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たりない思い(第三章)/小説【創作大賞2024・お仕事小説部門】

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【前回までのあらすじ】
 舞台はAIが人間の代わりにエンターテインメントを作り出すようになった未来。
 ナツ(藤堂菜月)は、AIが作り出した作品に”人間味”を足す仕事である“ヒューマンエディター”として働いている。

 ”翻訳”を通して学びを得たナツは、仕事のスランプを脱したように見えた。しかし、上司からの指摘を受けたことで、自分のやりたいことと、仕事で求められることの差に苦しむようになる。
 そのなかでナツは、これまで忘れていた自分の記憶を思い出し、その記憶に今野が関わっていることを知る。
 
 父はなぜ亡くなったのか、自分はどう仕事をしていくのか。
 ナツは過去と自分の思いに向き合うことを決意した。
 
翻訳はAIに代えられる仕事なのか。
エンタメがAIに奪われた世界を通して
翻訳に焦点を当てたお仕事小説。



― 8.真実 ―


 窓の外では、景色が瞬く間に移り変わっていく。もう富士山は通り過ぎてしまった。見逃してしまったことに、少しだけ損した気分になる。考え事に集中していたせいだ。
 あの日、今野さんと別れて自分の家に帰ると、すぐに母に電話をした。週末に帰ると言うと、急すぎると驚かれた。
 まだ、聞きたいことがあるとは言っていない。これまで先送りにしていた分、言い出すハードルも上がっていた。しかし、逆に時間が経ったからこそ、整理がついた状態で話ができるのではないかとも期待している。
 もうすぐ新幹線が名古屋駅に着く。アナウンスが流れ、周りの人がちらほらと荷物をまとめ始めた。
 私も降りる準備をしないと。リュックとお土産の入った袋。一泊二日の予定のため、荷物はコンパクトだ。
 名古屋駅に到着し、新幹線を降りる人の列にタイミングを見て加わる。いつも帰るのは帰省ピークの時だったから、今日は比較的すいている。
 名古屋駅から電車で一本の場所に実家はある。高校までは地元で、大学生の時に東京に出てきた。地元の大学でも良かったが、就職活動の際に少しでも選択肢の幅を広げられた方が良いと母親に推されて東京の大学に入った。
 
 最寄駅に着き、慣れた実家への道を無意識に歩く。新幹線の中では、ずっと話の切り出し方を考えていた。これまで何も聞かなかったのに、急に父と祖父の事を聞くなんて不思議がられるだろう。
 でも、これまでの経緯をすべて話すのははばかられる。あまり仕事の事で心配されたくないからだ。 
 大学までは母親に薦められるままに選択肢を選んできたが、就職先は母親の反対を押し切って決めた。だから、仕事でうまくいっていないとは知られたくない。
 けれど合点がいかないことがある。今野さんから返してもらった本に書いてあったのは。母方の祖父の名前だ。母の父親が翻訳者だったと言うのに、なぜ“紙の本”を毛嫌いしていたのだろうか。
 そうこう考えているうちに家の前に着く。一呼吸おいてから、チャイムを鳴らした。廊下を歩く音が聞こえ、ドアが開く。
「おかえり。急に帰ってくるって言うんだから、びっくりした。早く入りなさい」
「うん、ただいま。これお土産」
 東京土産を手渡した。
「ありがとう。これでお茶しましょうかね」
 
 母が紅茶の入ったポットを持ってくると、テーブルを挟んで私の向かいの席に座った。
「それで、何か言いにくい理由があって帰ってきたんでしょう。いつもは長期休暇の時にしか帰ってこないのに、理由も言わずに急に帰ってくるなんて」
 母にはいつもすべてを見透かされている気分になる。
「実は、聞きたいことがあってさ。これなんだけど」
 そういって、今野さんから返してもらった本を差し出す。
「おじいちゃんの本じゃない。どうしてあなたが持ってるの?」
「なんか、引っ越しの時に荷物に紛れてたみたいで。最近、見つけたんだよね」
 我ながら、いい理由を考えたと思う。
「それで、これがどうしたの?」
「やっぱり、おじいちゃんは翻訳者だったんだね。私、おじいちゃんやおばあちゃんのこと、それに、お父さんのことも良く知らないって気づいたの。だから教えてほしいの」
 母は、祖父の本の背表紙をなでながら答える。
「そうね。私も話すのを避けていたし、あなたにも気を使わせていたと思う。あるのは子供の頃の記憶だけよね」
 祖父は私が生まれる前、祖母は五歳になる頃に、父も私が十歳の頃にはもう亡くなっていた。
「いつか話そうと思っているうちに、こんなに時間が経っちゃった。どこから話そうかしら」
 母は紅茶を一口飲むと、話し始めた。
「おじいちゃんは翻訳者だったわ。ちょうどAIのエンタメ参入が始まる頃だったから、あまり余裕のある家庭ではなかった。おばあちゃんがその分もたくさん働いて、私を育ててくれたの」
 母が“紙の本”にあまり良い印象がない理由は、祖父の仕事にあるのかもしれない。母の言葉からは、祖母への申し訳なさと感謝、祖父へのあきらめにも似たような感情が受け取れた。
「でも、そんな祖父でも慕ってくれる人が多くいてね。その一人がお父さんよ。おじいちゃんの教え子だった」
 父が翻訳者志望であったことに驚いた。同時に、なぜ父が婿養子に入ったのか、ずっと疑問に思っていたことが解消された。
「でも、お父さんは翻訳者じゃないよね」
「そうね。もう、あの頃には翻訳者という仕事がほとんど残っていなかったから。それでもあきらめきれずに、少しでも翻訳に近い仕事をと思って、ヒューマンエディターになった」
 父がヒューマンエディターだったなんて知らなかった。私の前では仕事の話をしなかったから。それと同時に怒りにも似た疑問が湧き出た。
「じゃあ、どうして私がヒューマンエディターになるって言ったときに、あんなに反対したの?」
 母は一瞬ためらった後に言った。
「お父さんが仕事で苦しむ姿を見てきたからよ」
 全然知らなかった。思い出すのは、いつも楽しそうに“紙の本”を読む父の姿だった。
「あの頃はヒューマンエディターという仕事ができたばかりの時代でね。まだ、手探りの段階だったの。だから、最初は海外の作品に関わって、翻訳寄りのやりたいことができていたみたい」
 お父さんも同じ分野を担当していたんだ。
「でも、だんだんとエディットのルールができて、スピードが重視されるようになった。その中で、翻訳とヒューマンエディットで求められる“人間味”に悩むようになった」
 私と同じ状況だ。今はルールが確立してきているが、変革期であれば、もっと悩むことも多かっただろう。
「自分のやりたいことと、社会から求められることの間で苦しんでいた時は、家で“紙の本”を読んだり、翻訳をしたりすることでバランスをとってたわ」
 母は祖父の本を持ち上げて、悲しげな目で見つめた。
「でも、仕事が忙しくなって、その時間が取れなくなった。それで相当追い詰められたのね。彼はこの世から逃げることを選んでしまった」
 
『精神的にマイッテ会社から“飛び降りた”」
 あの時の言葉が、今になって痛みとなり襲ってきた。
 
「私たちのことが大事じゃなかったわけじゃないの。ただ、あの時は精神的にも身体的にも辛さを感じていたから。視野が狭くなっていて、それしか選べなかったんだと思う」
 母は少し笑って続けた。
「まあ、今は整理がついてるから言えるけど。あの頃は、結局翻訳の事しか考えてなかったんだって悲しくって仕方なかった」
 母が“紙の本”を段ボールに詰めている姿が思い出された。
「だから、“紙の本”を捨てたの?」
 驚いたように目を開くと、母は笑って言った。
「捨てたと思ってたのね。捨ててないわよ。正確には、あの人の大事なものを捨てられなかった。今も地下室の段ボールの中に入ってる」
 母は“紙の本”を捨ててなかったんだ。
 亡くなった父は戻ってこない。それでも記憶や思い出は、まだここにあるのだと分かり、父が今でも近くにいるような気がして涙がこぼれた。
 
「そうだ。ちょっと来て」
 そう言うと、母は地下室に向かった。
 あの日以来、あまり近づかないようにしていた地下室。
 階段を降り、懐かしいドアが現れる。そこを開くと、胸がキューっとなるあの匂いがした。
「確かこの段ボールの中に……あった!」
 母は一つの段ボール箱を開くと、ノートと洋書を取り出した。
「これは、お父さんが翻訳していた洋書よ。途中までだけど翻訳のノートも残ってる。これは最後まで翻訳できなかったのね」
 ノートと洋書を母から渡され、中身を見た。文章を紡ぐ、父の力強い字で埋め尽くされていた。
「ねえ。あなたも翻訳に魅入られたんじゃない? それで知りたくなって帰ってきたんでしょう」
 母には何でもお見通しのようだ。
 私は今、あらがいようがないほどに翻訳に魅力を感じている。ヒューマンエディターとして求められるものに応えなきゃいけないと抑圧されたことで、その思いは増幅していた。
 翻訳は社会から必要とされていないから、そんなものは追い求めてはいけないと見ないふりをしている。
 でも、もう自分に嘘はつきたくない。
 誰かに求められる生き方ではなく、自分で選んだ生き方をしたい。
「そうかもしれない。ねえ、これ貰ってもいい? 私が続きを翻訳してもいいかな?」
 母は諦めたように笑うと、言った。
「好きにしなさい。ここにある本は全部あなたのものよ」


― 9.意思 ―


 翻訳がしたい。私の本心だった。
 “紙の本”が好き。私が大事にしていたものだった。
 でも現実的に考えた時に、この思いを成就させるのは難しいことだとも分かっていた。
 翻訳も“紙の本”も、現代においては求めている人が少ない。仕事にはできないだろう。
 じゃあ、ずっと趣味として続ける? 本業はヒューマンエディターを続けて、その時間は自分の思考を殺し続ける。
 でも、それだと自分の人生を生きられていないように思う。きっと限界が来るだろう。
 社会から求められていないことを続けるためにはどうしたらいいのだろうか。
 実家で過ごしている間、ずっとこのことを考え続けていたが、結局答えは出ずに土日が過ぎ去った。
 自分の気持ちが変わっても、仕事で求められることは変わらない。ぐるぐるとした考えを頭の隅に追いやって、ヒューマンエディターとしての職務をこなしていく。
 自分の思考を消して、ルール通りに目の前の文章を整える。時間に追いかけられるように、ただひたすらに手を動かす。
 ヒューマンエディターの仕事が嫌いなわけではない。パターン化されたものを一つずつ取り組んでいくことは向いているのだと思う。
 入社当初も、他の人が苦労していた仕事も難なくこなすことができた。適職なんじゃないかとさえ思う。
 だからと言って、自分が満たされるわけじゃない。
 私は翻訳が好き。AIではない人間の思考から生み出されるものを大事にしたい。そのために生きてみたいんだ。

 その日の午後、桜庭さんに話をする時間を取ってもらえるよう、お願いした。
 会議室の中、ドアの手前の席で桜庭さんを待つ。
 自分から時間をもらって話すのは初めてだ。話をしたいと告げた時、桜庭さんも驚いていた。
 ドアが開き、桜庭さんが会議室に入ってきた。
「お疲れ様です。お時間いただき、ありがとうございます」
 桜庭さんが私の目の前の席に着いた。
「お疲れ様」
 桜庭さんは何も言わず、私の言葉を待った。
「今日、お時間をいただいたのは、今後の仕事の仕方についてご相談するためです」
 桜庭さんが「うん」とうなづくのを確認して、その先を続けた。
「私は今、ヒューマンエディターの仕事以上に、翻訳に興味を持っています。自分の思考を通して言葉を生み出していくことに魅力を感じたんです。その中で、その思考を省いてルール通りにエディットすることに、少し辛さを感じてきています」
 桜庭さんは、何も言わずに聞いている。
「もちろん、仕事はルール通りに取組みます。でも、これからずっと長い間、自分の気持ちを無視することはできないと思います」
 表情からは何も読み取れない。
「以前、桜庭さんのご友人は、翻訳を大事にしていたからヒューマンエディターにはならなかったとおっしゃってましたよね。それって、私が今感じているものと同じではないでしょうか」
 重い口を開くようにして、「うん、そうかもしれない」と答えた。
「翻訳は人が作った作品を扱い、ヒューマンエディットはAIが作った作品を扱う。でも、あいつが大事にしていたのは、自分の思考で作り手の意図をくみ取り、言語化することだった」
 私が感じているものと同じだ。
「私は、その部分を大事にしたいと思っています。ですが、やはりヒューマンエディターでは大事にできないのでしょうか?」
 桜庭さんは、少し考えるような顔をした後、少し笑いかけるように話し始めた。
「七瀬からも、藤堂が翻訳に近いスタイルを取り入れたことと、それを変えるよう言ったことを聞いた。効率を重視したいことも、ちゃんと自分の思考を取り入れたいことも、どちらも間違ってはいない」
 桜庭さんは「間違ってはいないんだ」と繰り返すと、続けて言う。
「けれど、今求められているのは効率のほうだ。だから、藤堂の最近のエディットは、翻訳に触れたことで“人間味”の確保とスピードのバランスが保たれていて良いと思っている」
 分かっていたけれど、理解してもらえるかもという淡い期待を抱いていたため、少しだけショックを受ける。
「けれど、それが藤堂にとって辛い作業なのだとしたら。別の道を考える必要もあるかもしれない」
 別の道。それは、この会社ではないということだろうか。
「藤堂にとっての大事なものに、俺や七瀬は寄り添えない。だから、俺の友人に会ってきたらいい。きっと何か、大事なものを大事にしたままで進むことのヒントになる」
 この会社の社員である立場上、同じ思いを抱くのは難しいだろう。それでも、否定するのではなく大事にする方法を見つけることを示してくれたのが嬉しかった。
「ありがとうございます。桜庭さんのご友人に会わせてください」
 
 その翌週の土曜日、桜庭さんのご友人に会うため、長野県を訪れていた。東京から長野駅まで一時間半程度。そこから、最寄りの駅までも一時間ほどかかった。
 電車を降りると、暖かい風が吹き去った。
 見渡すと、あたり一面畑。日の光に照らされた草木が同じ方向に向かってなびいていた。
「今年の夏は暑くなりそうですね」
 今野さんが言った。
「ほんとに。今から夏が怖いです」
 今回の旅は今野さんも一緒だ。翻訳をしている方に会いに行くことを伝えたところ、同行したいと言われたのだ。桜庭さんから連絡を入れていただき、今日会うことになった。

 畑の間の道を歩き続けて十数分。額にうっすらと汗が浮かんできた。
「あの家じゃないですかね」
 今野さんが平屋を指さした。瓦屋根に、風が通りやすそうな縁側。周りに他の建物がない分、開放感にあふれた空間だ。
 坂田と書かれた表札を確認し、インターホンを押した。
 その後すぐに「はーい」と聞こえた声は女の人の声だった。引き戸が開き、声の主が出てくる。
 ラフに一つにまとめた髪の毛に、丸い眼鏡。白いTシャツに黒スキニーといったシンプルな服装で、自然体に見えつつも整った印象を抱く。
「初めまして。坂田あきらさんですか? 私、桜庭さんの部下の藤堂です。それと、事前にお伝えしていた図書館職員の今野さんです」
「坂田です。遠いところ、来てくれてありがとう。そんなおもてなしもできないけど、上がってちょうだい」
 坂田あきらさん。桜庭さんのご友人だから、てっきり男性かと思っていたが女性だったことに驚く。
「お邪魔します」
 板張りの廊下を進むと、ふすまが開いており、畳張りの部屋が広がっていた。
「ほとんど仕事部屋で過ごしてるから、あんまりものを置いてないのよ。殺風景でごめんね」
 縁側に面する部屋に通され、ちゃぶ台を囲むように座る。
 持ってきたお土産を渡すと、お茶を入れてくれた。近所の方からもらったという新茶は、いつも飲んでいる緑茶よりもみずみずしく、さわやかな味だった。
「それで、翻訳の事を聞きたいんだっけ」
 坂田さんが切り出した。
「はい。私はヒューマンエディターとして働いているのですが、翻訳がしたいんです。エディットでは自分がやりたいことが叶わない。でも、翻訳では生きていくことができないと思っています」
 うなずくと坂田さんは言った。
「それで、先人の話を聞きに来たってわけね」
「今は趣味で翻訳をされていると聞いています。やはりヒューマンエディターをしながら、翻訳を趣味にするのが現実的なのでしょうか?」
 坂田さんは、少し考えた後に話し始めた。
「あなたにとって何が良いのかは私には分からない。だから、私の話をしましょう」
 お茶を一口飲むと、坂田さんは語った。
「桜庭から聞いてると思うけど、大学の頃、私はずっと翻訳をしてた。りつかれてたと言っても過言じゃないわね」
 そう言って笑った。
「でも、働きださなきゃいけないって時に、翻訳者の選択肢はなかった。もう、その役割はAIが担っていたからね」
 どれだけ力を注いでいても、必要とされてなければ仕事にならないのだと悲しくなる。
「私には翻訳以外に何もなかったから、どこの会社の面接で『翻訳を勉強してました』って言っても、AIに代替できることなんて勉強してても意味がないって門前払い」
 昔の話を面白可笑しく話していたが、苦しさもにじんでるようだった。
「なんで、社会は私が大事にしているものを大事にしてくれないんだろうって、あの頃は憤ってたわね。でも、だからこそ今の仕事に出会えた。」
 そういえば、桜庭さんは坂田さんが本業で何をしているのか教えてくれなかった。
「今はね、人のキャリアをサポートするような仕事をしているの。学生までは好きなことをしていられたけど、社会に出ると求められることをしなきゃいけない」
 人のキャリアをサポートするような仕事。何か特定の職種の名前を出さないことに、坂田さんのこだわりを感じた。
「社会では自分の大事なものが否定されることもある。でも、その人の大事なものを大事にしたままで生きてほしい。そのための手助けみたいな仕事ね」
 大事なものを大事にしたままで。私が求めている言葉だった。まるで心を見透かして言葉を救い取られたよう。
「あの時代はAI導入の過渡期だったから、特定の職業の働く場所が減ったこともあって結構、この仕事は需要があったのよ」
 今まで聞き手に徹していた今野さんが、口を開いた。
「坂田さんは、翻訳者の仕事がなくなるところを当事者として体験されたのですね。翻訳は、なぜ必要とされなくなったのでしょうか」
 坂田さんは、ちゃぶ台に肘をつき、斜め上の方を見て記憶を探るようにした。
「私が翻訳をしていた頃も、ITや医療、法務とかの産業翻訳はほとんど機械翻訳だったわね。機械が翻訳した文章を、翻訳者が原文を確認しながら意味や情報などが間違っていないかリサーチしながら確認し、日本語を修正する。ポストエディットという方法が主流だった」
 ヒューマンエディットに似た仕事だと感じた。でも、ヒューマンエディットの場合は原文の確認やリサーチは基本不要だ。
「小説といった本や映画などの映像作品は、エンターテインメント性を確保するために、一から翻訳する事が多かった。もちろん時間短縮のために機械翻訳も取り入れてたけど、一部ね」
 坂田さんは、お茶を一口飲むと続ける。
「でも、AIのエンタメ参入が始まると、それらの作品の翻訳もAIが担うようになった。そこで生まれたのがヒューマンエディット」
 そんな歴史があったなんて知らなかった。ヒューマンエディターとして知らずに働いていたことに恥ずかしくなる。
「さっき、翻訳が必要とされなくなったって言ってたわね」
 私と今野さんがうなずく。
「翻訳はまだ必要とされているわよ」
「「え?」」
今野さんと私の声が重なった。
「でも、図書館からは翻訳書がなくなります」
今野さんに続けて私も言う。
「ヒューマンエディターとしても、翻訳のプロセスは求められません」
 坂田さんはうなずくと言った。
「そうね。社会全体から求められるわけではない。でも、必要としている人もたくさんいるの」
 社会に必要とされないのに、必要としている人がいるとはどういうことだろうか。
「翻訳者の仕事がなくなったのは、作品自体もAIが作るようになったから。でも、人間が作った作品は翻訳者が手掛けるのが一番。ちゃんと作り手の意図を思考して翻訳する必要がある」
 坂田さんの言葉に同意して、大きくうなずいた。
「この世界にはまだ、自分の手で作品を作っている人がたくさんいる。世界各国にね。その作品には翻訳者が必要なの」
 図書館や授業の教材でしか、人の作っている作品なんて触れたことが無かった。自分で作品を作っている人を周りで見たこともない。
「その作品はどこにあるんですか?」
 今野さんが身を乗り出すように聞いた。
「作品を作っている人のコミュニティよ。半年に一度、“紙の本”の販売会を開いてるの」
 そう言うと、坂田さんは部屋の隅にある小さな本棚から、二冊の本を取り出した。私と今野さんにそれぞれ渡す。
「これは私の翻訳した本。海外の友人が作っている洋書を翻訳したものよ」
 二百ページほどの本で、中にはびっしりと日本語が敷き詰められていた。
「良かったら、あなたも参加してみない?」
 翻訳が必要とされる場所。そこで私も挑戦してみたい。そう思うや否や言葉が出ていた。
「やりたいです!」
「嬉しいわ。やりましょう。作品はどうしましょうか。知り合いを紹介できるけど」
「あの、これって使えませんかね」
 私は父親が途中まで翻訳を手掛けていた洋書を見せる。
「個人出版のようね。念のため、原作者に確認をとったほうがいいかもしれない」
「本に載っている連絡先に確認をとってみます」
 翻訳を仕事にできるかは、まだ分からないけど、どういう形で合っても関わっていたい。
 坂田さんと話すことで、これからの方向性が定まった。
 
 坂田さんの家を出て駅に着くころには、すでに日が暮れかけていて、空が少し赤く色づいていた。
「今野さん、今日は付き合っていただいて、ありがとうございました」
「こちらこそ、急に一緒に行きたいなんてお願いしてしまって、すみません。翻訳者の方の話を聞けて貴重な機会でした」
 電車を待つ間、ふと思い立って聞いてみた。
「今野さんは、翻訳をされないのですか?」
 今野さんは「はい」と答えた後、何かをためらいつつ口を開く。
「実は図書館の翻訳書を一部、いくつかのコミュニティ施設に寄贈することになったんです。その寄贈先の施設で翻訳のワークショップを開きたいと思ってます」
 夕日に照らされて、少し頬が赤く染まっていた。
「それ、とってもいいですね! 何かできることがあれば手伝わせてください」
 魅力的なアイデアに私もワクワクしていた。
「本当ですか? 藤堂さんにそのワークショップの講師をお願いしたいと思っていたんです」
 講師だなんて大それたことができるだろうか。少し不安だが、やってみたい。私が大事にしているものを、他の人にも知ってもらいたい。
「うまくできるかは分かりませんが。やってみたいです!」
 今野さんは大きく目を開くと、顔をほころばせる。
「藤堂さんならできます! 一緒にやりましょう」
 
 今日は私の人生が大きく動いた一日だ。
 きっと今日が過去になって振り返った時には、いつでも今の感情を思い出せるだろう。

 

― 10.希望 ―


 坂田さんに会ったあの日から、本業のヒューマンエディターの傍ら、父から引き継いだ洋書の翻訳と、ワークショップの準備に取り組んでいる。
 洋書の原作者とは、まだ連絡が取れていない。発行年から十数年経っているから、もうすでに連絡先が使われていないのかもしれない。
 許可が取れず販売会に出せなかったとしても、父の翻訳を完成させたい。その思いで今は翻訳を進めている。
 以前、翻訳をしたときには、自分の文体で好きなように翻訳をしていた。けれど、今回は父の翻訳の続きを作るから、文体を合わせなきゃいけない。父の翻訳とじっくり向き合った。
 文章からは柔らかいという印象を受けた。言葉の端々から読者へ語り掛けるような優しい思いが感じ取れる。だから、原文に忠実なのに頭の中にスッと内容が入ってくる。
 何を考えて、こう訳したのだろうか。
 文章を読むことで、父の考えが頭の中に流れてくるような感覚。まるで一緒に地下室で本を読んでいたあの頃のよう。すぐ近くに父を感じることができた。
 ヒューマンエディターとの折り合いをつけることには、やっぱりまだ苦労している。けれど、翻訳をしている間は私のものだ。誰も私の思考を奪うことはできない。

 ワークショップは今野さんがメインになって計画を進めている。少しずつ、図書館から施設への翻訳書の寄贈が進んでいるようだ。ワークショップの許可も施設からいただけている。
 ただ、一つ問題があった。
「全然、申し込みが入りませんね」
 今野さんが嘆くようにつぶやいた。
 二週間ほど前から申し込みページを開いているが、申し込みが誰一人として入っていなかった。SNSでも告知を出しているが、反応はない。何か手を打たなければならないが、策が思いつかない。
 そんな時、学生時代にメイがボランティアサークルの広報を担当し、イベントで集客に成功していたことを思い出した。メイだったら、何かいい案を思いついてくれるかも。そう思い、メイに電話を掛けた。
『へ~。面白そうなことやってるね! 集客? 今、何やってんの? じゃあ、映像配信やって見なよ。どんなワークショップをするのかを実際に見せるといいよ。私、録ろうか?』
 なるほど。確かにずっとスクリプトだけの宣伝だった。実際のワークショップを映像で試しに見てもらうというのは有効かもしれない。
「ありがとう、メイ。お願いしたい」
『オッケー。いつ録る?』
 メイがチームに加わると、あれよあれよという間にスケジュールが決まった。
 ワークショップのプログラムを今野さんと急いで作り上げ、撮影当日を迎えた。
「ナツ、表情かたい~。もっと笑って。はきはきしゃべって!」
 メイに指示されるままに、改善していく。

「うん。いいんじゃない? お疲れ様! これで編集するね」
 何度目かのカットでメイからOKが出る。
 最初は映像に出演することが怖かった。でも、一人でも多くの人に翻訳の魅力を知ってもらいたい。その思いから、出演を決めた。

 何本かコンスタントに動画をアップロードすると、思っていたよりも再生回数が伸びていった。翻訳をあまり知らない若い世代や、翻訳を知っている年上の世代まで、多くの人に見られている。
 けれど、同時に批判的なコメントも見られた。
『翻訳なんて時代遅れ』
『AIが変換した文章の方がうまい』
『話し方がうざい』
『誰がこんなワークショップ行くの?』
 もちろん、肯定的な意見も多くあった。だから否定的な意見は無視すればいい。メイも今野さんも、そう言ってくれた。
 分かってはいても苦しかった。
 また大事なものを否定されてしまった。
 誰かに分かってもらおうとした私がいけないんだ。
 自分の中だけに留めておけばよかった。
 結局、私は何も変わらないんだ。
 
 電話が鳴り、また通知が来たのかと不安になる。
 ディスプレイにはサユと表示されていた。ほっと安心して電話に出る。
『ナツ。メイから聞いて動画見たよ大丈夫?』
「ありがとう。心配して連絡くれて。大丈夫だよ」
 大丈夫だなんて嘘は通じないのだろう。サユは続けて行った。
『誰が何と言おうと、いつだって私やメイはナツの見方だよ。ナツの周りにいる人は皆そう』
 いつもは強い口調のサユだが、電話越しに聞こえた声はとても柔らかかった。
『何を言っても否定してくる人はいると思う。けど、そいつらはナツにとって大事な人? 違うでしょ。ナツにとって大事な人以外の言葉に惑わされちゃだめだよ』
 そうだ。私には、私の大事なものを大事にしてくれる人がいる。動画を見てくれた人も、否定してくる人だけじゃない。私の大事なものを分かろうとしてくれている人もいる。
「ありがとう。心強いよ。私、がんばるね」
『逃げたかったら、いつでも逃げな。私が代わりにガツンと言ってやるから』
「うん」
 私は一人じゃない。こんなにも人に恵まれている。いつでも味方でいてくれる人がいる。それで十分戦える。
 
 着々と準備は進み、初回ワークショップ当日を迎えた。申し込み人数は三十名と満員御礼だ。こんな大人数の前で話せるだろうか。
 不安に思っていると、脇からメイとサユが言う。二人ともサポートに来てくれたのだ。
「ナツなら大丈夫。何も心配することないよ。もう動画では何千人もの前で話したことがあるんだから~」
「何か言ってくる人がいたら、すぐつまみ出してあげる。ここで見てるから、安心していっておいで」
 私は一人で立っているわけじゃない。いつだって支えてくれている人がいる。
「うん。行ってきます」
 
 パイプ椅子をたたみ、運んでいく。さっきまで、人がたくさんいたことが嘘のように、部屋は閑散としていた。
「お疲れさまでした。ワークショップ大成功です。藤堂さんのおかげです」
 そう今野さんが笑いかける。
 ワークショップが無事終わった。
 最初は緊張でガチガチ。それでも、来てくれた人がみんな真剣に耳を傾けてくれていることが分かると、だんだん自然なコミュニケーションが取れるようになった。
 アクティビティの時間も皆、楽しそうに取り組んでいた。「先生」なんて呼び掛けられて質問を受けたときなんかは、むずがゆくって仕方がなかった。でも、少しでも分かってくれようとする人たちの存在が嬉しかった。
 もっとたくさんの人に翻訳を知ってもらいたい。この先も活動を続けていくためには十分すぎる熱意が生まれていた。
 
 月に二回のワークショップ、それ以外は父の後を紡ぐ翻訳と、忙しく日々を過ごしている。
 本業のヒューマンエディターは、桜庭さんと七瀬さんに相談して勤務日を週四日に減らしてもらった。
 翻訳の活動に取り組むと伝えた時、二人には反対されるんじゃないかと不安に思っていた。けれど、二人とも「応援してる」と言ってくれた。
 会社には、この活動を良く思わない人もいる。だから、何も言わせないために仕事も頑張る。
 今はまだ若さと熱意で両立ができている。けれど、決意を固めなきゃいけない時が近づいているのかもしれない。
 
 その日は、いつものように家で机に向き合い翻訳をしていた。ふと思い立ち、パソコンを立ち上げてメールを確認する。すると、父から引き継いだ洋書の原作者から返事が来ていた。
 海外に在住している日本人のようで、日本語で返信が来ている。
[連絡ありがとう。今はあまり使っていないアドレスだったので、お返事が遅くなってしまいました]
 やはり古いアドレスだったようだ。確認してもらえたことに安堵する。
[お父様の事は、共通の知人から聞いています。彼とは翻訳を通して交流がありました。彼ほどに翻訳を愛している人はいません。惜しい人を亡くしました]
 家族以外を通して父親を知ることは始めてで、新鮮な気持ちだ。
[菜月さんのこともよく話してくれました。“紙の本”を大切にする子だと喜んでいました。大きくなったから、もう一緒に読むことは無くなったけれど、きっとこの先の人生で本があなたを支える存在になると信じていると]
 ディスプレイの文字がにじんで、うまく読めない。涙をぬぐった。
[彼の言ったことは本当でした。本が、あなたと私をつないでくれた。ぜひ、あなたに私の本を翻訳して欲しい]
 ああ、お父さんは私の事を分かっていたんだ。
 そうだよ、お父さん。私は今、翻訳をしているよ。“紙の本”がいろんな人と出会わせてくれたよ。
 私の中に大事なものを残してくれて、ありがとう。
 きっと、これからも大事にするよ。もう手放さない。
 
 それからは、怒涛の日々だった。国内で数少ない“紙の本”を印刷してくれる会社を坂田さんに紹介してもらった。その納期に追われるように、手を動かした。
 ノートで翻訳した文章を確認しつつ、パソコンに入力する。最後に翻訳をもう一度確認し、データを印刷所に送った。
 息を大きく吸って、吐き出す。
「私、完成させたよ!」
 届くと良いな。
 
 販売会当日。その規模は思っていたよりも大きく、展示場をまるまる一つ貸切って行われていた。
 一緒に本を売ってくれる今野さんを待ちつつ、販売ブースの準備を始める。
 納品してか数日後に届いた単行本サイズの“紙の本”。
 サユが表紙のデザインを担当してくれた。サユらしい繊細な色使いで描かれた、夕方と夜の間に広がるグラデーション。物語の中で描かれる関係性の移り変わり、時代の移り変わりを表しているようだ。
「遅くなってしまい、すみません」
 急いできたのか、今野さんの額にはうっすらと汗がにじんでいる。
「いえいえ、私もさっき来たところですから」
「これを図書館に取りに行っていたんです」
 そう言って、長方形の紙の束を渡された。紙には交差する黒い線の模様が印刷されている。
「これは?」
「栞です。どこまで本を読んだのか、忘れないためのしるしです。購入してくれた人に一緒に渡しませんか?」
「いいですね。買ってくれる人がいるかは分からないですが」
「きっと皆、買ってくれますよ」
 開場のアナウンスが流れ、さっきまで空いていたスペースが一気に人で埋まる。
 “紙の本”を欲しいと思う人がこんなにいるんだ。
『必要としている人もたくさんいるの』
 あの日の坂田さんの言葉を反芻していると、声を掛けられる。
「藤堂さん。久しぶり」
 そういってタイミング良く現れたのは、坂田さんだった。もうすでに本を購入しているのか、重みのありそうな鞄を肩から下げている。
「お久しぶりです。あれ、今回は出展されないっておっしゃてませんでしたか?」
「そうよ。だから、今日はお客さんとして本を買いに来たの。一冊くださいな」
 知り合いとはいえ、一人目のお客さんだ。心が舞い上がった。
「ありがとうございます」
 支払いを確認後、本と栞を渡した。
「素敵な本ができたわね」
「色々教えていただいたおかげです。ありがとうございました」
 坂田さんは、笑顔で首を振る。
「翻訳を完成させたのは、あなたの力よ。本当にお疲れ様。あら、お客さんが来たみたい。いったん失礼するわね。また来るわ」
 そう言って坂田さんが立ち去ると、その後ろから十代くらいの女の子が現れた。
「あの、前にワークショップに参加して、それで本が欲しくて……」
 女の子は恥ずかしそうにうつむきながら言った。
「ワークショップにも参加していただいたんですね。ありがとうございます」
 本を渡す準備をしていると、女の子が切り出した。
「あの! 私、翻訳がしたくて。けど、翻訳は社会から求められていないから仕事にはならないって。でも、初めてなんです。これが好きだって心から思えたのが」
 その言葉からは強い思いが感じ取れた。きっと覚悟をもって、今日ここに来てくれたのだろう。
「翻訳に出会ってくれてありがとう。実は私もまだ、翻訳を続ける方法を探しているところなの。これから先、自分の大事をもって生きていくには、大変な思いもするかもしれない。それでも、よかったら一緒に探してみない?」
 そう言って、呆然としている女の子に本と栞を手渡す。
 女の子は、上に栞が乗った本を見て、つぶやいた。

「空にハシゴがかかってるみたい」
 
 これから、どう進んでいけばいいのかはまだ分からない。
 それでも、夕方と夜の間をつなぐハシゴのように、大事なものを次へとつないで行けたらいい。
 そんなことを願った。


こちらが最終章になります。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
あなたが大事なものを大事にしたまま、生きていけますように。

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