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たりない思い(第一章)/小説【創作大賞2024・お仕事小説部門】

【あらすじ】
 舞台はAIが人間の代わりにエンターテインメントを作り出すようになった未来。
 ナツ(藤堂菜月)は、AIが作り出した作品に”人間味”を足す仕事”ヒューマンエディター”として働いている。
 上司から出された課題をきっかけに、過去にAIによって奪われた”翻訳”に興味を持つ。

 AIと人間が作り出す作品の違いは何なのか。
 
 “翻訳”を愛する青年、今野の力を借りて課題に取り組むうちに自分の過去とも向き合うことになる。葛藤の末にナツが見つけ出した答えは……

 翻訳はAIに代えられる仕事なのか。
 エンタメがAIに奪われた世界を通して
 翻訳に焦点を当てたお仕事小説。


― プロローグ ―

 文字を目で追い、頭に入れる。
 頭の中で理解して、情景を描く。
 情景を文字に起こし、紙に書く。

 この時間だけが私を人間に戻してくれる。
 この時間だけは手放してはならない。

 私が人間のまま、あり続けるために。

― 1.日常  ―

「なんか最近そういうニュース多くない?」
「ああいう仕事続けていると、少し境界線が曖昧あいまいになるとかあるんじゃないの」
「給料が多少悪くても”人間味”がある仕事じゃないとやってられないよね」

 横断歩道で信号が変わるのを待っていると、隣から聞こえてくる会話に気を取られた。女子高校生だろうか。
 新しい4月が巡ってきて、少し浮足立っているような2人組。けれど、その間で交わされるのは4月を迎えられなかった大人のこと。
 まだまだ遠い未来にある小さな不安を吹き飛ばすように、彼女たちの会話の話題は次へと移り変わっていった。
 信号が変わり、みんなが一斉に歩き出す。私も足を交互に前に出して、横断歩道を渡る。前から歩いてくる人のルートを邪魔しないように、少し右によけて歩いた。横断歩道を渡り終えると、ちょうど信号が点滅して赤に変わる。

 小学校を卒業した。中学生になった。受験に合格して高校に入って、大学に入学した。会社にも入れて、なんとかうまくやっている。大丈夫、ちゃんとできている。そう見えているはずだ。
 だけど、いつも私のそばにある漠然とした不安。何か大事なものが欠けている気がする。体は前に進み景色が次々と移り変わってゆく間にも、自分の一部はどこかに取り残されているよう。何かも分からない大事なものは、今もどこかで見つけてもらうのを待っている。それが無いと私はずっと満たされないのに。

 さっき聞こえてきた2人組の会話が頭の中でリフレインする。
「また“飛び降りた”らしいよ」
 あのことを話しているわけじゃないことは分かっている。突然、自分たちの日常からかけ離れた物騒な言葉を聞いたら誰だって気に留めはするだろう。
 だけど私が感じるのは逆。いつも自分の奥にしまい込んでいるものが見つかってしまったような、そんな言葉だ。
 あれからもう長い時間がたった。ふとした瞬間に、忘れていたことに気づき申し訳なくなるほどに。けれど、その言葉によって一瞬で思い出される。
 あの子たちが話してたのは、きっと昨日都内であったことだろう。私が顔を知ることもないどこかの誰かの話だ。そんなことは分かっている。

 それでも、頭で想像される情景は――。
 あのビルの屋上にたたずむのは――。

― 2.過去  ―

 家の地下室には、現代では珍しいことに“紙の本”がたくさん置いてあった。父が祖父から譲り受けた本だという。棚の中にびっしりと収められたそれらは、どれも日に焼けていて、ページが破れているものも多くあった。地下室に入ると、いつもツーンと鼻の奥につくような匂いがして少し嫌だったけれど、同時に胸の奥の方が暖かくなるような感じもした。

 母にはあまりいい顔をされなかったが、父が地下室を開けるときには一緒になって本を読んだ。文字は小さいし、漢字ばかり。昔の言葉が使われていて、分からない所も多い。だけど、いつも電子書籍で読んでいる文章とは何かが違う。文字が身体になじむような感じがした。

 だから小学生の頃、歴史の授業で“紙の本”にみんなが驚いていた時も私はぜんぜん驚かなかった。
「うちには“紙の本”がたくさんあるんだよ」
 そう誇らしげに友達に話していると、クラスの中心的な存在である男の子が聞きつけて、「見に行きたい」と言ってきた。普段あまり話すことのない彼が興味を持ってくれたことに胸が躍る。 
 彼が話しだすと、いつも周りに人が集まってくる。その時も机に人が集まってきて、気が付いた時には彼を含めた数名のクラスメートが私の家に来ることになっていた。
 もう後には引けない状況だったが少し焦った。父は私以外の人を、あまり地下室に入らせていないようだったからだ。母が地下室にいる光景も思い出せない。
 私を置いて会話は進んでいく。教室には見えないルールが存在している。だから、この空気を壊してはいけない。体中から発される危険信号にあらがう術はなく、いつの間にかクラスメートが家に来ることを承諾していた。父には内緒のまま、私はクラスメートを連れていくことにした。

  地下室の扉を開くと、いつものようにツーンとした匂いがした。秘密基地を見せるような気恥ずかしさと誇らしさを感じていた。部屋に入ると、クラスメートはきょろきょろと部屋を眺め始める。
 “紙の本”を見たことがないのだろうか。触ってもいいのか悩んでいる様子の彼に、私は棚から取り出した一冊の本を渡した。本を受け取ると、彼は恐る恐る最初のページを開きパラパラとめくった。飛ばし飛ばしにページを開いては、文字の上に目を滑らせる。
 一瞬のようにも永遠のようにも感じられた時間。彼の口から出る一言目に、みんなが注目していた。最後のページまでたどり着くと、視線に気がついた彼が顔を上げる。
 一人の子がこう聞いた。
「どんなことが書いてあったの? 面白い?」
 とたん、彼は顔を真っ赤にして答えた。
「こんなの古くて読めないよ」 
 それを合図に、他の子たちも次々に「古いよね」「なんかちょっと臭いし」「汚れてる」とはやし立てる。 
 誰にも叩かれていないのに、ガツンと頭に衝撃が走るのを感じた。
 言い返す勇気はない。混乱した頭で、こう言った。
「そうだよね。こんなの無い方がいいよね」
 きっと鏡で見たら顔が赤くなっていることが分かっただろう。恥ずかしくて悲しくて、そこから一刻も早く離れたいような気持ちだった。
 やり場のない感情をどうしたらいいのか分からなかった。自分一人では抱えきれない感情。やり過ごすには、大きすぎる衝撃だった。

 だから、その日、父が家に帰ってくると衝動に任せて言葉が出てしまったのだ。
「あんな汚いの捨ててよ。恥ずかしいから」
 父は驚いていた。何の脈略もなく突然言われたのだから当然だろう。
 アッと思った。言ってしまったと。私が勝手に皆を連れてきたのだ。父に非はない。それまで抱えていた思いを声として吐き出して、スッと心が軽くなると同時に胸の奥底にドロッとしたものが沈殿したような感覚がした。
 父は少し考えるような素振りを見せた後、困ったような顔をしてつぶやいた。
「そうだね。古いものだから少し汚いかもしれないね。でも、人間として手放しちゃいけないものなんだよ」
 父の言った言葉の意味は分からなかった。
 それでも、これまでと同じように、父と一緒に地下室で本を心から楽しむことはもうできない。そう感じた私は、それから地下室に行かなくなった。

 数年後、父が亡くなった。
 母や親せきからは、フリョの事故で亡くなったと聞かされていた。
「なにも、あんな死に方しなくてもね」
「いろいろと大変だったって聞くよ」
 私はフリョの意味を正しくとらえられてはいなかったが、お葬式の場で聞こえてきたコソコソとした話し声からは、子供ながらにあまり良い雰囲気は感じ取れなかった。
 こぢんまりとした一軒家の畳敷きの葬式場。祭壇に飾られた、不自然なまでの父の笑顔の写真。スーツの大人たちが見つめる先にあるのは、窓も空いていない棺のみ。
 大人たちの見よう見まねで行った動作の意味も分からない私には、その棺に父が入っていることが到底信じられなかった。

 父の死因を知ったのは、クラスメートの口からだった。
「お父さん、精神的にマイッテ会社から“飛び降りた”って聞いたよ。辛かったね。いつでも相談のるからね」
 きっと大人が言っていたことを、そのまま口に出しただけだったのだと思う。親から、「かわいそうだから気にかけてあげるんだよ」とでも言われていたんだと思う。その言葉には重さを感じず、私の中にも意味のない記号として入ってきた。何を言われたのか分からなかった。だから、「うん」とか適当に返したような気がする。
 クラスメートは期待していた反応が私から得られなかったのか、すぐに自分の所属するグループに戻っていった。

  その日、学校から家に帰ると、母が何かを詰めた段ボールを運んでいた。
「こんなものがあったから、いけないのよ」
 泣いているのか、喉の奥が詰まっているような悲痛な声が聞こえた。
 初めて見る母の姿だった。なんだか見てはいけないものを見たような気がして、すぐさま部屋に駆け込んだ。

 母が段ボールに詰めていたのは、“紙の本”だった。
 父が大事にしていた“紙の本”だった。
 その時私の中で、ちゃんと父が死んだ。
 “飛び降りた”と言う言葉が、頭の中にすとんと落ちた。
 「行ってきます」と家を出たきり帰ってこない父がいつか戻ってくるんじゃないかと、心のどこかで思っていた。

 『人間として手放しちゃいけないものなんだよ』
 そうか、父が人間じゃなくなったから、手放すんだ。 
 理解した事実は全身を駆け巡り、涙として目からあふれだしていた。

― 3.現在  ―

 また新しい春が巡ってきた。心地よい春風に吹かれるテラス席では、親子連れやカップルがめいめいに食事を楽しんでいる。
「ナツは、ずっと今の仕事続けるの?」
「特に不満はないし、給料もいいからね。英語も生かせるし」
 そう答えると、サユは「そうだよね」と続けた。
「でも、私にはやっぱりきつかったな。なんだか、だんだん自分が無くなっていくみたいでさ。サービス業界に移ってよかったよ」
「わかる。二人とは業界が違うけど、うちは業務のほとんどが会議での判断だけだから、毎日何してんのか分かんなくなる」
 そう答えると、メイはデザートを選び始めた。
 入社してから二年目、サユの転職をお祝いするため、大学の同期三人で食事をすることになった。学生時代から、そんなに気が合うわけでもないのに気が付くといつも一緒に居るような関係だった。
 
 サユとメイとは大学の初回オリエンテーションで知り合った。他の新入生は入学前からSNSなどで連絡を取り合っていたのか、私が教室に入った時にはすでにグループが出来上がっているようで完全にアウェイな状況だった。出遅れたことに焦りを感じつつ教室のドアの近くに席を確保する。友達がいないと思われるのも居心地が悪い気がして、スマホをいじってごまかしていた。
 予鈴が鳴り、まもなくオリエンテーションが始まろうとしたとき、そこに駆け込んできたのがサユとメイだった。もうすでに席はあらかた埋まっており、私の横に空席を見つけると二人は急いで席に着いた。
 それからは早かった。オリエンテーションが終わるとメイがサユと私を誘って、ボランティア活動のサークルに見学に行くことになった。
 「どうせ入るなら、就活の時に有利なサークルにしなきゃ」というのがメイの誘い文句だ。流されるように3人は同じサークルに入った。
 サークルも学科も同じであれば、いつも一緒に居るのは必然だった。サユはしっかり者のように見えて繊細、メイは和やかに見えて、ちゃっかりしている。性格は異なるが、お互いの足りない部分を補い合うことで、いいバランスを築いていた。
 大学卒業をしてからは、メイはメーカー、サユはもうサービス業界に転職したが、新卒では私と同じエンタメ業界の会社に入った。それぞれの生活が変わり、学生時代のように頻繁に会うことはなくなったが、今でも何かある度に集まっては好き勝手に話をしている。

「ナツもおんなじのでいい?」
「うん、お願い」
 端末で注文をすると、数分と待たずに店員がパフェを運んできた。
「やっぱり、人間にサービスしてもらうのは嬉しいよね~。料理を作るのはロボットが早くて確実でいいけどさ」
 メイはさっそくパフェを口に運ぶと、頬を緩ませた。
「メイこそ、サービス業界が向いてたんじゃないの? 人と接するの得意なんだから。メーカーに行くって聞いた時はびっくりしたよ。機械に指示を出したら、人間がやることなんてほとんどないじゃない。企画だって今はほとんどがAIでしょう?」
 パフェをつつきながら、サユがそう尋ねる。
「だからいいんじゃない。会議はめっちゃあるけどリモートが基本だから、それ以外の時間は結構自由に使えるるんだ。就業時間が短くて給料もいいし、エンタメ中心の生活を送るには最適よ~」
 メイは器用にもパフェを口に運びながら答える。
「そんなに時間があっても何するのよ。エンタメが次々と生まれるって言ったって、ずっと受け身だと飽きてくるじゃん」
「飽きなんて来ない来ない~。もう最近はずっとアニメ見てる。おすすめに表示される作品は全部ドンピシャのキャラばっかりでさ。私の好みを完全把握してるの? っていうくらい。なんでエンタメ業界のAIってあんなに優秀なの?」
 パフェを食べながら聞き手に徹していると、メイから話を振られた。二人の会話はテンポが良く、聞いていると心地よいが、いきなり出番が回ってくるので気が抜けない。
「まあ、一番人間に近いAIを導入してるくらいだからね。いろんなニーズにこたえられるように、バリエーション豊富な作品を大量生産してるって感じ。それでも“人間味”はまだまだ改善の余地があるから、私たちも仕事に追われてるよ」
 そう聞くと、パフェを口に運んだスプーンを持ったまま、サユがせきを切ったように話し出した。
「ほんと。AIが作りだした作品を“人間味”っていう曖昧あいまいな部分で評価して、ヒューマンエディターが作品に合った“人間味”を足していくでしょ? それをずっと続けてるとね、作品と長時間向き合ううちにAIの思考が人間側に侵食してきてるような感覚があるのよ」
「確かに、サユが担当していた芸術作品なんかは、結構センスも必要だから大変だっただろうね。私のいる海外作品のほうだと、小説とか映画とか、あっちで作られた元の作品があるから、まだ正解が分かりやすいのかも」
 相槌を打ちつつ、私も続けた。
「ナツもサユも大変な業界に関わっていたのね。私のような優良顧客がたくさん待っているんですから、引き続き応援していますわよ~」
 メイが少しおどけて言った。もうパフェは残っていなかった。

― 4.再会  ―

 仕事は仕事。人に求められていることを、自分が持ちうる力で達成する。そうしたら自分の価値も認められ、生きていけるだけのものが得られる。  
 私が働いている会社は、音楽や芸術、小説までエンターテインメントを何でも手掛ける企業だ。とはいっても、私たちがそうしたエンタメ作品を作っているわけではない。エンタメの大量生産、大量消費が叫ばれる現代においては、AIが作品を作り出している。その作品を人間に受け入れられやすいように“人間味”を足して完成させるのが、私たちヒューマンエディターの仕事だ。その中でも、海外のAI作品を、AIによって日本語に変換し、そこに“人間味”を足す仕事を私は担当している。
 この仕事を選んだのは、私が持っているものと会社が求めているものがたまたま合っていたから。英語がそこそこできて、社会に対する貢献への熱意がそこそこあった。
 決められた仕事の中にルールを見出して、流れるように働く。この時間は何も考えることが無くて気楽だ。特にやりたいことでも好きなことでもなかったけれど、大きな問題がないのだから、それでいい。

「藤堂、ちょっといいか。手を止めさせて悪いが、会議室で話したい」
「はい、今行きます」
 いつも通り自分のデスクで業務に取り組んでいると、上司である桜庭さんから声をかけられた。
 作業途中だったファイルを保存し、パソコンを閉じる。会議室に入ると、ドアの近くの席に着いた。
「二年目ともなると、だんだんと仕事に慣れてきてコツも掴んできたころだと思うが、どうだろう」
 業務上のミスがあったのかと思い身構えていたが、そうではないらしい。何が聞きたいのだろうかと探りつつ、ナツは答える。
「はい。一年目よりは量もこなせるようになっていると思います。ヒューマンエディターとして足したほうがいい“人間味”も、感覚で分かるようになってきた気がしてます」
 桜庭は少し考えると「そうか」と言い、こう尋ねた。
「感覚で分かるか。藤堂は本を読んでいるか?」
「はい。表現を増やすため、幅広いジャンルの電子書籍をよく読んでます」
 次の仕事内容の相談だろうか。私が得意な分野を聞かれているのであれば、どういったジャンルの本を読んでいるのか伝えたほうがいいかもしれない。そう思っていると、桜庭が言った。
「電子書籍じゃない、“紙の本”だ」
「“紙の本”ですか?」
 拍子抜けした。効率を重視した働き方をしている桜庭さんが、非効率な“紙の本”の話をするなんて。
 ナツが驚いているのを見ると、続けて言った。
「もちろん、他のエディターが手掛けた作品を電子書籍で読むのも勉強にはなる。だが本来、本は人間が0から生み出してきた。今じゃ、いくつかの項目を設定したらAIが勝手に作品を作ってくれる。それをエディターが“人間味”を足すことで『はい、本です』とやってるが、そこにあるのは本当の“人間味”じゃないと思うんだ」
 信頼していた上司の口から出てきた言葉はヒューマンエディターの仕事を否定しているようにも感じて混乱した。同調するのもおかしい気がして、疑問に思ったことをそのまま尋ねる。
「じゃあ、私たちがやっていることは一体、何なんでしょうか?」
 ナツの反応に対して桜庭は少し口ごもる。両手を組み、指を動かすような仕草をしながら、言葉を選ぶように続けた。
「ああ、申し訳ない。言い方が悪かった。ヒューマンエディターとして藤堂はよくやってくれている。先に入った他の奴らとそん色がないくらいだ。だが、本当に必要なのはヒューマンエディターの作品に近づけることじゃない。一から人間が作ったかのように“人間味”を調整することだ。だからこそ、人間が一から作り上げた“紙の本”を読んで本当の“人間味”を感じ、表現の幅を広げてほしいと思っている」
 そう言うと桜庭さんは自分のパソコンのキーボードを叩いた。私は、まだ桜庭さんの言わんとしていることが掴みきれず、その先の言葉を待った。
「今、藤堂に住所を送った。その場所に行ってきてほしい。そこであれば“紙の本”が読めるから。今日は勉強してきてくれ」

 人間が0から作り出した作品は、構想が未熟で正確性に欠けるものが多い。一つの作品を作り上げるために時間とお金がかかりすぎるため非効率である。ターゲティングが不十分であるため、顧客が求めているものと異なる作品に触れてしまう可能性がある。
 そういった評価ばかりを見聞きしてきた “紙の本”。今更、そこから何を学べと言うのだろうか。“人間味”とはAIが作り出した作品を、人間がより楽しめるように工夫するものであって、0から人間が生み出すものじゃない。文章であれば、こういう表現のときにはこういう文末に変える、助詞を変える、文の並びを変える。そういったある程度のパターン化がされてきたはずだ。ヒューマンエディターになるうえで、全員がそうやって教育されてくる。
 だから、人間がいま求めている“人間味”は、そういうパターン化されたものであって、データ保有量の少ない人間の脳から出てきた表現なんて不十分なものはAIの作品にとって邪魔になるだけ。
 AIが作り出す作品は、触れた人に特定の感情を抱かせ、人生に対して幸福感を感じさせる手伝いをする。それによって社会に貢献する精神が保たれ、労働生産性が上がり、国の成長へとつながる。
 そう教えられてきたし、納得もしていた。だから私は今ここで働いている。なのにどうして、桜庭さんは急に前時代的なことを言い始めたのだろうか。
 たくさん聞きたいことはあった。
 けれど、桜庭さんは私が尋ねようとしたのを遮り、半ば私を部屋から追い出すように言い去った。
「とりあえずそこに行ってみてくれ。それでも意見が変わらないのならば、それでいい。でもな、ここで長く働いてると、なんだか少しずつ整えられていく感じがするんだ。俺もそうだ。うまくは言えないが、そんな感覚がある。だからこそ、ヒューマンエディターとしての“人間味”だけじゃなく、本当に人間から生まれたものに触れておいてほしい。人間はAIではないんだ」

  電車を乗り継ぎ、目的地の最寄り駅に着く。階段を上り地上に出ると、数分も歩かない場所に図書館はあった。
 国の主要地にあるなんて。確かデータセンター自体は別の場所にあったはずだ。電子書籍が普及しているのだから図書館だって別の場所に移転してもいいだろうに。
 建物の中に入ると、中は閑散としていた。インターフォンはなさそうだ。受付でパソコンと向き合う女性に声をかける。
「あの、すみません。よろしいでしょうか」
「こんにちは。図書館のご利用でしょうか。登録はされていますか?」
 そうか、図書館を利用するには事前登録が必要なのか。「まだです」と伝えようとすると、別のスタッフから声をかけられた。
「藤堂さんでしょうか? 桜庭さんよりお伺いしております。私、ここの職員の今野と申します」
 耳の上で短く整えられた髪型は、普段オフィスで見ている同僚ほどはピシッと決められていないラフなスタイル。白いシャツに薄手のジャケットという清潔感のある服装だ。同い年くらいだろうか。二十代前半くらいに見える。
「はじめまして。私、藤堂と申します。今野さんは桜庭のお知り合いでしょうか。把握しておらず失礼いたしました」
 今野さんはなぜか少し驚いたような顔をした後、女性スタッフに何かを伝え、関係者と書かれたカードの付いたホルダーを受け取った。
 そのホルダーを私に手渡し、首から下げるよう促す。
「いえいえ。こちらこそ、突然失礼しました。桜庭さんとは仕事の関係で知り合いまして、たまに今回のように会社の方を連れてきてくださるんです。今日もこれまでの皆さんと同じように、館内を案内できればと思っているのですが、いかがでしょうか?」
 なるほど。図書館に行くよう言われたのは私だけではなく、桜庭さんにとっては新人を育てるための慣習みたいなものだったのか。
 あまり仕事の出来が良くなかったのではないかと不安に思っていた心が少し軽くなる。それと同時に、案内してくださる方がいるのであれば、先に伝えてくれればいいのにと、いぶかしげに思った。
「お仕事に差し支えがないようでしたら、ぜひお願いしたいです」
 その答えを聞くと「もちろんです」と言い、入口の方へと歩みを進めた。

 カードを機械にかざしてゲートを抜け、館内に入った。天井が高く、部屋が広々として見える。しかし、本は置いておらず、代わりにパソコンがずらりと並んでいた。想像していた光景とは異なっていて驚く。
 説明によると、書庫に入ることができるのはスタッフのみで、利用者はパソコンから利用申請をすることで本を取り寄せて手元で閲覧することができるらしい。今回は特別に書庫内を案内してもらえるということで、お言葉に甘えさせていただくことにした。
 
 書庫には所狭しと棚が置いてあり、そこに本がずらりと並んでいた。棚の間を、ロボットが器用に行きかいしている。利用申請が入ると、ロボットがお目当ての本を探り当てて利用者のもとに届けるという。
今野さんは、私の業務に関連する分野を中心に書庫を案内してくれた。
「藤堂さんは、海外作品を担当していらっしゃるのですよね。小説も扱っているのですか?」
「はい。幅広く海外作品を担当しているのですが、最近は小説が多いですね」
「それは、“人間味”が一番必要とされる作品ですね。では、よろしければ翻訳書のほうも案内させてください」
「はい、お願いします」
 ナツはそう答えつつ、久しぶりに聞いた“ホンヤク”という言葉に懐かしさを感じていた。

 初めて聞いたのはいつだったか思い出せないが、“ホンヤク”という概念を“翻訳”という昔の仕事として認識したのは大学生のときだった。
 英語は得意だったけど、話すことに比重を置いた授業や試験が多かった。それに、海外の作品はAIが日本語に変換した後にヒューマンエディターが仕上げたものが手元に届いていたから、あまり英語の作品という意識もなかった。
 だから、英語の文章を人間が一から日本語に翻訳する作業は、とても新鮮に思えた。
 それと同時に、とても無意味にも思えた。ヒューマンエディターが一部を担っているとはいえ、今では完全にAIの領分だ。この仕事が現代に残っていても、社会から必要とはされないのだろう。
 ただ、“ホンヤク”という言葉の響きはどこか懐かしくて、聞くたびに胸の奥がきゅっとした。

 翻訳書の棚には、いろんな言語から翻訳された本が並べられていた。中には歴史の授業で取り上げられたことがある有名な文学作品も多くある。
 桜庭さんには、本当の“人間味”を見てくるよう言われたからな。これまでに電子書籍で読んだことがある作品のほうが比較できて良いだろう。
 そう思い、一冊の本を手に取った。

「館内のみの貸し出しとなりますので、よろしければ読書スペースのほうでゆっくり読んでください」そう言って案内された読書スペースで、図書館の案内はお開きとなった。
 今野さんにお礼を告げると、読書スペースの一角に座り、本のページをめくる。
 物語の内容は昔読んだもの、そのままだった。
 男の子が仲間と困難を乗り越えて成長し、悪を倒す物語。今でも子供たちに人気がある古典的な構成だ。
 けれど、一度読んだことがあるはずなのに次はどうなるのだろうとワクワクする自分がいる。なぜか表現が心になじむ。
 きっと前に読んでから時間がたっていること、文体が古いことがそう思うのだろう。現代では、どの作品も時代に合わせた表現に変更される。そっちの方が、現実で使える表現が学べるし、理解をするのに効率的だ。
 古い文体をヒューマンエディターに取り入れるわけにはいかないし、この作品をチョイスしたのは間違えだったかな。
 そう思い、追加で何冊か本を利用申請した。

 その後、数十冊に目を通したが、AIよりも優れていると分かる点は見つけられなかった。
 閉館の時間が近づき、窓からは夕日が差し込んでいた。借りていた本を返却口に返し、来た時に訪れた受付へと向かう。シフト制なのだろうか。入場のときとは違うスタッフが受付にいた。
「すみません。こちらをお返ししたいのですが」
 カードを掲げて、スタッフに話しかけた。
 関係者と記載されたカードを返却し、名前を聞かれたので答える。スタッフは「こちらでお待ちください」と言い、奥の部屋に消えた。

 少し待っていると、先ほどのスタッフの代わりに今野さんが出てきた。慣れない場所で、知った顔の人と会えるとホッとする。
「お疲れ様です。読みたい本は読めましたか」
「案内していただいたおかげで、たくさんの“紙の本”に触れることができました」
「それは良かったです」
「桜庭から出された課題への答えは、まだ出ていないんですけどね」
 これまでも今野さんのもとを訪れた社員がいると言っていたから、もしかしたら何かヒントがもらえるんじゃないかという淡い期待があった。
「そうですか。では、もしよろしければ、少しお時間をいただけますか?今日、“紙の本”を読んで思ったことを私にも教えていただきたいんです」
 願ったり叶ったりだ。お時間をいただいてしまうのは申し訳ないが、まだ何も収穫が得られていない私にとっては嬉しいお誘いだった。
 迷わずに「ぜひ」と返事をした。

 図書館は閉館の時間となり、カフェテリアのスペースには私たち以外、誰もいない。普段、調理場が見えるであろうカウンターには、すでにシャッターが下りていた。掃除も済んだ後なのか、一部のテーブルと椅子が部屋の脇に寄せられている。
 私の座るテーブル席に今野さんが紙カップに入ったコーヒーを持ってきてくれた。
「お時間いただいて、ありがとうございます」
「いえ、こちらこそ。本当に行き詰まっていたので、ありがたいです」
 電気は消灯の時間を過ぎたのか、部屋を照らすのは大きな窓から差し込む赤い夕陽のみ。コーヒーの香りが、二人の間を持たせてくれる。
 今野さんが一口コーヒーを飲むのに合わせて、私もコーヒーをいただいた。
 カップを机に置くと、今野さんは話を始めた。
「今日は翻訳書を中心に読まれていたのですか?」
「はい。翻訳書も読みましたし、日本の小説にも目を通してみました」
「そうですか。読んでみて、どう思われましたか」
 少し考えてから答える。
「桜庭には“紙の本”から本物の“人間味”を学んでくるようなことを言われてきたんです。でも、翻訳書を読んでも日本の小説を読んでも、AIよりも優れている点が全然わからなくて」
「どういった点でAIのほうが優れていると思うのですか?」
 続けざまの質問に戸惑いつつ、言った。
「やはり、過去に書かれた作品だと、使われている表現が古くて読みにくいですし、必要のない情報が多くてまどろっこしいと感じます。現代で求められているエンタメは分かりやすく正確なことです。だからこそ、AIが作っている作品が最適で、それを邪魔しない範囲で“人間味”を足すのが私たちの仕事だと思うんです」
 今野さんは少し考えるように口元に手を当て、私の目を見る。
「藤堂さんはAIの作品が完璧であれば、“人間味”も必要ない。そう考えているのですか?」
 今野さんの言葉に気押され一瞬たじろいだが、何か言わなければと思い、慌てて答える。
「いや、そこまでは言いませんが、AIが人間にとって効果的な作品を作っているのに、それを“人間味”という優先順位の低い要素で邪魔する必要はないのかなって」
 普段、深く考えていないことを聞かれて戸惑った。口から支離滅裂な言葉が出ていないか不安になる。
「藤堂さんにとって、“人間味”とはなんでしょう?」
 休む間もなく与えられる質問に対して、必死で頭の中の正解を探す。
「“人間味”はAIが作り出した作品を、人間が消費しやすいように付け足すもので……」
 返答に迷っていると、今野さんが続けた。
「藤堂さんにとっては?」
 私にとっての“人間味”。
 思い出されるのは、教科書に載っている文面や誰かから聞いた話。どれも借りてきた言葉ばかりで、私自身が思う“人間味”なんて頭のどこにもなかった。
 常に良いとされるのはAIが決めたことで、社会にとって効率的なことだ。だから、私もそう思うのが正しいんだって。
 そう頭で思うと同時に、膝の上に置いていた手の甲にしずくが落ちた。知らないうちに、自然と涙がこぼれ落ちていた。鼻の奥がちゃんとツーンとしているのに、私じゃない誰か違う人が私の中で泣いているような不思議な気持ちがした。
 今野さんは少し慌てるそぶりを見せたが、何も言わなかった。私の涙が止まり、気持ちが落ち着くまで、ずっとそこで待っていてくれた。

 日が完全に落ちると、今野さんがカフェテリアの照明を付けた。
「申し訳ありません。一方的にいろいろ聞いて不快な気持ちにさせてしまいました」
「いえ、こちらこそ、突然涙が出てしまって。お恥ずかしい限りです」
 そう言うと、今野さんが頬をかき、目線を少しそらして話す。
「実は私自身、翻訳にとても興味がありまして、今日いらっしゃるのが海外の作品を担当されている方だと知り、少し気分が高ぶっていたんです。自制が効かず失礼なことをしてしまいました」
 私と同じくらいの年齢に見えたから、ひと昔前の仕事について興味を持っていることに、少し驚いてしまった。
「翻訳にですか?」
「はい。それで今、翻訳書の管理担当として、ここで働いているんです」
 そう聞くと同時に、先ほど発した言葉の数々を思い出した。
「そうなんですね。それなのに私、すごく失礼なことを言ってしまって」
「いえ。今は藤堂さんの考え方が主流ですし、私自身もそこは割り切って仕事をしているつもりです。ただ、完全に翻訳というものが、この世からなくなってしまうのは悲しい。だから、僕だけは翻訳を次の世代につなげられるように、大切にしよう。そう思っているんです」
 少し恥ずかしそうに、でも誇らしそうに笑って答えた。
 本当に翻訳が好きなんだな。そう思い、聞いてみたいと思った。
「今野さんは、翻訳のどういったところが好きなのですか?」
 今野さんは少しだけ悩んで、答える。
「人間がやっているところ、かな。本を選んでいるときに、同じ作品の翻訳書がいくつもあることには気づきましたか?」
「ああ、そういえば。いくつか本があって、どれを選べばいいのか悩んだような気がします」
 返事を聞いた今野さんが、うなずく。
「僕もいつも悩むんです。どの本にしようって。全部、違う人間が翻訳している本だから。それぞれ少しずつ違う。時代にもよるし、その人が誰に向けて書いているのかによっても違う。だから、同じ作品でも全く違う作品のように思えてワクワクするし、直接語り掛けられているような気がして、心にしみるんです。」
 私が翻訳書を読んで浮かんできた気持ちの理由を説明してもらっているようだった。
「たしかに。昔読んだことがある作品のはずなのに、なぜか違う作品を読んでいる気分になりました。すぐ隣で語られているような近さがある、みたいな」
 今野さんがうなずいた。
「そういうことなんじゃないですかね。桜庭さんが伝えたかった事って」
 まだ自分の考えに落とし込めてはいないが、取っ掛かりがつかめた。そんな気がした。
「ありがとうございます。なんだか少し分かったような気がします」
 今野さんは、それならよかったと、微笑んだ。
 窓の外はもうすでに、月が輝くばかりの暗闇で満ちていた。
 

― 5.変化  ―

「おはようございます。昨日はありがとうございました」
 翌朝、桜庭さんが出社すると、すぐにデスクへ赴いた。 
「おう。どうだった?」
「普段は“紙の本”を読まないので、新しい発見があり、勉強になりました」
「それで、何か仕事に活かせそうかい?」
 桜庭さんに問いかけられる。
「そうですね。まだ、どう仕事に活かしたらいいのかはわからないのですが、何が違うのか、みたいなことは分かったと思います」
「そうか。それが分かっただけで、儲けもんだよ。俺なんかじゃ、もう新鮮な気持ちじゃ見れなくて、文章をエディットしたくなるからな」
 桜庭さんは、笑って言った。
「そういえば、今野さんという方にお世話になりました。いろいろと相談にのってくださったんです。桜庭さんが、頼んでくださったんですよね。ありがとうございます」
 桜庭さんは少し不思議そうな顔をした。
「今野か。珍しいな。いつもは上谷あたりが担当してくれるんだが。まあ何にせよ、良かった。今日から、また頼むぞ」
 私は何が珍しいのだろうかと思いつつ、「はい」と返事をした。

  なんだか、いつもより進みが遅い。
 十二時前になると、他の社員がちらほらとデスクから離れてランチを食べに行く。十二時を過ぎると、食堂が混雑して座る場所がなくなってしまうからだ。
 私も早くランチを食べに行きたいところだが、目標としていた分が終わっていない。いつもと同じ分量を設定したはずなのに。

「お昼行かないの?」
 パソコンの画面と時計を見比べながら作業を続けていると、すぐ近くに人が立っていた。隣の部署で働いている同僚のサチだ。
「早くいきたいんだけど、なんか今日は進みが遅くて」
「へえ、珍しいじゃん。なんか買ってきてあげようか? もう食堂は混んでるでしょ」
 休憩スペースの自販機で買ったであろう紙パックのオレンジジュースを飲みながらサチが言った。
「ううん。いったん切り上げるよ。今日はコンビニ?」
「いや。最近できた、おにぎり専門店がマイブームでさ。一緒に行く?」「行く。ちょっと待って」
 作業中の画面を保存し、スマホをつかんだ。

  会社の正面口を出て大通りを進み、路地に入ったところにおにぎり専門店はあった。この店を目当てに訪れなければ見過ごしそうな立地だが、すでに何人かスーツ姿のお客さんが並んでいた。
「できたばかりだけど、もう人気店なの。人間が握ってるのよ。珍しいでしょ」
 サチの言う通り、ガラス張りのお店の中ではプラスチック製の手袋をつけたスタッフがおにぎりを握っていた。テイクアウトのみのお店で、カウンター越しに注文を受け付けているようだ。
「なんか不思議。お米を握るからおにぎりっていうんだろうけど、あんまり人が握っている光景って見ないから」
「まあ、今ではお店でも家でも機械で作るからね。そういう希少価値の高さもあって人気なんじゃないの」
 列が前に進むのに合わせて、前の人との間を詰めながらサチは「そういえば」と続けた。
「昨日、午後から外出だったの?午前中会ったのに午後は見かけなかったけど」
「うん。桜庭さんに図書館へ行ってくるよう言われてさ。“紙の本”を読んで勉強するようにって」
「いいなあ。やっぱりナツの部署はアタリだよ。こっちの部署はいつも仕事仕事で、パソコンの前から離れられないもん」
「本当の“人間味”を見てくるよう言われたの」
 驚いたような仕草をするとサチは言った。
「何それ、めんどくさくない? 小学生の宿題みたい」
 ナツは少し首を振り、答える。
「結構勉強になったよ。それにね、“翻訳”に詳しいスタッフの方に色々教えてもらえて良い機会だった」
 サチは「何だっけ、ホンヤクって」と言うと、スマホで検索をかけた。
「ああ、これね。学校で習ったことあるやつだ。ご年配の方だったの?」「いや多分、私と同じくらいの年齢の男の人。なんかすごいよね。他の人とは違う大事なものを持ってる人って」
 “男の人”と言うとサチは少し目を輝かせた。
「え、いいじゃん! 格好いい人だった?」
「まあ、格好いいのかな?」
 そんな他愛のない話に花を咲かせていると、目の前に注文口が迫っていた。
「やば、何のおにぎり頼むか決めてない」
 サチは慌ててメニューを覗き込む。私も迷った結果、おかかと梅。サチは昆布とツナを頼んだ。
 デスクに戻ってから食べたおにぎりは、お米の一粒一粒がふっくらとしていて、優しい味がした。きっとまた行こう。

  パソコンを開き、現実と向き合う。
 お腹がいっぱいで、頭が少しほわほわする感覚があるが、遅れを取り戻さなければならない。今日のノルマと残りの時間を確認して、作業に取り掛かった。

「なんで、終わらないの?」
 明らかにペースが落ちている。いつもの自分の分量は毎回、時間を図っているから把握している。
 時計が定時を過ぎ、ちらほらと周りの社員が帰っていく。昨日、作業に取り掛かれなかった分、今日のノルマは絶対に片づけなければならない。締め切りギリギリという訳ではないが、ここで取り戻さないと後が大変になるのが見えている。
 少し前のめりになり、画面に食い入るようにして作業に集中した。

「やっと終わった」
 時計を見ると、すでに定時から二時間が過ぎていた。
「ほんとに何で」
「なにが?」
 独り言を言っていると、突然上の方から声が降ってきた。
「先輩、驚かさないでくださいよ」
 後ろに立っていたのは、一年目に教育係を担当してくれた七瀬さんだった。品のいい茶髪を一本にまとめたスタイルで、ベージュのスーツを格好よく着こなしている。自分のタスクだけでなく周りの人にも気を配って仕事をする姿にはいつも憧れる。
「残業なんて珍しいじゃん。どうしたの?」
 ディスプレイをのぞき込むようにして七瀬さんが言う。
「なんか今日、調子がでなくて。いつもより進みが悪かったんです」
 合点がいったように七瀬さんは、うなずいた。
「昨日、桜庭さんに図書館行くよう言われたでしょ。恒例のやつ」
「やっぱり恒例なんですね」
 七瀬さんは笑いながら続ける。
「それが原因だよ。全体の進捗を管理してるとさ、たまに誰かのスピードが落ちてるのが分かるの。体調が悪いか、天気が悪いか、プライベートや仕事で何かあったか。原因は人によってそれぞれだけど、絶対に皆スピードが落ちる時があるの」
 七瀬さんは「わかる?」と聞くと続けた。
「“紙の本”を読んだ後よ。私が進捗管理するようになってからの新人は皆そうなの。でも、一過性のものだからあまり気にしないことね」
 皆そうなんだ。少しだけ安心した。
「そうなんですね。いつもだったら、すぐに判断できるところで少し悩んだり、手が止まったりすることがあって、変だなと思っていたんです」
「調子を取り戻すまでは、少し回す量を調整するから、焦らず取り戻していってね。まったく、桜庭さんも分かってるはずなのに、この慣習を辞めないのよね」
 七瀬さんの言葉が、焦りと不安を吹き飛ばしてくれる。
「ありがとうございます。早く調子を取り戻せるように頑張ります」
 そうお礼を告げると、七瀬さんは言った。
「藤堂さんのエディットは正確だって評判なんだから。惑わされずに自信をもってね」
 前のエディットに戻せるように、調整していこう。
 そう心に決めて、家路についた。

 調子が全く戻らない。
 悩むこと一週間、とうとう七瀬さんから桜庭さんにお言葉が入った。
「桜庭さんが余計な事をしたせいで、藤堂さんの調子が崩れているようなのですが、こういった可能性も視野に入れて送り出したんですよね?」
 そういわれた桜庭さんは、七瀬さんに頭が上がらないと言った様子であった。私の調子が戻らないばかりにと、申し訳なくなる。
 それに気づいたように七瀬さんが言った。
「藤堂さんは気にする必要ないのよ。桜庭さんの指示だったんだから」
 桜庭さんは、七瀬さんに詰められて肩を縮こませていた。
 私だって一週間、ただ毎日仕事をしていたわけじゃない。調子を取り戻すためにいろいろと試してみた。電子書籍をたくさん読んだり、エディットルールを一から復習したり。それでも、パターン化してこなしてきた前のやり方には戻れなかった。
「いっそのこと、自分に合った手法を作っていくのはどうだろうか。前のやり方に戻すんじゃなくて」
 桜庭さんが、おずおずと顔を上げて言った。
「AIが作った作品に、わざわざ人間が手を加えるのは、人間が手掛けたような親しみやすさを持たせるためだ。なのに、最近は“人間味”のエディットルールまでできて、それじゃあAIがやっていることと変わらないじゃないか」
「それじゃあ、どうするんですか?」
 七瀬さんが尋ねると、桜庭さんが私の方を向いた。
「藤堂。君の仕事に影響が出ているいうことは、“紙の本”に触れて、何か引っかかることがあったからじゃないだろうか。そこを突き詰めて考えて、自分の“人間味”のスタイルを構築していくのもいいんじゃないかと思っている。ヒューマンエディターの仕事はAIの進化と共に日々更新が必要だ。まだ仕事に染まり切っていない藤堂だからこそ、見えてくる視点もあるだろう。どうだ、やってみないか?」
 今のままずっと調子を取り戻せないのも申し訳ないし、何かを期待してもらっているのであれば、受けたほうが良いのだろう。
 けれど、私が担当する分の仕事の遅れが気になる。ちらっと七瀬さんのほうを見た。
 七瀬さんがため息をつく。
「分かりましたよ、桜庭さん。一週間程度であれば、藤堂さんの分はカバーできます。言っときますけど、藤堂さんが少しでも外れるの、結構な痛手なんですからね」
 私の方を見て七瀬さんが続けた。
「藤堂さん。申し訳ないけど、桜庭さんの無茶ぶりにつきあってあげて。元のスタイルに戻すでも、新しいスタイルを見つけるでも、自分で決めてくれれば大丈夫だから」
 私が返事をすることなく、方向性が決まってしまったようだ。であれば、その期待に応えるしかないだろう。
「分かりました。でも、具体的にはどう取り組んだらよいのでしょうか。せめてヒントか何か頂けると嬉しいのですが」
 桜庭さんと七瀬さんはお互いを見合うとこう言った。
「現場百回じゃないか?」
「そうね」

  二人に送り出されるようにして、私はまた図書館に来ていた。今回は受付で一般の利用者登録を行って入館する。
 前回来た時よりも、さらに利用者の数が少ない気がする。パソコンだけがいくつも並んでいる風景に、より物足りなさを感じた。
 とりあえず、前回来た時と同じ本を読んでみよう。幸いなことに、今日は電子書籍用の端末を持ってきている。翻訳書や日本語の小説を現代の電気書籍と比較してみたら、何が自分の中に引っかかっているのか分かるかもしれない。そう思い、前回と同じ本を取り寄せることにした。
 パソコンに向き合い、翻訳書と日本語の小説を選択する。そういえば、今野さんが翻訳書は複数の翻訳者のバージョンがあるって言ってたな。そう思いだしながら、同じタイトルの本を追加した。取り寄せの手続きが完了し、後は待つだけ。

 三分ほど待つと、取り寄せ用のロボットがやってきて、依頼した本が手元に届いた。どうやら席まで運んでくれるらしい。前回来た時に利用した読書スペースへ向かうことにした。
 私が歩くと、その後ろをロボットが付いてくる。このタイプのロボットはレストランなんかでも配膳ロボットとして使われているが、本棚の幅を考慮しているのか横幅は狭い。顔にあたる部分には図書館のキャラクターを模した表情の映像が写し出されている。
「ロボットが導入されるまでは、人が本を探し出して届けてたのかな」
 前回見た膨大な本の量を思い出し、ふと疑問が口をついて出た。
『はい。本図書館では、技術導入以前はスタッフが本を利用者に届けていました。その頃には約二十分の時間を要していたところ、現在では五分以内でのお届けが実現できています』
 返事が返ってきたことに驚き、思わず辺りを見回したが、すぐにロボットが発したのだと気が付いた。図書館というアナログな場所にロボットがいるアンバランスさに、少し混乱していたのだろう。普段だったら動じないロボットの返答にも、つい反応してしまった。
「そうよね。ロボットは話すわよね」
『はい。いつでも気になることがあれば、お声がけください』
 はたから見たら滑稽に映っただろう。あたりを見渡して誰もないことに安堵あんどする。
「人が少ない時間でよかった」
『はい。平日のこの時間はお客様が比較的少なく、過ごしやすい環境となっております』
「うん。教えてくれてありがとう」
『お役に立てて光栄です』
 普段は特に気にかけないロボットとの会話も、この環境では何だか特別なもののように感じた。現代の私たちにとっての当たり前が、当たり前でなかった時代があったのだろうな。そんな物思いにふけった。

  ロボットは読書スペースまで本を届けてくれると、本を机の上に置き、きびすを返して元の場所へと戻っていった。読書スペースにもほとんど人がおらず、ロボットがいなくなったことで、より寂しさが増した気がした。

 閉館の時間が近づいてきた。今野さんの話を聞いたからか、前回よりは取り組みやすかった気がする。気になった表現は、端末のノートに書き記した。だけど、これをどう私のエディットに活かせばいいと言うのだろうか。考えれば考えるほど混乱してきた。まだ1週間ある。今日はこの辺にしておこう。本を返却して帰ることにした。
 さっきロボットと一緒に来た道を戻っていると、どこからか話し声が聞こえてきて思わず立ち止まる。
「俺からも話してみたけど、やっぱり上の考えは変わらないようだ。別館から移す本のスペースを確保するために翻訳書は倉庫行きに決めたの一点張りだった」
「どうしてですか。“紙の本”としての希少価値は同じでしょう。翻訳書に触れられる場所は、もうここにしかありません。別館にデータセンターを増設すると言うのであれば、蔵書を移すスペースを別の建物に作ればいいじゃないですか」
 聞こえてきたのは、年輩の男の人と話す今野さんの声だった。このまま、まっすぐ歩けば恐らく鉢合わせてしまうだろう。そう思い、廊下の脇に入ったところにある休憩スペースに入ってしのぐことにする。
「予算が下りないんだとさ。電子書籍の数は年々増えて、AIが進化するに連れてそのスピードは上がっている。このままじゃそのデータを保管するためのサーバが足りないが、新しく建物を建てる金はない。だから古い本をどかしてスペースを作ることになった。説明はそれだけだよ」
「だからと言って、文化的に価値の高い“紙の本”を奥底にしまってしまうのは、文化を途絶えさせてしまう悪手だと思います」
 二人の会話が嫌でも耳に入ってきてしまう。立ち聞きのようで気分が悪いが、息を殺して動かないでいることしかできない。
「とりあえずは一時的な措置だよ。きっと予算が付けば、どこかに観光施設として記念館でも作って寄贈してくれるさ。お前も新しいジャンルを担当できるんだし良かったじゃないか」
「そんな……」
「悪いけど俺じゃあ、これ以上は力になれないよ」
「……すみません。取り乱しました。無理を言って上に掛け合っていただき、ありがとうございました。私も何かできないか考えてみます」
「おう」
 会話が終わったようだ。鉢合わせないように、少し時間を空けて返却に向かおう。そう思っていると、こちらに向かってくる足音と大きなため息が聞こえた。
 嘘、こっちに来る。そう思ったときにはもう遅く、角を曲がって休憩スペースに入ってきたのは今野さんだった。
「あ、いや。その……」
 挨拶でもして、しらを切ればいいものの、そんな器用なことはできず動揺を隠せなかった。
「もしかして、聞こえてましたか?」
 今野さんは、アッという表情を見せると、そう聞いてきた。
「ごめんなさい。聞くつもりはなかったんです。これを返しに行く途中で」
 申し訳ない気持ちで本を示しながら、今野さんを見上げる。
「こちらこそ、もう利用者の皆さんがお帰りになられたと思い込んでいたものですから。お聞き苦しいものを失礼いたしました。今日もお仕事ですか?」
 今野さんが恥ずかしそうに頬を掻きながら言った。
「あ、はい。ちょっと仕事でいろいろあって、また勉強しに来たんです」
「今回も何か課題が出されたのでしょうか?」
「いえ、今回は課題と言うか、スランプと言うか……」
「スランプですか」
「はい。この前、図書館で“紙の本”を読んでから作業のペースが落ちてしまって。これまでは悩むことなく行えてた作業に、自分の思考みたいなものが生じるようになったからだと思うんですけど」    
 今野さんは感心したような表情を浮かべ、続けて聞いてきた。
「それまでは自分の思考なしで、どうやってエディットを?」
「最近だと、エディットもルール化されてきているんです。この文末のときにはこう変えて“人間味”をだす、みたいな。だからスピードを重視するには無駄な思考はかえって邪魔なんです」
「“人間味”を出すために人間の思考を排除するなんて不思議ですね」
「最近はAIの生み出す作品量も増えてきてスピード重視なんです。あっ」
 さっき今野さんが上司と話していた会話が頭によみがえってきた。
「“紙の本”の置き場所を奪うくらいのスピードですからね」
 自嘲気味に笑いながら、今野さんは自販機にカードをかざした。液体の入ったペットボトルが落ちる音が静かな部屋に響いた。
「私たちは、そういうつもりじゃ」
「分かってますよ。少し意地悪なことを言ってしまいました。こちらお詫びです」
 そう言うと、今野さんはお茶のペットボトルを手渡して、私の座るベンチの隣に腰かけた。
「あ、ありがとうございます」
「仕方ないのは分ってるんです。効率化を重視する現代において翻訳書の価値は認められていない。翻訳書の原作はAIによって変換されて、現代版として電子書籍でも読めますからね。それでも、人の手によって紡ぎだされてきた翻訳だからこそ残さなきゃいけない」
 最後の言葉は、自分に言い聞かせているようにも聞こえた。その思いに打たれたのか、私の心の奥底に暖かいものが生まれたような気がして、手元にある翻訳書を見つめる。
「昔の翻訳者って本当にすごいですよね。原文の一ワードを余すことなく日本語に置き換えて、かつ自然な表現になるように作られているなんて。きっと長い時間をかけて紡がれていたんでしょうね」
「うん。一冊を翻訳するのに短くても数か月はかかっていたらしいです」
「そんな長い時間が一冊に詰まっているんですね。途方もない作業に思えます」
 翻訳者の苦労を想像しているうちに、喉が渇いてきた。
 いただいたペットボトルのふたを開け、一口飲む。
「そうだ!」
 今野さんは急に立ち上がると、こちらを見た。
 驚いて口に含んだお茶を吹き出しそうになり、慌てて飲み込む。
「翻訳してみたらいいんだ」
「翻訳をですか? 誰が……」
「君が翻訳するんだよ!」
「私が?」
 口調が砕けていたことをごまかすように咳払いをして続けた。
「エディットをするときにルール通りにいかず、自分の思考が生じてしまうと話してましたよね。それって、翻訳が出来上がるまでのプロセスが理解できていないから、とらえどころのない思考が生まれているんじゃないでしょうか。であれば、翻訳をしてみて、そのプロセスを理解してルール化してしまえばいいんです」
 一度聞いただけでは理解しきれなかったが、反芻はんすうすることで思考が追い付いてきた。
「なるほど。でも私、翻訳なんて大変な作業できません。やり方も分からないですし」
「英語は得意ですよね」
「はい、話すだけであれば」
「であれば、十分だと思います。私が教えられるところは教えますので、一緒にやってみませんか?」
 前のめりで、かぶせ気味に話す今野さんに気圧される。
「でも、期間が一週間しかなくて。とても数か月は」
「短編を使えば大丈夫です。藤堂さんになら出来ますよ。だって藤堂さんは――」
『まもなく閉館のお時間となります。どなた様もお忘れ物がないかお確かめの上、お帰りくださいませ』
 言葉を遮るようにして閉館のアナウンスが流れた。
「あっ、まだ本を返してない」
「私が返しておきましょう。その代わり、さっきの翻訳の件、考えてみてください。作品は明日までに見繕っておきますので」
 そう言うと、今野さんは私から本を取り上げて、返事を聞かずにその場を立ち去ってしまった。
 また明日も図書館に来ることが確定してしまった。元から来るつもりだったから良いのだけれど。
 翻訳か。まさか自分がやってみるなんて考えもしなかった。きっと大変だろうな。でも、こんな機会がないと一生やらないだろう。少し胸が高鳴る感覚がある。

 家に着くころには、今野さんに何と返事をするか、もう決まっていた。


第二章に続きます。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
よろしければ、もう少しお付き合いください。
◆ 第二章はこちらからお読みいただけます。

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