、当拙ブログの以下の記事をご高覧いただけますと幸いです。

ラテン語法格言みたいなものが、裏の国家運営マニュアルとして、脈々として、中央省庁側で、生きているとしたら、現行法をいくら研究しても、いくら、いろんな学問分野に思索をめぐらしても、意味がないということになるような気がしますが・・・。

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